第3話


   組織

 独り暮らしを始めて、3ヶ月経った。

 のんびり老後を、というような余裕があるはずもなく、派遣の日雇い仕事をこなしながら、単調なその日暮らしを続ける。

 妻と子供達との、幸せだった日々は戻って来ない。

 孤独感が日に日に増していた。

 そんなある日、パソコンにメールが入った。

 メールアドレスの一部にShimizuとあったので、清水という名前なのだろう。

ne.jpという事は個人だ。

 電子書店に出展したおれの作品を買って読み、直接逢って話したくなったのだが、どうだろうか?という内容だった。

 恐らくサイエンス ノンフィクションのマニアなのだろう。

 おれは、自分では柔軟な思考回路を持っているつもりだが、過去読んだ書物の著者のほとんどは頑固で、一旦自分が主張を確立すると、それを曲げようとはしないし、大抵は他人の意見を認めようとはしない。

 おれも多少はそんな部分があるかも知れないが、少なくとも反対意見を持つ人間に自分の主張を押し付けたりはしないし、相手を論破出来るほどの学術的根拠も説得力も持ち合わせてはいない。

 どうせ、おれが書いた内容がどうしても気に入らず、論破してやろうと考えたのだろう。

 しかし今の味気ない生活に、何か波風を立ててくれそうな気がして、二度のメール交換で日時と場所を決めた。

 酒でも呑みながら、と考え、ショットバーが良いと望んだおれの希望を容れてくれ、彼が指定して来た、繁華街から離れた寂れた通りにある静かなショットバーに入った。

 客は、3組程いた。

 店内に流れているディープサウスの渋いブルースギターに不似合いな程派手なファッションの若いカップル、おれより一回り年の行ったような男性の二人組、そしてこれも場違いな格好をした高級そうなスーツを着こなしたエリートっぽい四〇半ばだろう男性と同年代の外国人だった。

 どの客もおよそサイエンス ノンフィクションを語るようなタイプではない。

 店に入って躊躇しているおれと視線が合ったエリートさんが手を挙げた。

 テーブルに近付くと、二人が立ち上がって社交辞令のような笑顔を見せて、おれを迎えた。

 「初めまして。私がメールを差し上げた清水です。彼はロビンと呼んで下さい」

 ロビンを見ると、人懐っこそうに微笑んで会釈した。

 欧米人は日本人の顔は表情が判らないというが、おれに言わせると欧米人の顔の方が、余程表情も年齢も判らない。

 肌は白いがストレートの黒い毛髪だから、ラテン系が少し混じっているのか。

二人とも理知的なタイプで大きな会社で役員か何かをしていそうな感じだ。

 多分彼らと論戦になったら、敗けるだろうな、一瞬でそう想った。

 バーテンにワイルドターキーのロックを頼んで、勧められた席に座る。

 「お忙しいのにすみません」

 「いえ、一年中暇ですから」

 運ばれて来たワールドターキーを一気に呑んで、今度はダブルで注文する。

 彼らも何かウィスキーの水割りを呑んでいた。

 「早速ですが、メールでもお知らせしたように、先生のお書きになった本を読ませて戴きました。今日は一応、先生の書いた本のファンとしてお話しさせて戴きたいのですが」

 《ほら、来たぞ。一応ファンだと?本当はファンなんかじゃないだろう?最初はソフトアプローチで、だんだん攻撃して来るんだろうな》

 「先生って言うの、止めてもらえませんか?おれは先生って呼ばれる人種が嫌いだし、先生って呼ばれたいとも思わないから。吉田って、名前で読んで下さい」

 それは本音だった。

 「おれは学者でも研究家でもないから。それにあんなの、気紛れの暇潰しに、思い付くままに書いただけで、確たる根拠なんてありませんよ。読み漁ったサイエンス ノンフィクションから引用しまくって書いただけで、偉い学者さんのように現地検証した訳でもないし、実証する金も暇もなかったからね」

 おれは論破されるのを覚悟で、ぐうの音も出なくなった時の布石を打って置いた。

 清水はおれの言葉を流暢な英語でロビンに通訳しながら、話を続けた。

 「我々は、貴方の説には、処々飛躍し過ぎる部分があると思ってはいますが、大筋では同じ考えを持っています」

 《えっ?こいつら、おれを遣り込めようと引っ張り出したんじゃないのか?》

 おれは一瞬口に含んだウィスキーに噎せかけ、驚いて清水を見つめた。

 「貴方が書かれた記述の全てを我々なりに調べて検証しました。巨大遺跡とオーパーツ、アダムとイヴの人口冬眠などに関して多少の飛躍があるとは判断しましたが。それ以外の部分で、貴方の推論は真実ではないかも知れませんが否定出来るとは考えていません。彗星の脅威、細菌の感染、核の危険性、氷河期の到来、気象コントロール、だからこそ特に最後のセクション、2012年12月21日に関する記述に関して、非常に興味を抱きました」

 清水は、笑顔を浮かべながら言ったが、何処かおれの表情を窺うような目付きをした。

 「あれは最近加筆した部分です。2012年12月21日問題がマスコミで加熱して来たら、話題に便乗して本が売れるかなと思っただけですよ。でももう1年もないし、ノストラダムスの時より話題にならないから、今更売れるとは思っていませんけどね」

 本心だった。

 おれはウィスキーを飲み干し、カウンターにいた店員に向かってグラスを掲げた。

 ロビンと一言交わした清水が続けた。

 「我々は、実際に何か起こると判断、憂慮して調査しています。2012年12月21日で人類が終わってしまうのか、人類が破滅する何かが始まるのかは判りませんが」

 《おい、何か、風向きが違って来たな?》

 「正直言って、おれは単に想像で書いただけであって、根拠も何も無いけど、あんたが、あんた達がそう判断する何かの根拠があるのか?」

 おれの問い掛けに清水は一瞬困ったような表情で、ロビンに話し掛けた。

 《オルグ?今オルグって言ったな?組織?こいつら、何かの組織?》

 清水とロビンの会話の中に「オルグ」という単語が確かに聞こえた。

 おれをただのおっさんだと思うなよ。

 50年間ロックを聴いて来たのだ。

 簡単な英会話のヒアリングぐらいは多少出来るぞ。

 「今、あんた、オルグって言ったな?あんた達、何処かの組織に属してるのか?」

 おれは清水に突っ込んで言った。

 清水はまた戸惑った表情を浮かべたが、すぐに元のような笑顔に戻した。

 「今は未だ話せません。時期が来たら我々の正体を明かします。少なくとも貴方の敵ではありません。ただ、吉田さんが書かれたように、我々の調査では、地球に衝突する軌道に入っている彗星は現時点で発見されていませんから、この1年以内に彗星が衝突して、という確率は低いと思います。核に拠るケースはわずかにありますが、貴方の書かれているように、全世界で全ての人類が滅亡するような同時多発的に核爆発が起こる可能性はほとんどない。温暖化の促進に拠る氷河期、氷期の到来も、可能性は高いが、全世界的に及ぶものではない。我々が最も危惧しているのは細菌です。強力な殺人力を持った細菌が世界中に拡散して、人類が絶滅する可能性はかなり高い。但し核と細菌は同じ原因に拠るものだと予想しています。それは貴方が想像されている方法と一致します」

 清水がテレビで時々観るような、何かを解説する学者か研究者のような表情で語った。

 「つまり、自然発生的なものではなく、狂信的な国家の経略か?」

 おれの問い掛けに対して、清水がロビンに通訳する事なく間髪を入れずに応えた。

 「或いは、狂信的で過激な団体か」

 東アジアやアフリカでは過激的なイスラム派が、既存の国家を相手に戦争を繰り拡げている。

ニュースを見聞きする度に、こいつらの資金源は何処から出ているのか、と不思議に想う。また、キリスト教でも、極左翼団体の存在は聴いた事があるし、映画「コンタクト」でも重要な役割を果たした。

 他に、イスラム教の過激派に劣らない偏執的、暴力的な宗教団体が潜んでいるかも知れない。

 実際、“人類は「私たちと似た様になった」を読ませ、出版社に持ち込もうという考えを明かした知人に、宗教や思想に関する書物を出版する時、反対思想の人間から脅迫や嫌がらせを受けるかも知れないので、本名は出さない方が良いと忠告された事がある。

 「団体?」

 「そうです。イスラム過激派の戦争は勿論ご存知でしょうが、貴方の作品のメインはキリスト教に関しての物ですから、勿論キリスト教。キリスト教の宗派や団体は取り付くしまもないほど沢山あります」

 「あんた達は、その、事を起こしそうな団体を特定してるわけか?」

 「それも時期が来たら話します。貴方にお眼に掛かって伺いたかったのは、書かれた内容以外に何か伏せていらっしゃる事がないか、或いはあの作品を書かれた以降に何か新たに発想されていないかという事を確認したかったのです」

 「伏せるも何も、さっき言ったけど、おれは2012年騒動に便乗したかっただけだよ」

 おれの応えに頷いた後、清水はロビンと少し長い会話を交わしてから、振り向いた。

 「先程のご質問に少しお答えします。我々の組織は、世界中の出版物や情報を、勿論インターネットも含めてチェックしているという事は申し上げておきます。最近は膨大な量の下らないブログやツイッターが氾濫して来て、そんな物までは調べませんがね。その作業の中で貴方の作品に出遭った。その団体が、我々同様に貴方の作品を読んで、貴方に脅迫や嫌がらせを仕掛けて来る可能性が無い訳ではない。私の携帯番号をお教えして置きます。何かあればすぐに連絡を。それと、2012年問題に関して、他に何か思い付いた事があれば、何でも、些細な事でも連絡下さい。我々はこれで引き上げますが、吉田さんは宜しかったら、呑んで帰って下さい」

 二人が立ち上がって、清水が一万円札を1枚店員に渡して、店を出て行った。

 おれの目の前には、氷が溶けてほとんど透明になったウィスキーのグラスが残っていた。

 店内に残っているのは、おれと、マスターらしい男と若い店員だけだった。

 おれはウィスキーのお代わりをして、煙草を咥えた。

 店内には相変わらず、渋いブルースギターをバックにした黒人の歌声が流れていた。

 ただの空想の遣り取りで終わるはずだったが、おれの人生を予定外の方向に向かわせそうな気がして来た。

 細菌?キリスト教の団体?

 清水とロビン?あいつら何者だ?

 世界中の出版物と情報をチェックしているだと?

 どんな組織なのだ?

 だが、少なくとも、やつが言ったように、おれに危害を加えるような立場ではなさそうだ。

 考えても、何もまとまらない。

 おれはしばらく呑んでから店を出た。


   妻との再会

 昨日の出来事を思うと、仕事をする気分ではなかったが、ドタキャンする訳にもいかず、おれは日雇い仕事に出た。

しかし、仕事をしながらも頭の中で、清水の言葉が渦巻いた。

 だが今日思案しても、何かが変わる訳でもない。

頼まれた残業を仕方なしにこなして、部屋に帰ったのは8時を回っていた。

衣食住に金を掛けない主義のおれは、帰りにスーパーの半額シールを貼った鳥肉を買って帰り、玉ねぎとキャベツを一緒に炒め、それをつまみにして愛飲している安物の焼酎の野菜ジュース割りを呑みながら、パソコンを開いてインターネットで検索してみる。

「キリスト教 団体」、「キリスト教 組織」。

何も出て来ない。

一杯出て来るが、判らない。

キーワードが漠然とし過ぎる。

キリスト教で、同性愛を禁じているとか、自殺を禁じているとか。

検索を十数回クリックして嫌になった。

何なのだろうな?清水達が言っていた、団体とは?

大体以て奴ら自体が、何の組織の人間なんだ?

