第5話 心臓の毛
私の脳にできた良性の腫瘍を摘出してくれて、私の左目に通じる視神経の圧迫を見事、改善してくれた医師に、先生、腫瘍って何ですかって問いました。
先生、厄介なことを言う奴だなというような表情をして、腫瘍は腫瘍ですよって、つっけんどんに言うのです。
私が知りたかったのは、腫瘍なるものが、肉のかけらなのか、それとも、肉に似た何かなのか、その物理的概要を知りたかったのですが、医師にとっては、腫瘍は腫瘍、それには良性と悪性があって、悪性はがん、そういう認識しかなかったのです。
もちろん、それが正しい捉え方であって、私が腫瘍なるものが何かなどという質問こそ、何も知らない者の、愚昧なる質問であったに違いないのです。
悪性の腫瘍の小さな小さな粒が腎臓に芽生え、それを摘出してくれた医師は、いつも、と言っても、半年に一度ですが、音波を使って、私の腹の辺りを見てくれています。
どの臓器も健全なる状態であると、ニコッとして言ってくれます。
その先生にも、私、質問をしたことがあります。
先生、がんというのは、同時に何箇所も発生するものですかって。つまり、腎臓にできたがんは、それと同時に、胃にも、大腸にも発生するのかと問うたのです。
ありえますよと、そして、腎臓の場合は、それが肺と骨に転移することが確認されていますから、レントゲンで肺を検査し、MRIで骨を検査しているんでよって、この先生は、懇切ていねいに説明をしてくれます。
かかりつけの医者が、あんたいい歳になったんだから、肺の検査はしておかなくてはと、私のかけがいのない腎臓の一つを摘出したその病院に紹介状を書いてくれて、検査を受けたのは、もうかれこれ四年前のことになります。
私が察した通り、私の肺は健全そのものでした。
三十代後半まで吸っていたタバコですが、勤めていた学校で、海外修学旅行が始まって、海外ではそうそうタバコが吸えないと聞き、私は、それをやめました。
だから、あれからワンジェネレーションを経て、私の肺は見事に浄化されていると確信をしていたのです。
しかし、その私の自慢げな言葉に対して、申し訳なさそうに、肺はなんともありませんでしが、腎臓にって、その先生、そういうのです。
そして、放射線で治療し、それを消す方法もあります。薬でという方法も、でも、転移する恐れが十二分にありますから、摘出するのが一番であると思います。なに、腹に三箇所穴を開けて、そこから抜き取るだけですから、一週間ほどで何の痛みもなく済みますと、その先生、人ごとのように言うのです。
もっとも、医師ですから、感情などより、悪性の腫瘍をいかに退治して、患者の命を救うかにすべてをかけていますから、私は、それならと、その先生の指揮下で、わが腎臓を献じたと言うわけです。
先だって、その半年ぶりの検査に出かけて行きました。
膀胱も見ておきましょうねって、先生、私のヘソの下の腹のところに、音波を送り込んで行きます。
大丈夫なようです。どこもかしこも。
いつもの、私を安心させてくれる言葉が、先生から発せられます。
でも、私、いつの日か、あれっ、膀胱にちょっと陰が見えますねって、そんな言葉が出てくるのではないかと、ちょっと、ビクビクしているのです。
だって、私の人生、いつも、順風満帆というわけには行かずに、どこかで、ひっくり返るそんなものでありましたから、その先生の口からそんなことばが出てくるのではないかと内心ビクビクしているのです。
しかし、今回も大丈夫なようでした。
食事管理もされているようだし、運動もしているようですから、あなたはこうして、事後の経過が良好なのです。続けてくださいって。
先生にそう言われて、私、嬉しくなり、先生、心臓にがんはできないのですね、だって、心臓がんって聞いたことありませんって、私、衣服を直しながら、先生に問うたのです。
心臓には毛が生えているくらいですから、そうそう、がんも根付くには困難を生じるようですねって、先生、そんなことを言うのです。
私、そんなもんですかと、真顔でいますと、冗談ですよって、先生、笑って言います。
そりゃ、そうだ、心臓に毛など生えてなどいない、
でも、なんで、心臓にがんはできないかしらって。先生、それに対しては言葉を発しませんでした。
きっと、心臓は、この世に生を受けて以来、休むことなく、鼓動を打ち続けているからに違いあるまい。休んだり、いや、あるじによって、食べ過ぎや飲みすぎなど無理強いをされたりする臓器は、そのつけが回って、きっと、がんができてしまうんだ。
それに比べ、心臓は多少の無理も惜しまない、あるじが頑張れば、心臓も頑張ってくれる。そして、何より、常に動いていてくれる。
起きている時ばかりではない、寝ている時も、休んでいるときも、鼓動を刻んでくれている。
だったら、人間も、もう歳だとか、金輪際無理だと言わずに、せっせと働き、動き、活動をしていくことが元気の源だと、そんなことを思ったのです。
いや、もしかしたら、心臓には目に見えない毛が生えていているのかもしれないと、それほどまでに図々しく、厚かましく、偉そうに、彼は鼓動を打っているに違いないと。
私は、Apple Watchのハートマークに目を落としたのです。
おやっ、赤いハートマークに三本の毛が生えていた……と。
心臓の毛 中川 弘 @nkgwhiro
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