白野さんは はなさない

狼二世

白野さんは はなさない


「うわ、これは酷い。最初の文に誤字あるし」

 

 ――おお、なんと言うこたおだろう。この胸を切り裂く苦しみはどうすれば癒されるだろう。

 ――この痛みを幻であるというのなら、現実はどこにある。

 ――この体を借りものであるというのなら、私はどこにいる。


 誰よこんな文章書いたの。脳みそが腐ってないと書けないじゃない。


「だめだ、キモイ、ボツ」


 携帯端末の削除キーを連打して書きかけのメッセージ消去する。うぇ、消えかけのメッセージを読むだけでも眩暈がしてくる。

 うん、自棄はよくない、冷静に考えよ。一度しかない少女の青春だから、黒歴史になるようなことはやめよう。


 深呼吸をして、一度目を閉じる。

 目の前は真っ暗。当たり前だ。でも、今は余計なものを見ないですむのがありがたい。


 一つ一つ、情報を整理する。


 アタシは誰?

 『白野』、昨日まで女子高生だった女の子。

 ここはどこ?

 アタシの部屋。卒業証書は机の上に出しっぱなしだし、資料で汚い雑多な部屋。

 アタシは、何をしている?

 けじめをつけようとしているんだ。 


 大きく息を吐いて、目を開ける。広がっているのは、アタシの部屋と、使い古した携帯端末。

 指は震えてない。心も少しだけ楽になった。

 落ち着いて、どうしても吐き出したい言葉だけを明らかにする。


 ――きのう、失恋した。


 必要なのは、これだけだ。


「送信、っと」


 空虚な声を合図に送信と書かれたボタンをタップする。すると、200文字程度のメッセージが幾つも並ぶ画面上に、アタシのメッセージが浮かび上がる。

 本当はもっと沢山のメッセージを書こうと思ったのに、いざ言いたいことだけを考えたら、贅肉みたいな装飾は全部消えてしまった。


「ま、そんなものよね」


 SNS――ソーシャルネットワークだったかネットワーキングシステム。

 不特定多数の人間が緩いつながりで適当に情報を発信するシステム。そこでメンヘラじみた感情的なメッセージを投稿するなんて、馬鹿らしいと思ってた。でも、止めるだけの理性と精神力は今のアタシには存在しなかった。


 フォロワーのみんなが騒がしくなってきた。絶叫じみたメッセージを投稿してる人も居る。ごめん。見てるとなんか申し訳なくなってきた。

 本当は、不特定多数の人間が見るような環境に書くつもりなんてなかった。せいぜい身内に吐き出すくらいにしたかったけど、その相手はもういないんだから仕方ない。

 ああ、本当に、どこから始まったんだろう――

 

◆◆◆


 アタシにとって大切な人が二人いる。

 一人は、同性の友人だ。

 たまたま高校一年生の一学期に隣の席になって、そのままズルズル三年間ずっと隣に居たくらいの付き合いだけど、大切な子だ。


「はじめまして、白野です」


 友達になったきっかけだって、ただ社交辞令じみた挨拶。その自己紹介だって、自分からしただけ。


「わぁ~」


 なのに、なんか星を浮かべたみたいに輝いた瞳で、あの子はアタシを見ていた。


「え、えっと?」


「カッコイイなって、思って」


「正気?」


 正直、今でもあの子が正気だったか疑問に思ってる。人並みに身だしなみには気をつけているけど、アイツには普段から女っ気はないとか言われていたし、なにより、目の前のあの子の方がよっぽど魅力的だった。

 はちみつ色の笑顔――なんか曖昧だけど、無邪気にアタシを見つめる顔が、柔らかい黄金みたいだって思った。

 ふんわりとした顔と髪の毛。見ているだけで心から棘が抜けていくような、平和そのものの姿。


「ごめんねー、あ、私は――」


 『ロサ子』。アタシとアイツは、ちょっと子供っぽい女の子をそう呼んだ。

 本当なら、真っ先に愚痴を聞いてもらうのは彼女の筈なんだけど、今はそうはいかない。


◆◆◆


 たぶん、高校二年生の春くらいだったかな。

 アタシとロサ子は、まだ桜が咲いている朝の通学路を一緒に歩いていた。

 気が付いたら、毎朝街路樹が見守る通学路で待ち合わせて、一緒に適当なことを言いながら時間を過ごす。それが当たり前になっていた。


「ふぁよぉ~」


 大あくびをするロサ子。その口に、落ちてきた桜の花びらが入りそうになる。とっさに手を伸ばして花びらをキャッチすると、寝ぼけてたロサ子瞳が真ん丸に見開いた。


「へへ、ごめんね~」


「まったく……また夜更かし」


 どうにも、この女の子はたまに夜更かしをしてしまう。いや、アタシとアイツも人のことは言えないんだけど。


「うん、漫画が面白くて」


 取り出したのは携帯端末、画面上にはとあるSNSのUIが表示されていた。

 『つぶやEATER』なんて駄洒落じみた名前のサービスだ。たぶん、クラスのみんなに聞けばみんな知っているし、アタシも例外じゃない。

 画面上に並ぶのは十文字程度の緩い呟きと、適当に見繕ったユーザーを示すアイコンたち。「おはよう」だとか「だるい」だとか、適当極まりないメッセージがあふれている。

 でも、それだけじゃない。論文じみたメッセージとか、ロサ子が夢中になるような漫画だって投稿される。漫画を載せて感想や反応を募る人はよくいるし、中には目を見張る名作だって投稿される。