若い頃は毎晩のように、ウィスキーをストレートで一瓶空にしても未だ物足りなかった。

焼酎の1対1の野菜ジュース割りを4杯も呑むと、大抵眠くなる。

何時もこれで年を取った事を想い知らされる。

シャワーを浴びて布団に入ると、あっと言う間に寝てしまう。

明日も日雇いの肉体労働だ。


数日後、妻から珍しくメールが来た。

勤務していた歯科医が、先生が高齢になったので閉鎖する事になって、困っていたら知人の誘いがあって新しい仕事を始めたが、その事を逢って話したい、と。

妻に逢いたいと何時も想いながら、理由を探していたおれには願ってもない申し出だった。

急いで返信を送ると、すぐに返信があった。

ある一流ホテルのロビーで、3日後の土曜の午後を指定して来た。

ホテルのロビーなら、もしかして妻の気持ちが変わっていて、話の成り行きで、そのままホテルに部屋を取って、と期待に胸を弾ませながら、日雇いの仕事をこなし、その日を待った。

約束の時間に、指定されたホテルのロビーに行くと、妻がいた。

しかし、おれと同年代の男が並んで座っていた。

まさか、妻とその男が関係を持って?

この後、成り行きによっては、妻とホテルの部屋で、などと期待を抱いていたが、まさか逆にこの男と妻が・・・。

嫌な予感がしたが、平静を装う。

少し緊張した面持ちだったが、軽く微笑んで手を挙げた妻は相変わらず美しかった。

元々基礎化粧くらいしかしない妻だった。

どうして夫のおれが妻の向かいに座って、訳の判らない男が隣に座っているのだ。

少なからずむかつく。

男の正体が判らないのに、ろくな話も出来ない。

「元気だったか?子供達も元気か?」

「ええ、貴方も元気そう。日焼けしたわね」

在り来たりの挨拶もそこそこにしてソファーに腰を下ろし、コーヒーを頼み、男を見る。

恰幅の良い、何処かの大会社の社長か役員という感じだったが、妻が万一おれ以外の男と関係を持ったとしても、この男ではないと、確信した。

妻の好みの男のタイプは知っている。

ハリウッド映画が好きな妻の好みのタイプは野性的な渋い中年で、クリント イーストウッド、アル パチーノ、最近ではジョニー デップで、こんななまっちょろい丸型の男じゃない。

妻と出逢った頃はともかく、今のおれも余りクールでもワイルドでもないが。

まして潔癖症で自制心の強い妻だ。

金を積まれても好みでもない男に抱かれる訳がない。

しかし、おれ以外の男と妻が一緒にいる事に対して、おれは少なからず嫉妬していた。

「メールに書いたけど、この方の処でお仕事をさせて戴く事になったの」

妻が少し緊張した表情で男を会釈しながら一瞥して、おれに言った。

「何の仕事なんだ?」

穏やかではない心根を隠しておれが訊く間もなく、男が名刺を差し出した。

「初めまして。偶然私の知人から奥様が失業された事を知り、お仕事をお願いする事になったのですが、実は貴方が電子書店に出展された作品を拝読して大変興味を抱きまして、是非貴方にお眼に掛かりたかったのです。それで奥様を介して」

「おれの・・・」

《まさか!清水が話してた宗教団体?それが何故妻を?》

おれは絶句した。

判った。こいつらの正体が。

テーブルの上に置いた名刺をもう一度見直す。

名前は太田なにがし。肩書きは、《ノアの末裔》日本法人代表。

彼はビジネスバッグから彼らの組織の案内を取り出しておれに差し出した。

かつて一度読んだ記憶があった。

しかしおれはそれを初めて読む振りをしてゆっくりめくりながら思案を巡らせた。


一〇年程前の事だ。

おれが家に帰ると、妻が聖書を読んでいた。

昼間に女性が二人訪ねて来て、「聖書の勉強をしませんか?」と誘われ、余りに感じの良さそうな人達だったので、色々話をし、彼らが帰る時に、聖書を置いて行ったのだそうだ。

妻は昔から知識欲が旺盛で、勉強熱心でもあり、新聞を隅々まで読んでいたし、ニュース番組も良く一緒に見て、話し合ったりもした。

「訳の判らない宗教に嵌るなよ。印鑑を押すとか、金銭を要求されたりしたら断れよ」

「判ってるわ。私もそんなつもりはないし」

帰省の度にそれぞれの実家にある神棚を拝み、仏壇に線香を立てて手を合せ、子供達にも倣わせ、盆と正月に墓参りに行くという意味で一般的な信心はあったが、おれも妻も特別に宗教を重んじる方ではなかった。

週に一度、《方舟》と呼ぶ建物で、聖書を勉強するという集会があり、何度か誘われていたようだったが、一度も行った事はなかったはずだ。

ただ、彼女達が来ると部屋に招き入れ、長い時間語り合っていたし、おれが休みの日にはおれも一緒に話もした。

彼らは互いに名前ではなく、「同志」と呼び合った。

毒にも薬にもならないような内容の世間話ばかりだったが、月に一度彼女達が持参する会報のようなものは、やはり宗教団体である事を認識させるような内容ではあった。

それを妻は良く読んでいたのだ。

それよりも、もっとショッキングな想いが浮かんだ。

妻がおれとのセックスを拒むようになったのは、まさかこのせいか?

 同志と呼び合う彼女達の話を聴き、会報を読むとはなしに読んでいて知ったのだが、彼らはセックスを否定していたのだ。

 肉の繋がり、血の繋がりを否定し、心、精神の繋がりを求める。

 それが愛であり、人類のあるべき姿だ。

彼らはそう主張するのだ。

 事実、おれも知っている彼らの仲間の何人かが結婚したが、相手も仲間同士で、結婚して数年経っていたが、子供が生まれたという話は聞いた事がなかった。

「偶然我々の同志から奥様が失業されたと聞き、私達の本部で事務の仕事をお願いしましたら、快く承諾されました。先程申しましたが、私は偶然電子書店で貴方の作品に触れ、購入させて戴いたのですが、内容に非常に興味を抱きまして、奥様にお仕事をして戴くようお誘いをお願いした同志から、偶然ご主人が貴方だと伺って、是非お眼に掛かりたいと思っていました」

微笑みを浮かべてバカに丁寧な言い草をしたが、眼が笑っていないように感じた。

自分の正体がおれに判ったからだろう、「知人」が「同志」に変わった。

逆だろう。

《“偶然”って言い過ぎだよ。おれの事を調べたら、“偶然”妻があんたらの仲間と知り合いで、“偶然”失業しそうになってたんだろう?》

清水はこいつらがおれに危害を加えるかも知れないと言っていたが、危害を加えるなら、おれの存在を知ったらすぐに何かしでかしたはずだ。

それなのに、妻を何故雇った?

おれが何かしでかさないように、妻を人質に?或いは、おれから何かを引き出そうと?

しかし少なくとも、すぐにおれと妻に対して危害を加える事はなさそうだ。

こんなでかい、世界的な組織だ。

清水の組織と同様、世界中の全ての情報を把握しているのだろう。

電子書店に出展した作品も、おれの住所や、妻の存在や、そして恐らくメールアドレスや携帯電話の番号も、何らかの方法で調べ出したに違いない。

今想い出したが、清水達も、おれのメールアドレスなど知らなかったはずだ。

おれはてっきり電子書店にメールアドレスを登録していたので、それを見てメールして来たのだと錯覚していたのだが、あれは著者の個人情報で読者には非公開だったはずだ。

また混乱しそうになって来た。

おれは組織の案内を最後まで読んだ振りをして閉じ、彼を見た。

しかし、何を言って良いのか、言葉が出ない。

こんなとんでもない巨大な組織にとって、おれみたいな存在などアリみたいなものだ。

「あの作品に書かれていらっしゃる以外に何かご存知かと、或いはご存知なのに伏せていらっしゃるとか、作品を出展された後にお知りになられた事などありませんか?」

清水がおれにした質問と同じだ。

「何もありませんよ。ただ思い付くままに書き溜めた物を出展しただけで、2012年の記述に関しても、ああいう内容にすると話題になって売れるかなと思っただけで。ところで妻を雇ってどんな事をさせるおつもりですか?」

「妻に何をするつもりだ」と訊きたかったが、やっとの思いで言い換えた。

「事務のお仕事をして戴こうと、いや、もう先日からして戴いてますが」

「それで良いんだな?」

やつが最後まで言い終わらないうちに、おれは妻に問い掛けた。

俯いたままだった妻がやっと顔を上げた。

何処か申し訳なさそうな表情だった。

「ごめんなさい。私の就職に貴方まで引っ張り出して。お仕事を始めて一週間程になるけど、皆さんとても親切にして下さって。通勤時間が少し長いけど、無理ではないわ」

所謂性的なジェラシーはなかったが、妻がおれの元から離れて、遠くに行ってしまったような虚しさを覚えた。

「太田さん?聖書に関して、貴方と改めて、もっと率直に、詳しいお話をしたいのですが」

妻への想いを振り切るようにして、太田に向き直ったおれは、挑むような言い方をした。

「その名刺の所在までいらっしゃれば何時でも構いません。但し、少々忙しい身なので、事前にご連絡を戴ければ」

やつはおれの言葉を待っていたように顔を輝かせて応えた。

出直そう。

今は何を聞いて良いのか、何を何処まで話して良いのか判らない。

下手な質問も出来ない。

清水に相談してからにしよう。

奴が必ず、何か助言してくれるはずだ。

「身体に気を付けて、頑張ってな」

おれは妻に声を掛けると、返事を待たずに席を離れた。


妻を抱けるかも知れないという淡い期待を裏切られ、妻への遣り切れない想いと、太田への腹立たしさをないまぜにした複雑な気持ちを引き摺りながら、おれは部屋で呑む気になれず、久しぶりに近所の焼き鳥屋に出掛けた。

色々な想いが頭の中を巡る。

一番気になっていた、妻が他の男と肉体関係を、というのはどうやらなさそうだ。

しかし、妻の心がもっと遠くに離れてしまったように感じた。

あいつら、妻に何かしでかしたら、ぶち殺してやる!

