夏思いが咲く
湊波
夏思いが咲く
球場に、どこか調子っぱずれの管楽器の音が鳴り響いた。
白線の乱れた甲子園球場のグラウンド。その真ん中で、がっしりとした体格の投手が振りかぶる。打席に立つ小柄な選手は己を鼓舞するようにバットを握り直す。
一瞬の間。次いで真っ直ぐに放たれた白球。打者は驚いたように腰を引きバットを止める。
白球はそのまま、捕手の構えるミットに吸い込まれた。
「アウト! 3アウト!」
審判の高らかな声と共に、球場整備を告げるアナウンスが響く。
焼け焦がすような日差しに顔をしかめながら、隆二は視線をスコア板に向けた。
16-0。甲子園2日目の第3試合では、ちょっと野球とは思えないくらい点差がついている。
隆二は息をついた。視線を下ろす。
ごった返する観客席では、吹奏楽部の学生やチアガール達がわいわいと騒ぎながら腰を下ろしていた。ベンチ入りしている野球部のメンバーが、ここまでの展開を得意げに周囲へ説明している。麦茶を配っているのは彼らの父兄だろう。自身が熱中症で倒れないよう、揃いの帽子を被っている。自分たちのチームが大勝している余裕からか、皆一様に顔は明るい。
それにしたって、暑かった。ずり落ちてきたワイシャツの袖をめくりながら、隆二は後悔する。こんなに暑いのならば、思いつきで甲子園に寄るんじゃなかった。
太陽に照りつけられて発熱寸前のスマホを取り出し、『2019 甲子園 試合』と打ち込む。検索結果のトップページを叩けば、この試合の速報と共に学校名が飛び込んできた。そこに至ってようやく、自分が観戦している試合が甲子園常連の強豪校と名も知らぬ地方の弱小校同士の試合であることを知る。
「ははあ……困ったなぁ……びびっとたらあかんと思うんだけどなぁ……」
盛り上がる空気に似つかわしくない、深刻そうな声が隣から届いた。
隆二はちらと横を見る。いつの間に座っていたのだろう。麦わら帽子に白いタンクトップという、いかにも農作業をしていそうな出で立ちの年配の男が座っている。揃いのユニフォームで埋め尽くされた観客席にあって、その格好はひどく浮いていた。
隆二の無遠慮な視線に気付いたのか、男がひょいと顔を上げた。ばちりと視線があう。
「お兄さん」
初対面とは思えぬ気軽さで、男は隆二の持つスマホをちょいちょいと指さした。
「いやあ、この、これ。ちょいと見せてくれんか? ほら。速報が出とるだろ。この試合の」
「……この試合って」自分のことを棚に上げて、隆二は鼻に皺を寄せた。「今、自分で見てたでしょう。なんで速報を見る必要があるんです?」
「いいからいいから!」
「あ、ちょっと」
隆二が止める間もなく、男はひょいとスマホを取り上げてしまった。目を離すようにして画面を見つめ、球種がどうだの、打順がどうだの、熱中症で誰かが倒れただの、とブツブツと呟く。
髪を乱暴に掻いた隆二は唇を引き結んだ。気を紛らわせようと水の撒かれた球場を睨む。
フェンスの金網が、照りつける太陽を反射してぎらりと光った。
*****
眩さに、隆二は思わず目を細めた。
冷房の効いた広告代理店のオフィスは、昼休みのせいか閑散としていた。その中で、デスクに浅く腰掛けた隆二の同期は、周囲の女性社員に向けて得意げにひらりと手を振る。
「いやァだからさ。俺もびっくりしちゃった訳よ。まさか、俺の出した案が採用されるなんてさァ」
鼻にかかった声で同期が喋る度に、彼の腕時計がぺかぺかと白色灯を弾いて隆二の目を貫いた。わざとやってるだろ、絶対。心の中で悪態をつきながら、隆二は唇をぐっと噛んで、無理やり己の視線を手元のパソコンに向ける。
ワードの画面を睨みつけた。乱暴にEnterキーを叩けば、『2020年 全国高等学校野球選手権大会 PR文案』と打たれた1文からカーソルが1行下に移動する。
キーボードを叩きつけ、隆二は次々と短文を書き連ねていく。
「えええー? そんなことないですよ! 『届け 魔法の唇で紡ぐ、君への思い』ってPR文……あの化粧品ブランドの夏イメージそのままでしたもん!」
