第4話 一里を歩く
病院に行くときは、五キロばかりの道のりを歩いていきます。
なに、ただいま現在、具合が悪いから病院に行くのではないのです。脳と腎臓の手術をしたその術後経過を検査するために出かけていくのです。
だから、私は、歩いて、隣地に建つ二つの病院には、その折々に歩いて出かけるのです。
五キロといえば、江戸の時代風にいえば、一里とちょっとです。
一里塚というのがあるように、人間にとっては、歩くにあたり、この距離が一つの区切れになっていたように思うのです。
あっ、一里塚だ、一休みして、次の一里塚まで頑張ろうって、江戸の時代の旅人は、そう思って、歩いていたに違いないって、そう思っているのです。
学生の頃、新聞広告に、芭蕉は忍者だった、そんなコピーの踊った広告を見つけて、本屋に出かけて、それを手に取ったことがあります。
著者には申し訳ないのですが、店内で、かいつまんで読んで、それで終わってしまったのですが、要は、奥の細道の行程に、到底、現代人では歩き得ない日程上の無理があったという、そんなことであったのです。
その本を買ってはいないわけですから、具体的に、どこがどうだということは言えないのですが、現代の人間だったら、この宿場から、次の宿場までの移動が難しいのを、芭蕉はそれをいとも容易にこなしているというのです。
『奥の細道』は元禄十五年に刊行されています。
元禄十五年と言えば、赤穂の事件があった年です。しかし、さほどに江戸幕府が各藩の内情を探るほどに、世の中は緊張していたわけではなく、刊行されるには、儲けがあると判断し、売りに出されるわけですから、どうも、この説は、眉唾ものだなと、本屋の棚に戻して、帰ってきたことを覚えているのです。
それより、江戸の時代の人間は、現代の私たちとは異なる肉体をもっていたのではないかと、私は考えていたのです。
だって、雪の降る桜田門外で、大老井伊直弼を討った水戸浪士たち、それを取り巻くように見ていた江戸の人々の服装は、それを絵図で見る限り、実に軽装です。
もっとも、浪士たちは、これから暗殺に及ぶのですから、血気盛んで寒さなど感じなかったでしょうが、そこにいて、祝い事で登城する大名行列を見物していた江戸市民は、きっと、寒さにはひときわ強い人種であったのではないかと思っているのです。
子供の頃を思い浮かべます。
戦後まもなくに作られた質素な住宅、隙間風があり、重い布団を二枚三枚と重ねて、それでも寒かったあの日のことを。
部屋全体を心地よく温めて、冬をやり過ごすのではなく、石油ストーブとこたつだけの、つまり、暖かさが一点に凝縮する中で、生活をしていたのです。
それが江戸の時代であったなら、コタツだけ、時に火鉢の手をかざす程度の暖かさがあっただけです。
ですから、時代のありようが人間の寒さに対するありようを確定したいたと。
それは、暑さもで同じであるのです。
さらには、歩く速さにも、それは言えると思うのです。
わらじを履き、肩に荷物を担ぎ、ひたすら、路面を見つめて、さっさと歩く江戸の人々のことを思うと、一里、四キロなど、半時、一時間もかけずに歩ききったに違いないと、そんなことを考えているのです。
今、私は、おそらくは健康に異常を来たしているとは思えないこの肉体を、それでも、医師の指示にしたがって、定期的に、検査しに、大学病院に通っているのです。
研究所の広大な敷地のそばの並木道を通り、横丁に入ると、そこは大学の敷地、うっそうとした森の中の小道を歩むのです。
速さを競うのではなく、そこに鳥の鳴き声が聞こえれば立ち止まり、花が一輪咲いていれば、胸元からiPhoneを取り出して写真を撮りながらゆっくりと歩きます。
時に、空想をし、その森の奥に縄文人の姿を見たり、あるいは、ここは私のロードバイクを疾走させるコースでもありますから、そんな私の姿を想像したりして、小一時間の歩みを楽しんでいるのです。
そんなことをしながら歩いていますと、向こうから、笠を被った旅人らしき男が近づいてくるではないですか。
背中を丸め、視線は足元手前に起き、せっせと歩いています。
おやっ、タイムスリップをしてしまったか、私はちょっと焦りました。
だって、目の前に、江戸の時代のなりをした男が、江戸の時代のままのありようで歩いているのですから。
しかも、よく見ますと、足は草鞋ばきです。
歌川広重『東海道五十三次之内 四日市 三重川』のあの場面のように、笠が風に吹かれて、飛ばされて、それを男は追いかけていきます。
おいおい、病院に行くのに、何故、タイムスリップしなくてはならないのかと、そんなことを思っていたら、「カット!」そんな声がして、そうか、学生たちが映画を撮っていたんだと、ちょっと安心して、今日の私は、てくてくと歩を早めて、病院に向かったのでした。
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