久しぶりに激しい暴力衝動が湧き起っていた。

何時どうやって帰ったかも記憶を無くす程酔っ払った。

翌朝、二日酔いにずきずきする頭を抱えて目覚めると、妻からメールが来ていた。

「今日はごめんなさい。あんな形で逢うとは想っていなかったのだけれど、太田代表がどうしても貴方に逢いたいと言って。本当にごめんなさい。お仕事は頑張ってみようと想っています。また連絡します」

妻はやつらの仲間になった。

そうでなくても、妻はやつらを受け容れたのだ。

言いたい事は色々あったが、今妻に何を言っても、無駄だろう。

「判った」とだけ返信して、日雇いの仕事に出た。


  二つの組織の正体

呑み過ぎた翌日に肉体労働をしたせいで極度に疲労した身体を引き摺って、何時ものように半額シールが貼られた鶏肉を買って部屋に帰る。

生活保護も受けていないのに、おれほどエンゲル係数の低い人間はいないだろうな、ふと自嘲したりもするが、別に高級な物を食べたいとも想わない。

永年の単身赴任生活で自炊力が身に付き、色々な調味料を試してみたが、肉は塩コショウ、魚は一味醤油に行き着いた。

塩、コショー、ガーリックをこれでもかと言う程振りかけた鶏肉を焼いて、焼酎を野菜ジュースで割り、眠気を我慢してパソコンを開く。


《ノアの末裔》。

会報では「宗教ではない」としていたが、税金逃れもあるだろう、便宜上宗教法人として、アメリカ、イギリス、日本に設立、それ以降も世界各国に宗教法人を設立し続けている。

 《同志》と呼び合う伝導者は日本だけで推定30万人以上、世界では推定1000万人で、その下部組織のような聖書の「研究生」は全世界でその3倍以上いる、という。

世界各国をさらに細分化して各地に支部を作り、それぞれの支部で《同志》達が聖書、月刊誌、DVD等の配布をしながら勧誘活動を展開。

組織の運営費は裕福な《同志》の寄付によるもので、会費などは徴収しない。

活動費も全て、《同志》の自己負担のようだ。

 《箱舟》と称する会館を自分達の手で建設し、そこで聖書の研究をするために毎週集会を設け、年に何度か各支部で大集会を行い、キリスト教上で意味のある日には世界規模で、各地で大集会を行う。

 聖書を研究し、聖書に従って生きるなどと綺麗事ばかり並べられていたが、ネット上での評判や噂を読むと、肉親、血縁という関係を排除し、またやはりセックスを否定しているようだ。

地球上の生物は全て神の創造物であると主張し、進化論を否定する。

おれは、出展した作品の中でも記述しているが、記述の根拠は「旧約聖書は真実である」「進化論は正しい」という二本の柱から成っている。

進化論を否定し、聖書が絶対正しい、つまり宇宙の万物を神が創造したとする彼らの主張とは異なる立場だ。

それが何故、おれに接触して来たのか。

改めて、やつらの組織の巨大さを思い知ってぞっとする。

しかし早い時期に太田に面会して、色々話を聴きたい。

おれの説が正しいのかどうか。

日本法人のトップなら、おれの質問に充分応えられるだろう。

組織の中での妻の存在も気になる。

ただ、おれが何もしなければ、やつらが妻に危害を加える事はなさそうだが、妻が人質になった、という想いは強まるばかりだった。

妻にその事をメールで伝えようと想い直したが、今の妻に何を言っても、おれより奴らの方を信用しているだろう。

それにメールを何らかの方法で読まれるかも知れない。

その前に清水に逢って話そう。

やつが何か教えてくれるかも知れない。

おれは清水に連絡を取った。

清水が電話に出たとたん、すぐに早口で応えた。

「この間はどうも、楽しい酒を呑めました。また呑みたくなったんですか?本当に酒好きな人だ。良いですよ。この前のショットバーで呑みましょう。明日、同じ時間に」

清水が、旧来の知人のように、しかし一方的にしゃべって携帯を切った。

清水も、携帯が盗聴されているかも知れないと感じたのだろう。

彼らはおれより《ノアの末裔》の組織の巨大さと内容を知っているはずだ。

 

 翌日の夜、おれは仕事が終わってから、先日清水達に逢ったショットバーに出掛けた。

 誰かに付けられていないか?

 後ろを気にしながら、店に入る。

 おれを見て手を挙げたロビンの席に歩み寄った。

 「清水は?」

 「ここにいます」

 背後から声を掛けられた。

 「貴方が尾行されていないか、駅から少し離れて歩いて来ました」

 清水と一緒にテーブルに付き、先ず気付け薬のつもりで、ワイルドターキーを一気呑みする。

 「やっぱり想像した通り、奴らが貴方に接触して来ましたね?実は、あの翌日から貴方の跡を付けていたんです。貴方が嫌がるかと想ったので貴方の了解は取らなかったんですが、一応何かあったらと、身辺警護も含めてね。だからホテルで奴らの日本法人の代表と面会されたのは知っています。ただ、奥様がやつらの手の内に入られたのは想定外でした」

 清水が真剣な顔をして話し始めた。

 おれはウィスキーのお代わりをして、黙って聴いていた。

 「奥様をやつらから切り離す手立ては、今の処ありません。洗脳とは少し違いますが、やつらの事を信じていらっしゃるから。やつらの事は調べられましたね?」

 「調べたよ。とんでもない組織だ。処であんた達は何者なんだ?何でやつらに眼を着けてるんだ?何を探ってるんだ?」

 清水がロビンを見て、ロビンが無言で頷いた。

 「我々は国連の下部組織の者です」

 「こ、国連っ?って、あの、国連っ?か?」

 おれは素っ頓狂な叫びを揚げて、すぐに辺りを見回した。

 客は他にはいない。

流れているブルースの音量が大き目なので、マスターにも店員にも聞こえないだろう。

 「大丈夫です。ここの従業員は彼らの仲間ではない。調べてあります」

 おれはもしかしたら、いや、もしかしなくても、もうとんでもない事に巻き込まれてしまっているのだ。

 ただの暇潰しに書いたサイエンス ノンフィクションのせいで。

 「そうです。ただ非公式な組織なので組織名はありません。世界の平和、人類の調和を乱す組織を調査し、警戒し、場合によっては」

 「潰す、か?」

 「そういう最後の手段を取る事もあるので、非公式な組織なのです」

 SFも好きだが、スパイ物も嫌いではない。

 おれはもう腹を括って、清水達に乗る事にした。

 「国連には同じような非公式のセクションが無数にあります。戦争や紛争だけでなく、人類の存在を危うくするような組織や国家は世界中に沢山ありますから」

 「しかし、奴ら、組織はでかいが、虫も殺さないような大人しい団体じゃないか?でもおれには、それが胡散臭く感じるけどな」

 「その通り。胡散臭い。確かに人畜無害な宗教活動をしていますし、過激な組織は、今の処ないようです。ただ、彼らはでかくなり過ぎた」

 「何で?でかくなっただけで危険なのか?」

 「彼らが、例えばいきなり国家になったとします。それも軍事国家」

 「国家?軍事国家?」

 「そう。お調べになったように、彼らは数千万人の組織です。現存する小さな国よりも多い。そして彼らはとんでもない資力がある。彼らの仲間、熱心な伝導者には、世界的な財閥のトップも多数いますし、欧米などの主要国の政党の政治家も多い。アフリカ、南アメリカの幾つかの国の大統領もそうです。彼らは国を買い取る事も出来る。そしてそこに全ての仲間を移住させて軍事国家を結成するとなったら。或いは、今のまま組織がさらに巨大になった処で、世界各国で武装蜂起したら」

 「数千万人の軍隊が出来て、武装蜂起された国は、いきなり内部に自国を脅かす第三の軍隊を抱える事になる訳か」

 なるほど、国連が危惧するはずだ。

 「そう。あっと言う間に世界中で最も大きな軍隊を持つ国家になります。武器など、金さえ払えば武器商人から幾らでも買える。今世界で最も危険とされているイスラム過激派など問題にならないほど強大になります。しかし、恐らくそれはないでしょう。目立ち過ぎますから。それに敢えて国家を作らないままで仲間を世界中に拡散させているとしたら。逆に我々はそれが危険だと判断しています」

 「そうか。国家を買い取ったり、軍隊を持ったりしたらすぐに危険な組織として世界中から否定され、場合によっては攻撃され、潰される。だからあくまでも静かに穏やかに、平和的に存在している、か」

 「そうです。これは我々の推定ですが、彼らが何かをしでかすとしたら、そういう意味で、最初に貴方に逢った時に話したように、我々が貴方の書かれた作品に興味を抱いた部分、細菌を遣って世界を滅亡させる。我々が最も警戒しているのはそれです」

 「お、おれが、書いた通りにか?」

 「そうです。命を捧げても良いという程熱心な《同志》を潜伏期間の長いある種の殺人的細菌に感染させる。そしてそのまま彼らは普通に伝導活動を続ける。或いは旅行に出掛けて、世界中を歩き回る。その《同志》達はもしかしたら何も知らされないままかも知れない。知らないまま感染させられて、周囲に菌をばらまき続ける。そして何時か世界中で患者が発生して、その時には既に手遅れになっていて人類は滅亡する」

 何てこった。

何という計画だろう。

 いや、おれもそういう方法を想像して書いたのだ。

 「そ、その菌は?やつらが開発して」

 「開発する方が、偶然性に頼らずに計画的に実行出来るので、その可能性の方が高いでしょう。彼らの仲間には勿論、ノーベル賞を受賞する程の、世界的に権威のある学者が何人もいるし、研究開発費も、恐らく欧米の先進国並みに持っている」

 「そして、それを2012年12月21日に?」

 「その日からその計画をスタートするのか、その前にスタートしてその日に、全ての人類が滅亡してしまうのか?」

 「奴らは生き遺るのか?」

 「判りません。彼ら自身も自らを滅亡の対象としているのか、それともキリスト教で言うところの神の思し召しとして彼らのみ生き遺るのか。ただ《ノアの末裔》と名乗っているのは」

 「ノアの洪水のように、奴らだけ生き遺るわけか。《ノアの末裔》に《箱舟》。そのまんまだな」

 「我々も、何も起こらない事を期待しているのですが、その可能性は高いでしょう。やつらが貴方に接触して来たのは、細菌で人類を滅亡させる、という企てを何故貴方が知り得たのか、それを知りたかったんでしょう。逆に貴方に接触して来た事自体が、その証明かも知れません」

 「何であんた達もやつらも、おれの考えなど気にするんだ?やつらもそうだろうが、あんた達の周りには優秀な科学者や研究者が一杯いるだろう?」

 「彼らは頭が堅い。事実に基づく事実、検証された事実しか信じないし、発言しない。今度の対象は今までと違って、人類の存在も発展も、現在の科学も論理も通用しない。ほとんど架空の世界、真にサイエンス フィクションだ」

 「何か気に入らないな。判った。それにしても、話が本当だとしてあと1年か?何てこった。それはそうと、おれはどうしたら良いんだ」

 「何もしないで、普通に生活して下さい。本当は我々と一緒に仕事をして欲しいのです。我々の元には膨大な資料がある。それを参考にして発想を広げて欲しいんですが、現状では、やつらにバレるとまずい。貴方に必要だと考えられる限りのデータをプリントして小荷物で宅配します。アナログな方法ですが、パソコンのデータは読まれる可能性が高いので、それが一番安全でしょう。貴方と同じ考えを持つ一個人を装って。発送は私の大学時代の親友に頼みます。ただ、日本法人のトップの太田と逢うつもりなんですね?その時に話した事を全て我々に教えて下さい。今後の判断材料にします。我々も引き続き、やつらの動きを探って、貴方に報告します。それとこれを。今後私に連絡を取る時はこれで」

 清水がバッグから携帯電話をおれに手渡した。

 「特殊な周波数を用いていますから誰も傍受出来ません。アメリカのスパイ衛星でさえ。それからもう手遅れかも知れませんが、パソコンと携帯の私とのメールの履歴を削除して下さい。未だ、私達と貴方が接触している事をやつらは知らないはずですから、今のうちです。やつらがハッキングするかも知れませんので」

「判った」

 おれは携帯を取り出して清水との送受信を削除し、ウィスキーを空にして立ち上がった。

 「すぐ帰って、パソコンもやって置くよ」

 清水とロビンが、にこやかに手を振った。

 

   語られた偽りの「真実」

 三日程して、清水が話していたデータが宅配されて来た。

 箱を開いて手にするが、膨大過ぎて何処から手を付けて良いのか判らなくなる。

 清水には悪いが、すぐに嫌になった。

 それよりも太田に遭って、話を聴きたい。

 おれがどんなにあがいても、人類の滅亡を防ぐ、世界を救うなどというだいそれた事は出来そうになかった。

 そんな柄でもない。

 ただ、おれが書けなかった、或いは?マークで残した幾つかの疑問の答えを知りたい。

 日本法人の代表ともなると、太田は恐らく知っているはずだ。

 何か解れば、清水にも教えてやりたい。

 おれは電話を掛けてアポイントを取ろうとした。

 電話は、妻ではない若い女性が取った。

 少し寂しいような、しかし妻が出なくて安心したような複雑な気分だ。

 電話に出た女性は、まるでおれの事を知らされているような対応で、大田に繋ぐ訳でもなく、二日後の午前中であれば、2時間程時間が取れると言った。

 おれはその時間に訪問すると告げて電話を切った。

 