媚びたような女の声に、隆二の指先が一瞬止まった。
同期が早々に帰宅する中、徹夜してまで考え抜き、何百という案の中から選出した自作。一昨日発表された社内コンテストの結果。人目も憚らず喜んでみせた目の前の男。
走馬灯のように脳をよぎった記憶の断片に、隆二はキーボードの上で拳を握る。
女性陣の黄色い声に、同期は鼻の穴を膨らませた。
「ふふん、女性陣に褒められると、まんざらでもないなァ」
「私達だけじゃないですよう。だからこそ、一昨日の朝礼で先輩が社長賞もらってたじゃないですかぁ」
「ははッ。まっ、閃きが生んだ名作ってわけだな」
「その閃きで、毎回、商品のPR文に選ばれてるからすごいんですって~。なんかコツとかあるんですか?」
「んー。まぁなぁ」
意味ありげに同期が言葉を切った。隆二がちらと視線を上げれば、離れた場所にいるはずの同期と視線があってしまう。
同期が、にやと口角を釣り上げて、女性陣を手招きした。
「コツはな」声を潜めて、彼は一旦言葉を切る。女性陣の注目が再度集まったところで、重々しく言葉を継いだ。「よく食べて、よく寝ることだよ」
「……え?」
きょとんとする女性たちに、隆二の同期は破顔した。
「だからァ、よく食べて、よく寝ることだって。定時出社に定時退社。健康な体に健全な精神は宿るってヤツ? 今どきさァ、努力なんて無意味なんだよ。何十時間と費やして作ったPR文だって、選ばれきゃただのゴミクズだ。決められた時間に決められた仕事をきちっとこなす。これがスマートってもんだろ」
冷房の効きすぎた部屋に、馬鹿にしたような男の声はよく響く。氷でも飲み込んだ時のように、隆二の頭がきんと痛んだ。
*****
きぃん、という小気味良い音に、隆二は現実に引き戻された。
周囲のどよめきに押されて顔を上げる。ちょうど打球が、観客席へと吸い込まれていったところだった。
「あっちゃあ……」依然として隆二のスマホを持ったまま、年配の男が汗で光る頭を掻く。「9回表で17点目かぁ……」
ため息のような男の声が隆二の耳に届く。それを掻き消すように、眼下の観客席では、いよいよ応援が活気づいた。眩い金色の管楽器が勢いよく吹き鳴らされ、完璧な旋律をバックにチアガール達が腕を振り回す。
若さと興奮の混じった夏の空気は、隆二の待ち望んでいたものだ。自分が負け犬だったからこそ、少しでも勝者の空気を感じたかった。だからこそ、わざわざこちら側の観客席に座ったのだ。
だというのに、彼の気分はちっとも晴れない。
けぶる空気を通して、反対側の観客席を見やる。遠目からでも分かるほど、貧相な応援団だった。数も少ないし、着ている服もばらばらだ。学生は半分もいないだろう。チアガールの代わりに、幾人かの年配の男女が黄色のメガホンを持ち、祈るようにして身を縮こまらせている。
地獄だな。隆二は不意に思った。17点差もついているのだ。今まで1点も入れられなかったチームが、どうして逆転などできるだろう。
なのにまだ、9回裏が残っている。
グラウンドの方から、キンと小気味良い音がした。打ち上げられた打球を野手が何とかキャッチし、9回表が終わる。
「……スマホ、返してください」
隆二はぼそりと呟きながら、男の腕を引いた。意気揚々と腰を上げた男が目をまたたかせる。一拍遅れて、あぁと声を上げた。
「すまないねぇ。でもおかげで、助かったよ」
何が助かっただよ。無意味だろ。意味もない罵倒を空唾と共に飲み込んで、隆二は、いいえ、と一つ返事をした。
ふらりと立ち上がる。そのまま観客席を立ち去ろうとすれば、今度は年配の男がぐっと隆二の服の裾を引いた。
「……何するんですか」
「なにって、あんた。まだ試合は終わっとらんだろ?」
「終ってるでしょう。あんたたちは勝って、あっちが負ける」
そう言っている間にも、9回裏は始まっていた。1人目の打者が盛大に打球を打ち上げ、野手に取られる。
がんばれー! 負けるなー! 向かいの観客席からの無遠慮な声援。こちら側に座る応援団達の、自分たちの勝利を祈るような――けれど哀れみと同情を孕んだ表情。
