第4話

「そうねぇ……」

 改めて訊かれると答えに困る。そんなことは、深くまで考えたことはない。私は圭介の膝に自分の額を擦り付けた。膝の固い骨に押し付けるようにすると、圭介は私の頭を撫でていた手で、今度は私の顎の下を、まるで子猫の機嫌をとるようにして撫でてくる。その手に引かれるようにして顔を上げると、圭介は私の顔をまっすぐ見つめてきていて、そのまま顔を寄せてくるから、私たちはもう一度キスをした。

 そうして身体を抱き上げてくるから、私は素直にそれに従って、圭介の座っている椅子の上に、圭介を跨ぐようにして座らされる。それは、まるで向かい合って抱きしめられているような、対面座位の真似事のような、体温が、心地よさを押し上げる。

「下手くそじゃなければ、強姦魔でも許容できる?」

「まさか。多分ね、そこじゃないの」

 圭介が耳をくすぐってくるから、私はなんだか急に甘ったるい気分になってきて、代わりにその眉毛を指先で撫でてみたりする。それなりの長さのある硬いような柔らかいような感触の毛が、こんな無精な男をなんだか可愛らしく感じさせる。私は腕を回して、その肩口に顔を擦り寄せた。さっきの汗がもう乾いたような匂いと、ほんの少し吸われた煙草の、微かな匂いが入り交じっている。生ぬるい匂いだ。

「そうねえ、多分、口説くつもりがないのは、嫌、かなあ」

「へえ。例えば」

 背中のほうでカチカチと、マウスを操作する音が聞こえる。仕事かと思ったら、次には小さな音で音楽が流れてきた。BGMのつもりだろうか、少し前から流行っているバラードだ。こんな薄暗く湿った季節にはそれこそお似合いで、圭介は案外雰囲気を読む趣味がいいのかもしれない。

「私しばらく前に、食事に誘われて一緒に行ったことがあるんだけれど、当たり前のようにお金を払わされたのよね。だからその人とは寝なかった」

「きみは男を財布だと思っているのか」

「違うわよ、そうじゃないの。これがね、友達だったり、お付き合いしている人だったら、別にそれでいいのよ。でもね、彼は私に下心があった。それこそ本当に分かりやすいくらいにね。それなのに、見栄を張ることも格好をつけようともしてくれない人に、どうやって魅力を感じたらいいの? 時々いるのよね、素のままの自分を好きになってほしいとか言う人。なんてばかなのと思うのよ。こっちが好意を持っているならまだしも、そうでもないのに、気を引いてくれもしないような人の素に興味なんてあるわけないじゃない」

「なるほどね。上手く気を引いてくれないやつは嫌ってことかな」

「だって、もっとその人のことを知りたいって思うから、そこでようやく素の部分が気になるわけでしょ。もっと以前が存在しないのに、なにを求められているのか全然分からないもの。あんな素敵なご馳走を割勘にされるくらいなら、友達に頼み込んで中古の軽を借りてきてドライブに誘ってくれた人のほうが、よほど魅力的だったわよ」

「きみは本当にどれだけ言い寄られているんだ」

「モテ期ってやつなんじゃない。どうでもいいけど。だから藤堂くんも一緒よ。セックスなんて誰とでもできるからこそ、そういうことを軽んじる人は嫌。相手を想わないのは、素敵な男のすることじゃないでしょ。その程度の存在でしかないって言われているみたいで、とても腹立たしいわ」

「男のぼくから言わせてもらうと、非常に面倒くさいことを言われているんだが。そういうのプレッシャーに感じるやつもいるんじゃないのか」

「あら、でも、そういう面倒くさいのがいいんじゃない。こっちだって化粧したり服選んだり笑顔取り繕ったりいろいろ面倒くさいわよ。自分ばかりだと思うからいけないんでしょ。でもそういうのなくなったら異性として魅力なんてないもの。プレッシャーに勝てない人に私は用はないしね」

「女の言い分だな」

「そりゃそうよ、だって私女だもの」

「じゃあもうひとつ質問だ」

「なに」

「どうして別れない」

「……、なに」

 顔を上げると圭介がまた私を見ていた。近い距離で、推し量るような目でこちらを見ている。

「そこまで相手に困らないのに、どうしてあの浮気者と別れないんだ。きみならいくらでも、どうにでも、なるだろうに」

 圭介はそう言って、私の頬を撫でた。

 簡単に言ってくれる。私はなんだか、まるで叱られたあとに慰められているような、覗かれたくないところに泥のついた手で不粋に突っ込まれたような、嫌な気持ちになった。

「そんな簡単じゃないのよ」

 私は、圭介から逸らすようにして目を伏せて、また圭介の身体に寄りかかった。圭介は、また、背中に腕を添えてくれる。パソコンから小さな音で流れてくる音楽は、いつまで経ってもバラードばかりしか流れない。

 本当は、別れたいのだ。嫌な思いをしてまで一緒にいる必要はないと分かっている。だからこそ、私はいろんな人を相手にした。それでも、いつだってあの人に勝る人はいなかった。どうしても比べてしまう。そして敵わない。自分のど真ん中にあの人が胡座をかいて座り込んでいるのだ。今思えばそんな状態で別の人とお付き合いまでするのは失礼だったし、どちらにしろ長く続いたことはなかった。

 つまりは好きなのだ。あんな、浮気者で、駄目な人が、私はとても好きなのだ。嘘か本当かは知らないけど、結婚しようと言われたこともある。あの人の母親に、あんな息子で本当にごめんと謝られたこともある。安物の指輪だって贈ってくれたし、喧嘩をしたって絶対に向こうから別れ話なんてしてこないし、あの人にとって自分が、他の女たちよりも一段特別なところに置かれているのも分かっている。

 それでも他の女を抱くことをやめない、あれだけはどうしても耐えられない。耐えられないから、私はこうして圭介にすがるのだ。あの人と違う手に触れられることで、私は自分を保っている。離れたいけど、離れることができない。だから、逃げ道がほしい。

「そんな、簡単じゃなくてさ……」

「………………そうか」

「うん」

 なにも言わなかったけど、圭介は、それ以上なにかを聞きたがるわけでもなく、代わりに両腕で私を抱きしめた。それがなんだか慰められているみたいで、私はその優しい窮屈さに不意に泣きたくなった。

「おい、まさかとは思うがぼくの家で泣くなよ。それはぼくの役割じゃない」

「役割ってなによ、そんなもの求めた覚えないわよ」

「ここには、ぼくがちゃんといるから、この、ぼくの家で、きみが涙を流す必要はないっていうことだよ」

「へえ」

 気障なことを言う。どんな顔でそんなことを言うのか気になったけれども、腕がしばらくは離れそうになくて、もがいてみようかとも思ったけれども、それもすぐに諦めた。見たところで、恐らくは、どうせいつもの仏頂面に違いない。

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