 二日後、おれは太田を訪ねた。

 受付にも、ロビーにも妻の姿はなかった。

 でかい建物の最上階にある、代表の部屋に通されると、太田がにこやかに出迎えた。

 「奥様は非常に気の利く方ですね?てきぱきと仕事をこなされて、助かっています」

 おれにソファーを勧めながら、太田がお世辞とも言えそうな物言いをした。

 「今はおれには関係のない話です。それより早速ですが、おれが書いた物をお読みになったのなら、おれが旧約聖書に関してクエスチョン マークのままにした部分をご存知だと想いますが、それについて、貴方は真実を知っていらっしゃるのでしょうか?」

 「貴方は探究心が強いと言うか、想像以上に知識欲が旺盛なようだ。それに想像力も卓越していながら的確だ。良いでしょう。私が応えられる部分は応えましょう。ただ、私も教えられただけであって、それが真実とは限らないかも知れませんが」

 「なるほど。“カミ”に、こう語れ、と教えられたか?あるいは、《ノアの末裔》として、こう語らなければならない、と決められたか?つまり、貴方が答えてくれた事は必ずしも、おれが知りたい真実ではないかも知れない訳だ」

「そうです。ただ聖書の記述に忠実であるべきだという基本を守っているだけですから」

 「まあ、良いでしょう。貴方の答えに対しておれなりの真偽の判断をしてしまうだけだ」

「我々の《同志》ではない、他の聖書の研究者達も同様に、自分なりの結論を下していますしね。止むを得ないでしょう?」

 「解りました。では質問に入りますが、先ず、そうだな?“カミ”が“ヒト”を、アダムとイヴを創った。それは真実だろうが、二人の子供、カインとアベルは、カミが創ったのか、アダムとイヴがセックスをして生まれたのか、それともそれ以外の方法、例えばクローンのような、或いは試験管の中で細胞を増殖させるような方法で創ったのか?」

 「既にお調べでしょうが、我々はセックスを否定し、血の繋がり、肉の繋がりを否定しています。アダムとイヴの関係は、聖書の記述にもある通り、あくまでも“カミ”が、その像を《わたし達に似たように》創った“ヒト”の男性と“ヒト”の女性であっただけで、いわゆる夫婦という在り方ではなかったのです」

 「という事は、アダムとイヴは“カミ”のクローンか?」

 「“カミ”のクローンに近い存在ではありますが、“ヒト”です」

 「第三章第二二節の、アダムとイヴが『定めのない時まで生きる事のないように』という記述と、第六章第三節の『わたしの霊が人に対していつまでも定めなく働くことはない。彼はやはり肉であるからだ。したがってその日数は百二十年となる』という記述は、“カミ”は肉ではなかったという事か?それなのに、“カミ”自身のクローンであるはずの“ヒト”が肉だったのは、失敗だったのか?それを隠す為に敢えてわざわざ、禁断の木の実を持ち出したのか?」

 「いいえ。“カミ”に失敗など有り得ません」

 「クローンではない、という事は、その時現存していた類人猿か何かを遺伝子操作で“ヒト”にしたのか?」

 「私達は、聖書の研究者であって科学者ではありません。それにはお答え出来ませんが、それ以外に方法はなかったのではないでしょうか?強いて言えば、“ヒト”を肉として、その生命に敢えて限界を持たせた、という事です」

 「何故だ?“ヒト”が早く増えた方が、“カミ”の主旨に合ってたんじゃないのか?」

 「逆です。“ヒト”は老いて死ぬ。だから新しい生命を産み続ける。新しく生まれた“ヒト”は、それまでの知識に加えて新しい知識を産み出す。そうして“ヒト”は発展して来たのです」

 《嘘だ!嘘をついてる!》

 ずっと微笑み、おれの顔を観ながら話していた太田が、微笑みを消し、視線を泳がせた。

 「最初に戻るが、カインとアベルも、“カミ”が創ったのか?」

 「いいえ。“ヒト”、つまり肉であるアダムとイヴがセックスして、妊娠し、出産したのです」

 「では、アダムとイヴに禁断の実を食べさせて、セックスするように仕向けたのは何故だ?何故それに反してあんた達はセックスを否定する?」

 「本来聖書ではセックスを戒めています。ただ“カミ”が最初、“ヒト”がセックスするようにしたのは、クローンを作り続けるのが時間を要し過ぎると判断したからです。“カミ”には余り時間がなかった。いえ、正確に言うともっと早く人類が地球各地に大都市を沢山形成するほど発展する為には、クローンでは間に合わなかった。またクローンは同じ物しか作れない」

 「つまり、色々なタイプの“ヒト”を沢山作りたかった、という事か。という事は、人類がセックスして生まれて来る子孫は、その度に分岐して、変化して行く事を“カミ”は知ってた訳だ。それで《まことのカミの子》《カミの子》《ヒトの子》という記述が出来た訳か?“カミ”の男も女も、“ヒト”とセックスしまくって《生めよ、増やせ》と子孫を増やし続けた?」

 「その通りです。しかし、我々は、その分岐を進化とは規定していない」

 「解らないな。“カミ”が“ヒト”とセックスして“カミの子”“ヒトの子”が出来るのなら、“カミ”も肉ではないのか?」

 「“カミ”は、肉でなくても女性を妊娠させる事が出来た、という事です」

「男性器をスポイトのようにして、人工的に創った“ヒト”の精子を注入したわけか?」

「流石ですね。発想と展開の速さが素晴らしい」

「あんた達は《ノアの末裔》を名乗ってるな。ノアの方舟以来の子孫もそうだが、近親相姦のオンパレードだ。それを認めておいて、何故急に《モーゼの十戒》で姦淫、セックスを禁じたんだ?」

 「“カミ”が“ヒト”とセックスして“ヒト”が出来たのは、今話したように、そのようになるような特殊な遣り方をしたからです。“カミ”はやはり肉ではなかった。そしてノアの大洪水を経て、モーゼの時代まで“ヒト”が発展すると、“ヒト”の傾向が判って来た。だから、もうこれ以上増やしても、意味がない、と“カミ”が判断されたからです。それでも人はセックスを止めませんでしたが、教会の神父などのように敬虔な真のキリスト教徒はセックスをしません。我々が信じるのは、肉欲、性愛ではなく、肉欲を前提としない博愛なのです」

「おれは博愛というのを昔から信じられなくてね。綺麗過ぎて眼が眩むよ。それよりも、モーゼの時代には“ヒト”の傾向が判って来たとは?」

 「つまり、“ヒト”が生まれた後、どのように成長し、どのように思考、学習し、どのように発展するか、がです。そして恐らく禁じても、それでも“ヒト”はセックスをし、妊娠、出産を繰り返すだろうという事も、“カミ”は解っていましたから」

 「それで、その後、“カミ”はどうしたんだ?いや、もっと根源的な部分、“カミ”は何故、この地球で、“ヒト”を創ったんだ?」

 「何故かは判りませんし、それ以降の“カミ”の行動は私にも解りませんし、こう語りなさいという真実もない」

 大田の態度は最初から同じで、微笑んだまま穏やかに語っている。

おれの方はと言えば、だんだん口調がきつくなって、丁寧な話し方が出来なくなってしまっているのに気がついてはいたが、もう止まらない。

 「答えになっていないな。まあ、良い。話を変えよう。あんた達は、“ヒト”、いや、地球上の生物は全て“カミ”の創造物で、だから進化論を否定するという立場を取っているが、本当に信じていないのか?進化論は真実だと解っていても、聖書や“カミ”の存在を覆す事になるから、敢えて否定しているのか?」

 「我々は、創世記にあるごとく、地球、いえ、宇宙さえも“カミ”が創造したと確信しています。勿論全ての生物も含めてです。従って生物は進化した訳ではないという事です」

 「では、おれが書いた本の中で、おれは、聖書は真実である、そして進化論は正しい、という二本の柱があると説明しているが、それに関してはどう考えてる?」

 「貴方の書いた内容に対して興味を持ったのは、その部分もあります。つまり聖書が真実であると考えるなら、進化論が正しいという考えは矛盾している、と」

 「おれは、書いたように、女性の胎内に於けるあの細胞の成長過程を信じているから、進化論は正しいと主張しただけだ。だからむしろ逆に問いたいのだが、もし“カミ”が全てを自らの創造物だとするなら、何故“カミ”は女性の妊娠から出産までの過程で、女性の胎内であのような細胞の成長を遺したのだ。イヴの胎内を調べて解ったはずだから、その段階で抹消するか隠すか出来たはずだ。真実は、地球上の生命は、あのように進化したのであって、“カミ”はそれを観察していて、その順に創世記に書かせたのではないのか?だからおれは進化論が正しくて、それを記述した旧約聖書も正しいとしたのだ」

 「それも逆に言えば、“カミ”が創造した順を敢えて女性の胎内に遺したと考えます」

 「そうだとしたら、聖書の記述はあまりにもアバウトで、女性の胎内での生命の成長の過程はあまりにもリアル過ぎないか?」

 「聖書は歴史書であって、生物の書物ではないのですから、事細かく記述する必要はなかったのでしょう」

 太田の言葉が、少し鋭くなったような気がしたが、何処か暖簾に腕押しのような、はぐらかされているような想いがした。

 これ以上おれが望む真実を求めようとしても、結局は《ノアの末裔》で語り継がれている内容しか、引き出せないのではないか?

 おれは最後の質問をした。

 「2012年12月21日に人類が滅亡する原因を幾つか書いたが、おれに接触、いや興味を持ったという事は、それをあんた達は信じているのか?何が起こるか知ってるのか?」

 「いえ。解りません。マヤのカレンダーに着目した貴方の発想には敬服しています。我々は、その時に何かが起こる、という事は信じています。貴方の方こそ、何か他に想い付かれていらっしゃるのではないですか?」

 「いや、“カミ”のする事なんて、凡人のおれには想像も付かないよ。あんた達が何かするのではないのか?という気が、最近して来たがね、どうなんですか?」

 おれは恐らくはぐらかされるだろうと想いながらも、単刀直入に訊いた。

 太田は最初のように、穏やかに微笑んで言った。

 「貴方も、こちらに来ませんか?」

 《こちらって?仲間になれって事か?》

太田の言葉に、おれは一瞬躊躇したが、答えは先日妻と逢い、妻がやつらの側に入った事を知った時、「一緒に《同志》になりませんか?」と誘われたら言おうと用意していた。

 「いや、おれは俗っぽい人間でね、女と愛し合ってセックスしないなんて考えられない。もうそんな年齢でもなくなったがね。それでも恋愛願望も性欲もある」

 「残念ですね」

 「忙しいのにお手間を取らせてすみませんでした。引き上げます」

 視線を落とすと、コーヒーが運ばれていたのに気付いた。

 喉の乾きを覚えて、一気飲みして立ち上がった。

 エレベーターの中で、太田が最後の質問に答えていない事を想い出したが、答えてはもらえないだろうとは感じていながらの質問だった。

 おれは太田に逢いに来た事が愚かだったと感じた。

 やつは「こちらに来ませんか?」と言った。

 やつは、あっち側の人間だ。

 あっち側の人間が、聖書に書かれている事以外を真実とするはずがないのだ。

 仮に、聖書の裏側に潜む真実を知っていたとしても、それを言葉にするはずがない。

 おれは部屋に戻ってから、コーヒーを飲みながら思案する。

 おれが最も知りたかった真実の一つは解った。

 

2012年12月21日に絶対に何かが起こる!

それによって人類は滅亡する!

 解った、というより、やつらが何かを起こそうとしている事に、おれは確信を抱いた。

 やつは「何かが起こる事を信じている」と言った。

 つまりやつらが何かを起こそうとしているのだ。

 もう一つの知りたかった真実は、“カミ”が全てを創造したとしたら、何故女性の胎内から進化論の痕跡を抹消しなかったのか?