眩しいくらいの善意の暴力に、隆二はくらくらと目眩がした。
2人目の打者もあっさり討ち取られる。
「……ははあ。さては兄ちゃん、甲子園は初めてかい?」
「は?」
男がにやと笑う。
その時だった。球場がどよめく。つられて隆二は顔を上げた。最終打者が弾いた白球が、グラウンドに引かれたファウルラインを駆け抜けていく。
「ファウル!!」
球審が高らかに告げる、その言葉が始まりだった。
投手が投げる。そのボールに、打者はがむしゃらに食らいつく。ファウル、ファウル、ボール、ボール、ファウル、ファウル、ファウル……。
何度目かの投球で、投手の頭から野球帽がふわりと舞って落ちた。ボール。球審の宣言に、球場が湧く。捕手がタイムを要求する。彼が駆け寄っていく先で、帽子をひょいと拾った投手はぎこちなく笑みを浮かべている。
そこで始めて、隆二は打者をまじまじと見た。
随分小柄な選手だった。スコアボードに灯された数字が、彼が下位打線の選手であることを告げている。歓声の中で、表情は張り詰めていた。それでも真っ直ぐにグラウンドを見つめている。
隆二は唾を飲み込んだ。土埃の舞うグラウンドに、彼の味方はいない。たった一人の世界で、彼は何を考えているのだろう。
タイムが解けた。捕手が戻ってくる。球審がゲームの再開を告げる。
打者はヘルメットのつばを動かし、きゅっと唇を引き結んだ。大きく息をするように肩を動かし、バットを構える。投手が振りかぶる。
ストライクゾーンど真ん中に放たれた一球。最終回とは思えぬほどの剛速球を、打者のバッドが捉える。
「ああっ!!」
球場中が悲鳴を上げた。
快音と共に、白球がスタンド席を目指して伸びていく。弾かれたように外野の選手が走り出す。青空を切り裂く白を追いかける。捕手が、投手が、何事かを叫んでいる。
入れ。隆二は思わず願った。たった1点だとか、逆転できるかとか、帰りたいだとか、そんなことは頭から吹っ飛んでいた。ぐんぐん伸びていく白い玉を目で追う。お願いだからと叫ぶ。外野の選手の1人がスタンド席ぎりぎりで飛び上がる。そして。
「――アウト! 3アウト! ゲームセット!」
外野の選手のミットが、確かに白球を受け止めた。同時に球審が声を張り上げる。
試合終了を告げるサイレンが高らかに響く。
観客席が悲喜こもごもの息を吐く。次いで鳴り響く拍手の音。
隆二はふらふらと座り込んだ。歓喜に湧く応援団の隙間から、最終打者がバッターボックスで泣き崩れているのが見える。
何熱くなってんだ俺。頭から冷水をぶちまけられたような心地で、隆二はただただ息をする。泣き崩れる球児、呆然と立ち尽くす球児に、自分が重なる。
あぁそうだ、分かってたじゃないか。夢は叶わないんだって。だから諦めようって。
サイレンがうるさいくらいになっている。響く校歌に胸が苦しくなった。だってこれは、彼らの歌じゃない。これを聞き続けるだけの敗者は、どれほど惨めだろう。
どれほど。そう思ったところで、隆二の視界がぐらりと傾いた。
*****
「軽い熱中症ですよ」
「……はぁ」
再び目覚めた先で、隆二はぼんやりと頷いた。視界いっぱいに、救護室の真っ白な天井が広がっている。隆二をじろじろと見下ろしていた中年女性は、呆れたように首を振り、彼の視界から消えた。
大会スタッフの腕章をつけた彼女は、隆二の腕や額を無遠慮に触る。時節、プラスチックのボードに挟まれた紙にペンを走らせながら、いいですか、と心底迷惑そうに口を動かした。
「いい大人が情けない。今どき、学生だってしっかり熱中症の対策はしてるんです。貴方をここまで運んでくれた、おじいさんに感謝すべきですよ」
「えぇ……はい……」
「見たところ、スポーツドリンクも冷やしタオルも持ってきてないですね? 自分だけは大丈夫、という油断が死を招くんです。観戦中に異常は感じなかったんですか? 意識が飛ぶとか。不調を感じたら、真っ先に涼しいところに避難して、体を休ませるべきなんですよ。まったく。ところであなた、自分の名前はちゃんと言えます?」
