第5話

「実はきみは、ぼくが思っていたよりも健気なのかもしれないなあ」

「あなた私をなんだと思っていたの」

「サイコパスとかそういうのかと」

 圭介が私を抱いたまま椅子のリクライニングを利用してゆらゆらと揺れるから、私は、実はこの男はたいして腰の痛みなどないのではないかと疑いたくなる。もしそうならそれなりに心配していたのに失礼な話だし、仮に痛みを堪えて揺れているのだとしたら随分愚かだ。

 そして優しい男だと思う。

 物言いは無礼極まりないし、愛想はないし態度は高慢だし、周りに気を配る、とか、本人は気を使っているつもりかもしれないが、とてもじゃないけれどもその態度は褒められたものではない。

 それでも優しい。

「もしも、」

「なあに」

「もしも。……これは絶対に起こり得ないことだから深く考えずにいてもらいたいんだが、」

「なによ」

「もしも、ぼくが、きみを好きだと言ったらどうする」

「なに言っているの」

 圭介は相変わらずゆらゆらと揺れている。

 開け放したままの窓から、いつの間にかうっすらとした霧雨が降り始めたのが見える。

「あり得ないでしょ、あなたさっき真逆のこと言ってなかった?」

「だからそう言ったろう。もしもだ」

 もちろんこんな関係だから、私だってそういったことを、今までに一度も考えなかったわけではない。私も、恐らく圭介も、あの霧雨のようにうっすらと頭のどこかで、もしも、と思ってきた。あの人がこんな風だったら、と、思ったことも、正直ないこともない。それでも、やはり違うのだろう。もし仮にあの人が、圭介みたいだったら、私はきっとあの人にここまで執着したりはしなかった。それはきっと圭介も同じで、その立ち位置をすり替えてしまったが最後、だ。

「悪いけどごめんよ。私は時間にだらしない人と約束を守らない人はきらいなの」

「大事な約束ならちゃんと守るぞ」

「大学の入学式に遅刻したような人がなにを言ってるのよ」

「直前の説明会にだろ。入学式には間に合った」

「ぎりぎりだったじゃない。私はそれを遅刻とみなすのよ。おかげであなた、有名人になるの早かったわね」

 身体を起こして、私は顔の正面からその額を人差し指でつついてやる。軽く押し当てるようにすると、圭介は眉間に皺をよせて、もう一度私を抱き寄せた。

 ゆらゆら、ゆらゆら。

 心地よい人肌と、耳触りのよいバラードと、窓の向こうの霧雨が私を安心させる。いい人と出逢えてよかった。

「ありがとうね」

「なにが」

「いつも甘えさせてくれて」

「本当にな。きみはいつもぼくの都合を考えない。無神経だし」

「そんなとげのある言い方しないでよ。本当に感謝しているんだから。いつもありがとう」

 圭介は、こんなことを言ったらまたきみは文句を言うのだろうけれど、と前置きして、

「きみに礼を言われると本当に気色が悪い」

と言った。

「なにか企んでいるんじゃないだろうな」

「あなたは本当に失礼ね」

 気負うことなく傍にいさせてくれるのだ。これを優しいと言わずになんと呼べばいいのかを、私は知らない。

「さて、そろそろ帰るわ。思ったよりも長居してしまったし。ねえ、雨が降ってきてしまったから傘を貸してくれない?」

 私が圭介の膝の上から離れて、部屋の隅に放り投げてしまっていた鞄を手に取っても、圭介は私を引き留めたりはしない。代わりに、玄関までついてきてくれるつもりなのか、よろよろと自分も椅子から立ち上がった。

「近くのコンビニで買えばいいだろう」

「それならコンビニまで送ってよ」

「いやだ。ぼくは腰が痛いと言っているじゃないか」

 それなら尚更歩くべきだろうとか、その腰は今どの程度の痛みなのかとか、いくつか言いたいことはあったが、帰り際に面倒なのでああそう、と生返事だけで済ませることにした。傘は勝手に拝借すればいい。玄関で靴に足を通していると、ようやく圭介がゆっくりと歩いて追いついた。

「明日、返しにきてくれないか、その傘。気に入っているんだ」

「ビニール傘よ、これ」

「いいだろ、それがないと今度はぼくが出かけられない」

「コンビニまで歩けば」

「嫌な女だ」

「ありがとう」

 褒めてないよ、とキスをする。

 一段下がった玄関で、軽く触れて離れるのかと思ったら、不意に頭を後ろから押さえつけるようにして深くくちづけてきた。

「ふ、っんん、……」

 捩じ込まれた舌の隙間から思わず声が洩れる。すっかり覚え込んだ身体が、力が抜けるみたいに圭介にしなだれかかる。圭介は私を抱き留めるみたいにしてしばらく前戯のようなキスを繰り返した。

 ちゅっ、と音を立てて唇を離す。

「明日、待ってる」

「ばか」

 帰るって言っているのに。

 疼くじゃないか。

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汚い透明な紫 夏緒 @yamada8833

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