 妊娠、出産という手段、経過を経て人類が増え続ける、という前提として、セックスは絶対欠かせない手段のはずだ。

 それなのに何故、セックスを否定するのだ。

 もしセックスを最初から否定するのであれば、現代文明の最先端でようやく可能になったクローン作製の技術をアダムとイヴに教えれば済む話ではなかったか?

 アダムとイヴがいたエデンの園は、地球上で生命を発生させ、人類を発展させ、その結果人類が「“カミ”のようになった」かどうかを検証する為の、“カミ”が準備した最先端の研究所のような処だったはずだ。

 システムも勿論全てコンピューター化されていたはずだから、アダムとイヴが何の知識を持たなくても、「このボタンを押せ」「このレバーを引け」で済んだはずで、システムの扱い方を教えるのは、それ程困難な事ではなかったはずだ。

 “カミ”はアダムに言葉を教えた、という記述がある。

 コンピューターの操作なら、言葉を教えなくても出来たはずだ。

 そして太田は「カミが、ノアの洪水からモーゼの時代に至る間に、ヒトの傾向が解ったから、セックスを戒めた」と言った。

つまり“カミ”が地球上で人類がどのように発展するかが解ったから、もうこれ以上発展しなくても良いと判断したという事だ。

しかし、モーゼが十戒でセックスを戒めた時代から3300年も経っている。

その間にも“ヒト”は飽く事無くセックス、妊娠、出産を延々と営み、発展し続けた。

“カミ”は何もしないで、それを黙認していたのか?

愛情とセックス、妊娠と出産、人類の増加と発展。

 “カミ”が、「わたし達に似せて」「わたし達の像に」創ったアダムとイヴがセックスしてカインとアベルを産んだ。

 それなら、“カミ”もセックスし、妊娠し出産をするという肉体構造をしていたはずだ。

 記述にある“まことのカミの子”とは、太田が話したような、男性器を器具として使わず、人類が覚えた様にセックスして生まれた、真に宇宙人の直系子孫であり、“カミの子”は、宇宙人の男女が“ヒト”の男女とセックスして生まれた子孫だ。

 だから“カミ”の女性も“ヒト”の男性とセックスして妊娠して出産したはずだ。

それなのに、“カミ”は肉ではない、と言う。

 “カミ”の女性も、“ヒト”の女性器とは異なる女性器を持っていたのか?

特殊なセックスをして、“ヒト”を増やしただと?

解らない。もう今日は何も考えたくない。

おれは清水に連絡を取って例のショット バーで会って、太田と話した内容を伝えた。

 

清水も、やつらが何かをしでかすだろうという事に確信を抱いたようだった。

 「やつらが何をしでかそうとしているのか、調べられないのか?例えばスパイを紛れ込ませるとか、出来ないのか?」

 「一〇年程前から、世界中のやつらの組織に何百人も潜り込ませてあります。ただ、いきなり中枢に入り込むのは不可能なのです。先ず研究生として仲間になり、数年経って認められたら《同志》になる。それからまた数年か十数年経ってやっと幹部になれるかなれないか、という処です。貴方の奥様がやつのオフィスに入れたのは特殊事情でしょう?幹部クラスを買収する工作もあちこちでやっていますが、何しろ幹部クラスにもなると堅い」

「品行方正過ぎて涙が出る」

 清水が自嘲するように、乾いた笑いをし、ロビンが初めての日本語だが、難しいセンテンスを口にした。

 「ロビン。日本語巧いじゃないか?」

 「公私ともに、日夜勉強してるんだ」

 ロビンが片目を瞑った。

 また連絡を取り合う事にして彼らと別れた。


創世記七日目の終わり、聖書に記述されない八日目の始まりとは2012年12月21日なのか?

“審判の日”。

 おれの心の中に、女性の胎内に遺された進化の過程への疑問だけが深く刻み付いた。

     

   遠大な計画

 それから何事もなく、おれは相変わらずその日暮らしの生活が続いた。

 猛暑続きの夏が終わった。

 世界各地を襲った猛暑で死者が大勢出たとか、大飢饉が発生して餓死者が大量発生したとか、日本でも猛暑で、生鮮食品の価格が高騰したとか、そんなニュースばかりが流れた夏だった。

 もう10月の半ばだというのに、例年に増して、異常な夏日が続く。

 マスコミは「温暖化」と騒ぎ立てていたが、温暖化で地球の大気が限界を超えた時異常気象が起こり、その果てに「氷期」がある事を誰も伝えようとしなかった。

 10月の末、清水から連絡があった。

 「ちょっと妙な事が判ったんですが、会って話せますか?」

 「良いよ。何時でも」

 おれは例のショットバーで清水に逢った。

 「あんたら、簡単におれの前に現れるが、普段何処にいるんだ?」

 「東京にいます。私は自宅で、ロビンはマンスリーマンションを借りて、愉しんでます」

 「愉しんでる、って?」

 ロビンがおどけたように笑って応えた。

 「日本の女性は外人に弱いんだ」

 「はは。やるねえ。それで普段から日本語の勉強が出来てるわけだ」

 清水とコンビを組んで何かの役割は果たしているのだろうが、役割は判らない。

 「で、何だ?妙な事って?」

 「先ず、一つは、やつらが、世界規模の製薬会社を買収した事です」

 「何だ?販売してる薬に毒薬でも混ぜようかってか?」

 「今は未だ確定的な事は言えませんが、その可能性も全く無い訳ではない。少し遠回りな話をしますが、実は、統計学者のセクションから最新の面白いデータを三つ受け取りました。先ず一つ目は、自然な少子化がここ2、30年で、世界的に、特に日本を含む欧米先進国で進んでいるのはご存知ですよね?」

 「イギリス、フランス、スエーデン辺りじゃ持ち直したって聴いてるぞ?」

 「それはそれぞれの政府が、子供を増やすように、子供のいる家庭に対する優遇制度や支援制度を設けたからであって、作為的で自然な傾向ではない。現にそうした制度によって一時的に持ち直した出生率がまた減少し始めています」

 「確かに、数百年後には日本人は一人もいなくなるって、以前発表があったな。出生率の減少は判った。それと?」

 「もう一つは、セックスの回数の減少です。これは任意のアンケートでしか得られない数字なので、国民性や民族性によって誇張や矮小があったりするかも知れませんが、全体のおおまかな数字で、世界的にセックスの回数が減少しているんです。恋人同士もだが、特に夫婦の場合、一層顕著に出ています」

 「おれはそんな事調べた訳じゃないが、周囲の人間の話を聴くと何となく判るな。ただそれは、奥さんとのセックスに飽きたとか、生活を楽しみたいからとか、何だっけ?そう、ディンクスか。そうでなくても、逆に生活が楽じゃないから共稼ぎをしなきゃいけないとか、仕事がきつくて、夜家に帰ってすぐに眠りたいとか。そんな傾向が日本だけじゃなくて世界的な傾向じゃないのか?」

 「そうです。生きて行くうえで、セックスしなくなった、子供を作らなくなった、現代的な風潮がどの国にもあります。それは先進国で特にその傾向がありましたが、それ以外にここ数十年では、後進国でも地域的な戦争や内乱で大量に避難民が発生しているし、地球の砂漠化による飢饉でアフリカの国の大半が慢性的な食糧危機に襲われている。今年の夏の大飢饉もそうですが、こうした現象が起こる可能性に関して、貴方も作品で触れてましたよね?それも“カミ”、宇宙人の作為であると。そうした人達は、結婚は勿論、結婚しても子供を設ける事に対してネガティヴになるし、日常の生活に於いても心身共にセックスする余裕もない」

 「“カミ”が、仕組んでる、と?」

 「そう考えるのが自然でしょう?地球を創ったのも人類を創ったのも“カミ”だとしたら、貴方が書いたように、“カミ”が人類を滅亡させる一つの手段として、“ヒト”を創った段階でそうした遺伝的な因子を内包させていたら」

 「うーん。確かにそれも書いたがな、でも想い付きだぞ」

 「セックスに関連して、もう一点興味深い調査結果があります」

 「何だ?」

 「これも世界的な傾向ですが、初体験年齢の平均が男女共に高くなっているのです。一生セックスもせず、結婚もしないで人生を終える人も増えている。これもセックスの回数が減少しているのと同じ要因があると考えられます」

 「おれには信じられないなぁ。セックスしない。結婚しない。結婚してもセックスしないなんてなぁ。あんたらは?」

 おれはウィスキーを喉に流し込んで二人の顔を観た。

 「私は妻とそれなりに。ロビンは独身だが、三人の女性と交際ってる」

 清水が仕事の顔を解いて、にやっと笑い、何をおれに話したのか、ロビンに通訳した。

 ロビンは親指を立てて、片目を瞑っていたずらっぽく笑った。

 「三人を相手に愉しんでる訳か。ばれないようにしろよ」

 おれはロビンに微笑み返して、ウィスキーのお代わりを注文した。

 「三つ目のデータですが、テストステロンという物質があります」

 清水がおれの言葉を英訳してロビンに伝えてから、真顔になった。

 「何だ?それは」

 「性欲を司る体内物質です」

 「それがどうかしたのか?」

 「増加すると性欲が増し、減少すると性欲も減衰する。その人間の体内にあるテストステロンが減少する傾向が、世界的レベルで顕著になって来ている」

 「ふーん。おれ達はその、テストステロンが正常に分泌されているわけか?ロビンは異常に多い訳だな?」

 清水がまた訳すとロビンがおどけ顔をした。

 「そのテストステロンは変動的、不安定な精神状況に於いて、一層分泌される傾向がある事も解っています。環境が変わるとか、生活が変化するとか、日常生活に於いては、喧嘩するとか、新しい女性と出会いがある、これは浮気がそうです。或いは事故に遭うとか」

 「つまり、平和、平凡な生活に慣れっこになってるから、その、テストステロンか?それが減少している。だからセックスしなくなって来た、と?」

「極言すれば、性欲こそが人類の発展と社会的なシステムの継続を支えている訳ですが、人類の平和、生活や社会の安全、安定を求め、危険、変革を拒む事が逆に性欲を抑制する」

「内乱に巻き込まれている国の人や避難民、更新国の飢餓に苦しんでる人達は、そのテストステロンが常に分泌されているだろうが、セックスどころじゃない。先進国は生活が平和で安定しているから減少してるって事か。確かに今の日本は、下らないテレビ番組ばっかり流れてて、それが高い視聴率を取ってるし、芸人のギャグやネタが若い連中のブームになってる。物騒な事件や災害は沢山起こるけど、世の中の人間の心が平穏な証拠だよ」

 「テストステロンは、動物性タンパク質を摂取すればする程増加すると言われてます」

 「最近言われる草食系と肉食系、だな?そう言えば世界中の宗教の多くは、肉食やセックスを禁じてるな?それも“カミ”が仕組んでいそうだな?」

 「そういう事ですね。最近の先進国では健康と美容が生活の中心テーマの一つですが、美容と健康を意識して、食事制限やサプリメントを愛用すればする程性欲が減退する事になりますね。現代では実際に、ゴマ類、豆類を、或いはそれらを成分とするサプリメントを摂取する事で、血液型の病気、脳の衰え、心臓の負担を予防する結果が出ていますし、脱毛の予防効果もあると言われています。ノコギリヤシという植物にははっきりとその効果が出る物質が大量に含まれている。それに女性ホルモンを増加させ、男性ホルモンを減少させる結果も出ていて、それが真にテストステロンを減少させる、つまり性欲を減少させる。製薬会社を買収したやつらの狙いはこれではないか、と」