「山崎……隆二です」
「結構」中年女性は厭味ったらしく眉を上げた。「問題ありませんね」
彼女は、簡易診察書と書かれたボードを隆二の枕元に置く。冷房の効いた部屋の空気が動いて、隆二の頬を撫でた。
「山崎さん。起き上がれそうになったら、まずは水分補給してください。ペッドボトルをここに置いておきます。ただし、あと30分は救護室にいるように。途中で急に気分が悪くなることもありますから。私は一旦席を外しますが、何か用があったら枕元の……そう、それです。そのボタン。それを1回押してください。いいですか、絶対に無理はしないように!」
隆二が何とか首を横に動かした頃には、嵐のようにまくし立てた女性は揺れるカーテンの向こうに消えてしまった。彼はゆっくりと目を瞬かせる。体を起こそうとして、再びぐらぐらと目眩がした。
小さく呻いてベッドに倒れ込む。小さな窓の嵌った壁。そこを通して聞こえてくるのは、球場のざわめきとアナウンスだった。次の試合でも始まるんだろうか。そう思って、隆二は息をつく。
自分は、何をやっているのだろう。無断で会社を早退し、興味もないくせに甲子園に足を運び、試合で気分が悪くなって、熱中症で倒れて。
「……すみません」
すすり泣きにも近い声に、隆二は耳をそばだてた。ゆっくりと体を回転させ、反対側を向く。
カーテンの向こう側で、2人分の影が動いていた。ベッドから半身を起こした方の影が、呆れたようにため息をつく。
「泣くなよ」
「でも……俺が……」ベッドサイドに立った方の影が項垂れる。「俺が、あとちょっと強く、バッドを振ってたら……あれが、ホームランになってたら……」
「違うだろ。お前は最後までよく踏ん張ってくれたよ。熱中症でぶっ倒れてる俺に代わってさ」
「俺は! 先輩と少しでも長く野球をしたかったんです!」
しん、と空気が静まり返った。先程まで聞こえていたアナウンスの音でさえ、遠慮をしたかのように遠ざかる。
「……先輩。俺、もう、野球やめます」
「ふざけんな」
間髪入れない低い声に空気が震える。
ベッドの掛け布団が微かに擦れる音がした。
「お前はまだ2年生だろ。続けられる限りは続けろよ」
「で……も……」
「逃げんじゃねぇよ。俺たちの努力が無駄だって言うのか」
「っ、そんなことは言ってないですよ!」
「言ってんだろ! 努力しても無駄だから、逃げてぇって言ってんじゃねぇのかよ!」
立ち尽くした人影は何も言わない。寄る辺なく肩を震わせる。
先輩らしき影が、乱暴にベッドに身を沈める。ベッドが軋む。違うだろ。ややあって、彼は諭すようにそう呟く。
「あのな。俺だって、悔しいよ。負けたし、最後までグラウンドにいられなかったし、きっとしばらく寝れねぇよ。でもさぁ、無駄じゃなかったよ」
「…………」
「やっぱり、全然、無駄なんかじゃなかった」
「…………」
「……野球、続けろよな」
救護室のドアが控えめに叩かれた。先程の中年女性が、ぼそぼそと何事かを呟く。それに後輩と思しき人影はぐいと腕で目元を拭い、一礼して部屋を出ていく。
パタンと扉が閉まる音がした。
部屋に静寂が戻る。
そして。
「……悔しいなぁ」
ぽつりと、静かに吐き出された言葉は、降り始めの雨のようだった。
霧雨のような嗚咽が響く中、隆二は深呼吸をして仰向けになる。息が苦しい。それはけれど、試合が終わった瞬間に感じた苦々しさからではない。まして、熱中症だからでもない。
努力が無駄だって、切り捨てることが、苦しいのだ。自分は。それに、気付いてしまった。気付かされてしまった。だからこそ。
逃げたく、ない。
自分は、彼らにどんな言葉を贈ることができるだろうか。そう思いながら、隆二は窓を見やる。
雲ひとつ無い青空。試合開始を告げるサイレンとともに、快音が響いた。
夏思いが咲く 湊波 @souha0113
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