 「そう言えば、最近テレビでも美容と健康に良いっていうサプリのCMがやたらと多くなって来たな。そうか。やつらが製薬会社を買収したって事は、医薬外のサプリメントではなくて、医薬品としてテストステロンを強力に、或いは一気に減少させる何かを、薬として世界中に売り出す計画か?一般的なサプリメントなら、普通の飲料水メーカーでも、菓子メーカーでも製造販売出来るはずだからな」

 「健康と美容に対する関心が高まれば高まる程、人類は滅亡に向かう、という事です」

 「《ノアの末裔》がやりそうだな?あくまでも平和に穏やかに、目立たないように人類を滅亡させる。何百年掛かっても」

 「ただ、2012年12月21日に何が起こるのか、の答えにはなっていませんけどね」

 「そうだな?あんたらにも伝えたが、やつらは必ず何かを起こす。或いは何かが起こる事を知ってる。おれの独断かも知れないが、結論めいた事を話して良いか?」

 「貴方にアプローチをしたのは、貴方の考え方が我々の危惧にフィットしている、つまりやつらの行動を推測するのに的を得ていると判断したからです。どうぞ、話して下さい」

 「太田に逢って話した時、第三章第二二節の、アダムとイヴが『定めのない時まで生きる事のないように』という記述と、第六章第三節の『わたしの霊が人に対していつまでも定めなく働くことはない。彼はやはり肉であるからだ。したがってその日数は百二十年となる』という記述は、“カミ”が“ヒト”の創造に失敗したんじゃないのか?という質問をぶつけた時に、やつは“カミ”が失敗するはずがないと言ったが、その時多分少しうろたえていた。おれは本を書き始めた時からずっと疑問を抱いていたんだが、妊娠した女性の胎内で現れる通り、やっぱり進化論は絶対正しいんだ。“カミ”は失敗したんじゃない。創造さえもしていないんだ。宇宙が出来、太陽系が出来、地球上で生命が発生してヒトまで、あくまでも自然に進化した。それを“カミ”は観察して、自分で記録に残して、モーゼに旧約聖書を書かせたんだ。何故なら、“カミ”は『わたし達に似せて』“ヒト”を創ったと伝えてるが、それなのに“カミ”は肉ではないと、矛盾した事を言ってる」

 「じゃあ、貴方が書かれているように、類人猿から“ヒト”が進化する段階で何か手を加えただけ、という事ですか?」

 「遺伝子操作もしただろうし、それだけじゃなくて、聖書に書かれてるように、“カミ”も“ヒト”とセックスして子孫を増やし続けた。おれは、太田と話して、その後ずっと思案して、それ以外の考え方はない、と確信したんだ。但し、『わたし達に似せて』という言葉から、“カミ”は過去に“ヒト”と同じように進化して発展して来たが、地球上にいた“カミ”は、『肉ではない』クローンかも知れない。“カミ”の正体は相変わらず解らんがな。」

 「ははは。“カミ”の正体を、我々人類のレベルで詮索しても、意味がないでしょう?我々は貴方の推論を基にして、行動する事にしながら様子を観ます。また何かあったら連絡を取り合いましょう」

 清水がロビンを促して立ち上がった。


   実行された計画

 12月に入ってすぐ、清水から連絡が入った。

 「やつらが動き出しました。世界数十箇所の例の製薬会社の工場に膨大な数のトラックが出入りし始めました。恐らく完成した薬かサプリを配送してるのでしょう」

 「いよいよ動き出したか」

 「何かは判りませんが、先日我々が話した内容の物でしょう。近々のうちに、大々的に発売されるでしょうね」

 「止められ、はしないよな?」

 「今の段階では無理ですね?犯罪ではないし、工場を爆破しても意味がないし」

 「そうだな?様子を見るだけか?」

 「また連絡します」

 清水は急用が出来たように電話を切った。

 何かの動きをするのだろう。

 そして、一週間も経たないうちに、やつらがおれ達の予想した行動を起こした。

 それはしかし、おれ達の想像をはるかに超えた規模であった。

 いきなり朝のテレビで、CMを流し始めた。

 「12月21日に、健康と美容を維持し続ける薬を発売する」

 チャンネルを変えても、同じだった。

 まるで、日本中の全てのテレビ局を買い取ったかのように、延々とCMを流し、さらにニュース番組もバラエティ番組も、その特集のようになった。

 ノアのカレンダーの“人類滅亡の日”だ。

 それがやつらの記念日、行動を起こす日か。

 “不老長寿の妙薬”

 やつらが買い取った製薬会社が発売したその薬は、およそ考えられる限りの、健康と美容を維持し、促進させる成分で構成されていて、健康体を促進し、不健康な部分を排除して、外科以外のあらゆる病気を予防する、という謳い文句だった。

 医学者や、健康、美容のスペシャリスト達が出て来て、こぞって絶賛した。

清水から連絡があった。

「やっぱり、来ましたね?」

 「そうだな?それにしても、大騒ぎだ」

 「日本だけじゃないですよ。欧米は勿論、南アメリカ、アフリカ、オセアニア、アジア、つまり世界中のほとんどの国で、同様の騒ぎを起こしています」

 「止められない?だろうな?」

 「今の処は、手が出ません。WHOで、人体に害を及ぼす可能性の成分構成はないかを緊急で調査していますが、多分やつらも充分時間を掛けて開発したものでしょうし、許認可は得てるでしょうから問題ないかも知れないですね」

 「好きにしろ、ってか?」

 太田の勝ち誇った顔が脳裏に浮かんだ。

 清水が何時ものショットバーで会おうと言った。

 何時もと様子が違って、二人共柔和な表情をしていて声も平穏だった。

 「今日は何か話があった訳じゃないんです。ただ、貴方と酒を呑みたかっただけです」

 今まで仕事を意識していたのだろう、水割りを一杯程も呑まなかった清水とロビンが水割りを何杯もお代わりした。

 「割りとあっさりとした“人類滅亡”ごっこだな?で、おれ達の負け、か」

 「今の処、何も出て来ないし、これからも出て来そうにないですね。あくまでも平和のうちに、ってやり方ですか」

 「人類が滅亡する、世界が終わる、って言っても、遠い未来の話だしな。諦めるか」

 「ところで、私達と一緒に仕事をしませんか?やつらに対しては、今更何も出来ないが、我々の組織のトップも貴方の発想力を評価しています。今更我々がつるんでいても、やつらは痛くも痒くもないはずだし、もう貴方の行動を調べたりもしないでしょうし、奥様の安全も恐らく確保される。他にも幾つか調査対象があります。ただ危険はありません。我々は基本的に調査するだけで、危ない仕事は別のグループがしますので」

 「良いな。日雇い仕事にも疲れてたし、飽きて来た処だ。是非一緒にやらせてくれ」

 清水が微笑んで頷き、ロビンが握手を求めて来た。

 

その日からのテレビ、ラジオだけではない。

全ての新聞を何面も使った広告、コンビニで発売された週刊誌も、その薬の特集に何十頁も割いていた。

やつらが、世界中に拡がる巨大な組織だった事を、今更のように認識させられる。

一週間程経った頃から、一部の医学者や研究者達が警鐘を鳴らし始めた。

「この薬を服用し続ける事によって、性欲は確実に減退する。そして子供が生まれなくなる。そうして人類は現代以上に高齢少子化の一途を辿り、人類の滅亡は促進する」

清水が話していた通りの内容だったので、清水達が動いたのだろうが、“ノアの末裔”にとっては、ノミに噛まれた程にも感じないだろう。

 人間が、自分達の死んだ後に起こる人類の滅亡よりも、自分の健康と美容を優先するのは当然の事だった。

 医者にしても、病気がなくなれば自分達が干上がるが、それよりも自分の美容と健康の方が大事なのだろう、マスコミに出て薬に対して反論している医者も声高ではなかった。

 薬は未だ販売もしていないのに爆発的な人気を呼び、その効用を、例の使用前、使用後で特集するメディアも氾濫し始めていた。

 

   妻の変心

 清水の誘いに乗って、一緒に仕事をする為に、引っ越す事に決め、妻にメールをした。

 何時もならすぐに返信して来る妻が、二日経ってもメールを返して来なかった。

 妻の身の上に何か起こったのだろうか?

 漠然とした不安が心に渦巻き始めた。

 引っ越し先も決めて、夕方から荷作りを始めた。

 ワンルームの一人暮らしだし、生活に不必要な家具など何も持たない主義だ。

 軽乗用車一台で引越しは出来る。

 パソコンでロックを流しながら、明日の朝に一〇分もあれば片付く処まで終えた時、チャイムが鳴った。

 誰だ?

おれの部屋を訪ねて来る人間などいない。

 清水がまた何か宅配便で送って来たのか?

 しかし、もう今回の一件に関して、おれと清水達の関係を隠す必要はなくなったので、メールで送ってくれたら良いはずだった。

 ドアスコープを覗いて観ると、何と妻が爽やかな微笑みを浮かべて立っていた。

 「どうしたんだ?」

 「久しぶりに貴方と呑みたくなったの。ワイン買って来たわ」

 驚いてドアを開けると、入って来た妻は何か吹っ切れたような表情であっけらかんとした言い方をした。

 「やっぱりもう荷物まとめちゃってたのね?貴方の手料理が食べたくて材料を買って来ようかなって想ったんだけど、多分荷物をまとめてるんじゃないかと想って止めたの」

 応接セットなどあるはずもなく、おれはパソコンデスクの椅子の上のクッションを外して妻の足元に置き、おれは布団の上に座った。

 おれがワインを呑まないと知っている妻はワインオープナーも買って来ていた。

 「ワイングラスなんてないぞ。これ一個だけだ」

 おれは寝酒をしようと唯一荷作りに入れていなかった、何時も、コーヒーと焼酎の野菜ジュース割りを呑むマグカップを妻に手渡した。

 「やっぱり一つしかなかったのね?良かった。二つあったら、女の人でも出来たのかって、疑っちゃう処だったわ。お先にどうぞ」

 妻がワインを開けてマグカップに注ぎ、おれに差し出した。

 おれがワインを口に含んだとたん、妻がおれに抱き着いて来た。

 「呑ませて」

 あれだけおれに触れられるのを嫌がっていた妻が、眼を閉じて顔を上向けた。

 妻のしなやかな身体を抱き締める。久しぶりの妻の身体の感触。

 唇に重なる妻の柔らかい唇と舌の感触。

 おれは逆上したように、妻を敷きっ放しの布団の上に押し倒した。

 「五年以上してないから、上手く出来ないかも知れないぞ」

 「良いの。他の女性ともしなかったのね?嬉しい」

 妻も久しぶりで興奮しているのか、忙しなくキスを求めて来る。

 何があったのだろう。

 おれとのセックスを暴力だと訴え、家の中でもおれの存在を避けるようにしていた妻が、今自分から洋服を脱ぎ、下着をおれに脱がされながら、眼を閉じて官能に喘いでいた。

 腰周りが少しふくよかに感じられるようになったとは言え、交際い始めた頃に来ていた洋服が、二〇年以上経った今も着られる妻の、美しいしなやかな裸身がおれの腕の中で、おれの手指の動きに時折小さく痙攣した。

 何時見ても興奮を喚起する妻の、性的興奮に歪む清楚な美貌だった。

何時抱いても興奮を喚起する妻の、美しいしなやかな裸身だった。

 乳房を口と手指で愛撫しながら伸ばした指先で、媚肉が既に妖しく潤って蠢いていた。


 眼を覚ますと、カーテンの隙間が、朝を知らせるようにうっすらと明るんでいた。

 妻はおれの腕の中で、未だ無邪気な寝息を立てていた。

 昨晩の妻の美しい痴態を想い出したおれは、再び欲情して起き上がり、妻の脚の付け根に顔を埋めて、伸ばした両手で乳房を愛撫した。

 「ああ、うれしい」

 眼を醒ました妻がおれの頭を両手で抱えて呻き、乳房を反らし、尻肉を浮かせておれの愛撫を求めた。


 一緒にシャワーを浴びて、着替える。

 知り合ってから必ずそうしていたように、おれに背を向けて洋服をすばやく身に付け、薄化粧だからだろうが、あっと言う間に化粧を終える。

 以前、何故そうするのか、尋ねた事があった。

 「お化粧や身嗜みを整える最中の姿って、裸を見られるより、恥ずかしいもの」

 おれは妻の着替える姿と化粧している途中の顔を未だに知らなかった。

 部屋を出て、近くの、行きつけのカフェに向かう。

 妻が腕を絡めて来た。

 本当に久しぶりに、妻との満ち足りた朝を迎えた。

 おれは真冬でもアイスコーヒーを呑む。

 ここのアイスコーヒーは水出しなので、本当に美味い。

 煙草に火を点け、深く吸い込む。

 その安らいだおれの心を妻の言葉が直撃した。

 「太田さんが、私を抱こうとしたの」

 おれが妻の変心を問い質す言葉に困って沈黙しているのを察したのだろうか。

妻が愛飲しているレモンティーを一口呑んでから言った。

 「な、何だと?!」

 一瞬で激しい怒りが湧き上がった。

おれの妻を、あの太田が抱こうとした?

 セックスを否定する大組織の中心人物の一人でなかったのか?

 おれの妻を?

 どす黒い嫉妬を孕んだ暴力衝動が心を覆った。

 「怒らないで。洋服を着たままの私を抱こうとしただけだから。一昨日、仕事が終わったオフィスから最後に二人で出ようとした時よ。大丈夫。私すぐに拒んだから。私の拒み方の激しいのは貴方が知ってるでしょう?」

 妻がいたずらっぽく微笑んだ。

 「セックスを否定してるのではなかったのですか?って、理由を訊いたら、もう終わったし、本音と建前だって言ったの。私思いっ切りひっぱたいてやったわ」

 「そうか」

 妻らしいな。

 その光景を想像して、おれは安堵した。

 それでもおれは言葉を失ったままだった。

 「ごめんなさい。騙された訳じゃないけど、あの人達を信じてしまった私がばかだったわ。長い間嫌な想いをしたでしょう?本当にごめんなさい」

 妻が眼に涙を浮かべて唇を震わせた。

 「もう良いよ。昨晩と今朝抱かれてくれた、それで帳消しにしよう。だからもう謝るな」

 妻が泣き笑いの顔をあげた。

 「それより、一緒に暮らさないか?子供達はもう独りでちゃんとやってるんだろう?今度の引っ越し先に、お前も引っ越して来いよ。新しい仕事を始めるんだ」

 おれは今回の経緯を全て話して聴かせた。

 「危ない仕事には手を出さずに済みそうだしな」

 妻が泣き笑いの顔のままで頷いた。

 

2012年12月21日は、人類滅亡の始まりかも知れないが、おれ達にとっては。それこそ第二の人生の始まりだった。

 妻と二人で暮らす。

 例の薬は相変わらず世界中で爆発的に話題を提供し続け、その薬効は今や当然の事として認知されていた。

おれ達には関心が無かったが、妻は子供達にもその薬を呑むのを戒めていた。

 毎晩のように、妻の手料理を堪能して酒を呑み、妻を求め、妻もおれに応じた。

 仕事は、新しい内容だった。

 世界第三の宗教、イスラム教の経典を読み、イスラム教過激派の志向を分析する事だった。

 清水曰く、頭の堅い学者や研究者ではない、あくまでもおれ流の見方、発想をして欲しいと。

 経典の分厚さと内容の難しさに閉口したが、遣り甲斐は充分あった。

 そうして穏やかな日々が続き、冬を迎えた。

インカの預言者達が言った通りだ。

 “カミ”が、たまたまカレンダーをここまでしか作っていなかったのだ。

 やつらが例の薬を12月21日に発売するのは、そのカレンダーに乗っただけで、勿論カミの指示などであるはずがなかった。

 マスコミのニュースにはずっと注意し続けていたが、12月21日に人類が滅亡するような破滅的な出来事が起こるとすれば、一月前、一週間前からその兆候があって然るべきだった。

 やはりやつらの計画のスタートを意味しているのか。

 いや、マヤのカレンダーを利用して、やつらが計画をスタートさせるだけか。

 それなら、未だマヤのカレンダーの存在の真相は解明された事にはならない。


 唯一、太陽が相変わらず活発な活動を続けているという情報があったが、かつて何度もあった事だったし、人類が一瞬のうちに滅亡するような大異変が起こる可能性は低かった。

さらに、おれの生活が満ち足りたせいもあって、あまり深く考える事もなくなっていた。

 

 12月21日が来た。

例の薬の発売日だった。

様子を見ようと出かける。

ドラッグストアと薬局には、薬を求める人々が長蛇の列をなし、蜂の巣をつついたような騒ぎを起こしていた。

 「商品は沢山あります。在庫切れにはなりませんので、慌てないで下さい」

 店員が大声で群衆をなだめている。

 《やつららしい。完璧だな》

 苦笑いして、家に戻る。

 久しぶりに家族で子供達の誕生日を祝おうと前もって計画していて、仕事を休んでいたので朝から料理の支度に取り掛かった。

 妻は、昨晩作ったケーキの出来具合を頻りに気にしていた。

 夜は恋人と誕生日を祝うと言う子供達が昼前にそれぞれやって来て、妻がケーキをテーブルの上に載せた。

 おれもおじいちゃんと呼ばれるようになるのは、そう遠い日ではないな。

 甘酸っぱい、くすぐったいような気分になる。

 おれの得意料理の一つである鶏手羽先半割の塩コショーガーリック焼きと野菜の盛り合わせを大皿に載せてリビングに運び、四人で乾杯する。

 子供達も出掛け、おれは妻と見るとはなしにテレビを見ていた。

 清水から会いたいという連絡があった。

 

「今日はロビンは?」

 「彼は月初から本国に帰って、のんびりしていますよ」

 清水が水割りを呑み込んで微笑んだ。

 「三人の女はほったらかしか?あいつの事だから本国にも女がいるんだろうな」

 「らしいですよ。結局“ノアの末裔”が何かを起こそうとする事はなくなりましたね。有名になり過ぎたし、もう我々の組織の中では最重要警戒団体のトップになりましたから」

「結局、何か起こるとしたら、やつらではなくなった訳だ」

「そうです。しでも怪しい動きを見せたら、裏で潰しにかかります」

「何時かは何かが起こって人類が滅亡するかも知れないが、おれはアル中かなんかで、その前に死ぬか。その方が幸せかもな」

「毎日内臓をアルコール消毒している人が何を言ってるんですか」

清水が笑ってウイスキーのお代わりをした。


  やはりいた!“ノアの末裔”の過激分子


3月に入ってすぐ、清水から至急逢いたいと電話が掛かって来た。

何時ものショットバーで逢う。

「出て来ましたよ。過激派が」

「“ノアの末裔”か?過激派が出来るようなコンセプトじゃないだろう?本当か?」

おれは軽くいなしたが、清水の真剣な表情に呑まれた。

「ええ。リーダーは、イタリア在住のアラブ系ノルウェー人。デニス アッサム。エジプトの貴族の末裔で、アラブ系の財閥のトップです」

清水が写真を6枚テーブルに並べた。

デニス アッサムは未だ30代くらいか。他の5枚の人物は年齢も様々な男女だ。

「こいつらが何か?」

「デニス アッサムの口座から、先週5人の口座にそれぞれ200万ドルが送金された」

「そ、そんな事まで判るのか?」

おれは今更乍ら、清水達の組織の巨大さを想い知る。

「おれの口座の残高も知ってるのか?」

驚きを隠すように冗談を言う。

「はは。貴方の口座を調べたりはしませんよ。この5人の共通点は、死期が近い事。癌、白血病、エイズ」

清水は何時もながら冷静な口調だ。

「まさか?おれが書いたように、5人に細菌を感染させて!?」

「イタリア支部に潜らせている情報員から連絡がありました。デニス アッサムが先日トップと口論していたそうです。こんなやり方は生ぬるいと」

「“カミ”の思し召しなんじゃないのか?」

「どんな宗教でも、神の思し召しを過激に解釈する輩はいるようですね。どうせやるのなら手っ取り早く、という事でしょう」

「どんな細菌なんだ?」

「ご存知でしょう?佐川彰一郎。昨年大学を引退した彼が、デニス アッサムに招かれて、ひと月前からデニスの経営する医薬品製薬会社の研究所に籠りっきりになってる」

「佐川彰一郎?あの細菌学者、エイズ ウィルスの権威か?」

「そうです。彼も“ノアの末裔”の日本支部の幹部です。ただ、彼は過激派ではない事は調べてあります。彼がデニスに招かれてすぐに、3人の女が彼の自宅に入り込んだ。一人は日本人で高校生の娘の家庭教師、一人は日系フィリピン人で家政婦、一人は日本人で、寝たきりの母親の介護士として。この三人は“ノアの末裔”で、デニス アッサムから金を貰ってるし、計画を知っているはずだ」

「家族を人質にして、殺人細菌を合成させようと」

「間違いないでしょう。潜伏期間が長く、肉体的接触がなくても感染するような新種のエイズ ウィルス」

「やばいじゃないか!」

「今、デニス アッサムの元愛人の一人に接触しています。その女も“ノアの末裔”で長年活動していました。デニスの企みを知って止めようとしましたが、デニスが何度言っても聞かないので、最近別れた。その女から情報を引き出して、確定したらデニス抹殺に動きます」

「どうやって情報を引き出す?」

「ロビン」

清水がにやりと笑った。

「はは。やつか!」

おれは想わずふんぞり返った。

「一週間程前に近づいて、今頃はセイシェルのビーチに」

「一度、ロビンの手口を見てみたいな」

「多分結果は週明けには、出ます」

「判ったら報せてくれ」

おれは清水と別れた。


週明けの月曜、テレビのニュースで、イタリアの避暑地で別荘の大火事があり、住人の大富豪デニス アッサムが焼死したと報じられた。

《もうやっちまったのか!》

予想が当たったのと、知り合った頃に清水が話していた組織の「過激な行動を遂行するセクション」の見事なやり口に感心する。

その午後、清水から連絡があって、夜にショットバーで会う。

「もう、終わりました。佐川彰一郎の身柄も保護しましたし、佐川の家に入り込んだ3人は抹殺しました。ニュースになる事もない」

「あんたら、さすがだな」

「国連は、イスラム過激派などに手を焼いているように思われがちですが、国際政治的にお芝居をしているだけです。実際国連軍が動かなくても、下部組織の力だけで解決出来ます」

「どうしてやらない?」

「やっても、必ず生き残りが出る。そいつらがアメリカの同時多発テロのような事を遣りかねない。或いは核保有国のミサイル基地の一つを占拠して、めった撃ちにするとか」

「そんな事が可能なのか?」

「不可能なのは、アメリカの軍事基地くらいですよ。他の国は、例えばうちの組織でも出来る」

「恐ろしいな。止めてくれよ」

おれがお道化半分で言うと、清水が優しい微笑みを浮かべた。


  氷期の到来

5月のある日、清水から会おうと連絡があった。

例の酒場に行くと、珍しくロビンが清水と一緒にきていた。

「日本の女が恋しくなったのか?」

「そんな処だ」

おれが冗談を言うと、ロビンが何時ものお道化た調子で応えた。

「ちょっと、これを見て下さい」

清水が、モバイル端末を開いておれに見せた。

「何だ?太陽か?これは何だ?」

太陽と思しき天体の傍に浮かんでいる物体がある。

それが数種類。

「全て形と大きさが違うが、複数かも知れないし、同じ物体が位置や、形や大きさを変えているのかも知れない」

ロビンがターキーのロックをあおって、首を捻りながら呟いた。

「ロビン。日本語が上手くなったな。語学学校の教師が出来るぜ」

おれもターキーのロックをあおって空にし、ウエイターにお代わりを催促した。

「真にUFOです。大きさはほぼ地球規模。こちらのは木星とほぼ同じ大きさです」

「地球や木星と同じ大きさの物体が太陽の傍にいきなり現れたり、形や大きさを変えたりって、おれの貧困な想像力を超越してるな。垂直に何か出しているか伸びているが、撮影した時の光の加減か?」

光の筋の長さはUFOの直径の数百倍から数千倍はある。

「その筋の正体は解らないが、撮影上の問題ではない事は確かです。しかしそもそも、先日までなかった物体が太陽の至近距離に存在している。至近距離と言っても、数百から数千天文単位で、この物体から伸びている光の筋のような物も、推して知るべしの長さですね」

清水が呆れた顔をして話し、すぐさま、ロビンが欧米人らしく両手を拡げて掲げた。

「それにしても、こんな太陽から至近距離にいて、いや、あって、だっけ?普通の物質は溶けるんじゃないの?」

「そうだな。恐らく数千度、いや、数万度だろうな。これが“カミ”の操る何かだとして、太陽に操作を加えてるんだろうな」

ロビンが真剣な表情になった。

「私は、これを初めて見た時、貴方が作品に書いた創世記の第1章の仮説を想い出しました」

「ああ、“カミ”が遠隔操作で、太陽系を創り出したって処か?」

「そうだ。太陽系を創り出した能力があれば、消滅させる能力もある」

ロビンが運ばれて来たターキーに口を付けてから言った。

「あれもおれの想像であって、実証された訳ではない」

「そうです。だが実証されてからでは手遅れだ。近未来は、貴方が想像している方向に向かっている。私達はそう判断していますし、私達の要請で世界中の多くの科学者が、貴方の考えを仮定して研究を進め始めている。だが彼らは、この物体が地球や木星と同じ大きさであり、つまり恐らく質量も地球や木星と同じ程度だと仮定して、そんな物体が傍にあって太陽が何らかの悪影響を受けないかって、そんな心配をしてるだけですけどね」

清水も今夜は酒が進むようだ。

水割りをお代わりした。

「まじかよ。知らねえぞ。下手な事になっても」

おれもターキーを半分飲み干した。

胃が焼けるように熱い。

「もう一つ。当初我々も余り重要視しなかったのですが、今年の2月13日、ロシアに隕石が落ちましたね?」

「ああ、何度もテレビの報道で見た。大事故にならなくて良かったよ」

「最近になって、隕石を後から追い掛けて来て、貫いた物体の存在が明らかになった」

「何だと?気が付かなかったぞ」

清水が端末をおれに向けた。

「これです。隕石の落下時のスピードは時速1200キロから1600キロ、それをあっと言う間に突き抜けた物体の速度は時速2500キロから3000キロです。ほら、ここです。そして突き抜けた瞬間、隕石の入射角度がわずかにずれた」

「何が、どうして突き抜けたんだ?」

「それも解りません。隕石が爆発した訳じゃないし、入射角度がずれたからって、結果がどうなってたか解らない。科学者が色々意見を言ってますけど、大体奴らの仮説は、実証された科学の範囲を超えませんし。子供の空想の方がよっぽど真実味があります」

清水が苦笑して言い、ターキーをあおった。

「猛スピードで落下中の隕石の中を突き抜けた物体と、太陽の傍に存在する物体に共通項があるかどうか確認出来た訳じゃないが、今年に入っていきなり二つの存在が我々の前に現れた」

「どっちにしても、今の段階ではどうなるか、“カミ”がどう動くか、見当も付かない訳だ」

「そうですね。今後新しい情報に関してメールで全て送ります」

清水がグラスを空けて立ち上がり、おれとロビンも倣った。


その5月のGW真っ最中、北海道に季節はずれの大雪が降った。

翌年、昨年以上の猛暑が世界を襲った。

猛暑は年々進行し、世界中の科学者が地球の熱帯化を叫んだ。

それでも、人類はそれなりの平和と怠惰を貪った。

そして2026年7月。

北極で80万平方キロメートル、次いでその二週間後には南極で300万平方キロメートルの氷の大陸が崩壊し、それぞれ北極海、南極海に流れ出した。

世界中で猛烈な異常気象が起こり、巨大な台風、ハリケーン、竜巻、そして大津波が世界各地の沿岸部を飲み込んだ。

2週間ほどで異常気象は収まったが、北緯25度以南、南緯35度以北の陸地がかろうじて残ったが、それより以北、以南は氷に覆われ、そして誰もいなくなった。

世界の人口が一気に30億人まで減少した。

亡くなった人達のほとんどが、恐らく“ノアの末裔”が発売した薬を飲んで、不老長寿を信じていたに違いない。

人間、死ぬ時は死ぬんだ。

虚しい想いで一杯になった。

人工衛星からの地球の写真を見ると、北25度から北と、南緯35度から南は白い大陸と化していた。

荒れ狂った海は穏やかになったが、海面がかつてより20mも降下した。

それから数年は、太陽の活動の活発さと地球の寒冷化が微妙なバランスを取り続け、氷期は進行しなかった。

 そして一時的に地球上の人類は、かつてほどではないが安泰と平和の生活を取り戻した。

 20万年前に創造された人類は、やっとの想いで二度の氷期を乗り切って、発展して来た。

 しかし今回は違う。

人類は途方もない科学力を手に入れた。


技術を持つ国が集まり、大規模な宇宙船を何百隻も創って、宇宙の果てまで逃げ出そうという壮大な計画を、大胆な発想をするメディアが提唱し始めた。

それこそ“ノアの方舟”だった。

一方で、未だ宇宙ステーションさえ完成していないのに、自殺行為だとする慎重なメディアも勿論多かった。

何しろ、この氷期到来のせいで、宇宙ステーションどころではなくなっていたのだ。


潤年の存在

ある日、テレビでオリンピックを開催するかどうかのニュースをやっていた。

確かに地球がこんな状態で、オリンピックどころではあるまい。

おい、待て、閏年だ!

おれは急いで清水に連絡を取り、例のショットバーであった。

ロビンも日本にいたのか、一緒だった。

「潤年だ。マヤのカレンダーには、閏年が計算に入っていないと考える。古代エジプトでも既に一年が365.25日だと知っていたし、マヤ族も知っていた。だけど知っていただけだ」

「彼らはその調整をしなかった。閏年を設けたのは、グレゴリオ暦からですね」

「もしマヤのカレンダーに閏年が組み込んであったのなら、マヤ族も閏年の調整をしたはずで、だからマヤのカレンダーには閏年が反映されていないんじゃないか」

「閏年という概念は人類文明が発展した結果、その途上で必要性に迫られて創り出した物だ。マヤのカレンダーを創った“カミ”は、単に地球が太陽を一周する物理的な数値を刻み込んだだけなのであって、発展するかどうかも判らない人類文明にとって、将来的に端数部分が矛盾して来る事までわざわざ教える必要を感じなかった?」

清水がスマホで電卓を弾く。

「5125×5を365で割ってさらに4で割ると、17.55年。つまりマヤのカレンダーには17.55年が隠れている訳だ」

「2012年12月21日に17年と200日を足して、この間も潤年が4度あるから、4も足すと」

「2030年7月13日!」

 清水がスマホをテーブルに放り出した。

  2030年7月13日!

 この日が人類滅亡の日だ!


2030年7月13日

 2030年になった。

おれも77歳になった。

70歳で仕事を辞め、妻と二人で旅行三昧に明け暮れ、のんびりと過ごした。

同様に、引退した清水とロビンとは、月に一度くらい家族ぐるみで交流している。

 娘も息子もそれなりに幸せな結婚をし、10歳から5歳まで、4人の孫に恵まれた。

 妻とは、以前ほどではないが相変わらず抱き合って眠り、時折おれの方から妻を求める。

 妻は少々呆れた表情で微笑むが、おれを受け容れてくれている。

 いよいよ、今年だ。

 おれが、天文的な規模の異常が起こると予測した事で、世界各国が地球を含む天体のデータを集め続けていた。

 衝突して来そうな彗星は発見出来ていなかった。

 地球の物理的な活動にも異変はなかった。

 唯一太陽だけが、2013年以来、その活動を活発化させていた。

 氷期の真っ最中である地球でも、氷に覆われた部分が30キロメートルも後退し、海水面が氷期以前と同じレベルまで上昇し、その度に世界各地に津波を起こし、河川を反乱させた。

 それがもしかして旧約聖書に出て来る“ノアの洪水”の再現かも知れなかった。

 そして真に人類は、後退したその部分に、人類は活動を拡げて行った。

 “ノアの洪水”の後、ノアが子孫を増やし、世界各地に都市を創った、とする創世記の記述を、おれは想い出していた。

 世界中のマスメディアは、太陽の活動の活発化を危険視し、7月13日を話題に取り上げる一方、楽観的に温暖期の到来を取り沙汰するようになった。

 

 5月の半ば、清水から久し振りにメールが入った。

 「やはり、太陽が危ないようです。今年に入って、フレアが頻発している。それもかつてない程の規模の物も多くなってる」

おれは直接清水に電話を掛けた。

「スーパーフレアか?」

「未だそこまでではありませんが、水星との中間点まで達するケースも出ています」

「水星に届いたら異常を起こして、太陽系のバランスが崩れるんじゃないのか?」

「それを危惧している科学者も大勢います」

「今更どうしようもないか」

「ないですね。映画のように出来たら良いのですが、回避する方法をはありません」

「座して死を待つ、か。あんたも家族の傍にいてやれよ」

「そのつもりですけどね。では、また何かあったら連絡します」

その言葉が、最後に聞いた清水の声だった。


スーパーフレア。

CGの映像では何度も見たが、どんでもない現象だ。

起こったとしても、学者達が提唱する程、地球には影響を及ぼさないかも知れない。

 或いはスーパーフレアが起こったら起こったで、何もかも終わりだ。

 今更あがいたところで、どうにかなる訳ではない。

 

 そして7月13日15時23分。

 太陽の表面で大爆発が起こり、スーパーフレアが発生した。

 水星が一瞬のうちにスーパーフレアに飲み込まれた。

大規模な磁気嵐が起こり、人工衛星が次々に爆発を起こし、次々に落下し、それ以外の人工衛星も宇宙の闇に消えて行った。

地上では、12000年以上もの間人類が永々と築き上げて来た文明の形が崩壊し、燃え落ち、溶けて失われて行く。

太陽系の重力のバランスも崩れ始め、惑星系が崩壊し始める。

水星、金星、そして地球自体も崩壊しながら火の塊と化し、太陽の引力の虜になった。

やがて、地球は太陽に吸い込まれるように衝突し、大爆発を起こした。

火星、木星の順に太陽に吸い込まれて爆発。

木星から外側の惑星は、太陽の引力と遠心力のバランスが崩壊し、宇宙の彼方に飛び去って行った。

太陽系の崩壊は天の川銀河全体にも影響を及ぼす天体の大変動になった。


“カミ”は何処だ?

この有様を、何処で見ている?

何処にいる?

キリスト教では“楽園”“天国”を説き、仏教では弥勒が地上に降り立ち、人類を救済するのではなかったのか?

 太陽によって育まれた地球上の生命が、太陽によって滅亡させられる。

これが“カミ”の意図した処だったのか?

“カミ”のみぞ知る。               (了)



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2030年07月13日~人類滅亡 @yana1110

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