 けど、問題は――


「そぅしたの?」


 あの時は、眠たげな口調で問いかけられて、ようやく現実に帰ってこれた。


「な、何でもない」


 たぶん、表情に出てたと思う。ロサ子がおっとりしてなきゃ気づかれてたと思う。

 ロサ子の示した画面に表示されているアカウント、その名は『Sモインズ』。それは、アタシ"たち"の物で――


「この漫画、面白いんだよ」


 今まさに指さしている画像は、昨日まで散々見続けたアタシ"たち"が描いた漫画だ。


「お、おお、面白かった、の?」


 今まさに、目の前に読者がいる。そう考えると、喉がカラカラに乾いて、舌がうまく回らない。心臓はバクバクなってて、返事を待つ時間がもどかしかった。


「うん、とっても」

 

 だから、はちみつ色の笑顔でお墨付きをもらった時は、思わず絶叫しながらガッツポーズをとりそうになった。まあ、なんとかガッツポーズだけで済んだけどね。


◆◆◆


 アタシにとって大切な人が二人いる。

 一人は、はちみつ色の笑顔の女の子。

 もう一人は、ずっと一緒だった男の子。


 ロサ子との出会いは割と覚えてるけど、もう一人――『栗生』との出会いは本気で覚えてない。

 気がついたら一緒に居て、気がついたら一緒に遊ぶようになってたお隣さん。いっつも不健康そうな顔をした、冴えないアイツ。


◆◆◆


 沈みかけの太陽から、茜色の光が差し込んでいた。

 古今東西の書物が積み重なった汚い部屋。何度も入っても眩暈がしてくる栗生の部屋で、アイツはアタシの話を聞いて手を叩きながら笑っている。

 内容は、もちろんロサ子の事だ。


「ははっ、それはよく我慢できたね。いっそ自分が描いてるっていえばいいのに」

「恥ずかしいっ!」


 ロサ子の性格を考えれば確実に周りの人間に言いふらすだろう。アタシのクラスのグループの中には、漫画を『子供っぽい』なんて見下す子もいるし、余計なトラブルはごめんだった。


「それに、文化祭とかで便利屋扱いされたくないし」


 中学時代、ちょっと絵を描けるって言ったら散々こき使わされた。原稿料はジュース一本。明らかに割に合わない。


「これでこの話は終わり! こんな事言うために来たんじゃないわよ。早く原稿よこしなさい」


「わかってるよ」


 イライラしてたアタシに、栗生はノートを差し出す。

 中身は、アタシたちがSNSに投稿している漫画。その原作だ。


 いつからだったろう、アタシたちは二人で組んで漫画を描き始めた。どっちから言い始めたかも覚えてない。

 漫画が好き、という共通点はあったけれど、アタシは物語を作る才能がなかった。

 逆に、栗生は物語だけは作ることができた。

 今でも時々見返すけど、アイツの才能は本物だった。自分が考えると説明臭くなる場面も、生きている人のやり取りに変えてしまう。


「待ってなさい、なるべく早く仕上げるから」


 ワザとらしく音を立ててノートを閉じる。イメージはおぼろげだけど出来上がってる。

 蜃気楼のように浮かび上がる場面を、確かな輪郭を与えて物語にする。一言で言えるほど簡単じゃないけれど、その作業は本当に楽しかった。


「うん。待ってるよ」


 何度も聞いたアイツからの『待っている』は、心地よかった。

 アタシはそれを聞くたびに思ったんだ。アンタのイメージは、アタシが最高の形で作り上げるって。


「待ってなさい」


 だから、まるで儀式のように約束を返す。

 これで用事は終わり。汚いアイツの部屋から出て、作業に戻る――のがいつもの予定だった。

 

「あ、それと」


 あの時、珍しく呼び止められたんだ。そして、アイツの携帯端末を見せられた。 


「ロサ子さんって、この子かな」


 朝、ロサ子から見せられたSNSの画面。違うのはログインしているアカウント。アタシたちが共同で管理している物だ。

 ちょうど昨日上げた漫画を開いていて、画面の下には『お気に入り』と表示された数値とアイコンが並んでいる。

 ちょうど、ロサ子のアカウントのアイコンが出ていた。


「そうだけど」


「この子、いつもお気に入りにしてくれるんだよね」


 嬉しいことに、アタシたちの漫画はロサ子のお気に入りだった。

 知り合いが応援してくれる。恥ずかしいけど、目の前に生き生きとした感情を出してくれる人が居るのは、たまらなく嬉しかった。


「なら、相手でもしてあげたら?」


「君がしたらいいんじゃないかな。知り合いだっていうし」


「アカウントの管理はアンタに任せてるんだから、頼むわよ」


 あの頃、アタシはアカウントのパスワードこそ知っているけど、宣伝とか感想に対する返信とかは栗生に任せてた。もとい、丸投げしてた。


「だって変なのに絡まれたら面倒だもん。アンタの方が口は達者だし、絡まれても返り討ちにできるでしょ」


「SNSで口は使わないよ」


「そう言うところだっての。クソリプに減らず口叩ける奴の方が向いてるわよ」


 この通り、栗生みたいな人間こそSNSに向いている。今ではちょっとはマシになったけど、あの頃は本当に語彙力とかなかったし。


「シラノは詩人なのに、なーんでアタシには物語づくりの才能がないのかな」


◆◆◆


 そんなやり取りの数日後――

 アタシが必死に原稿と格闘し、気が変わったと追加の場面を持ってきた栗生に死ねとメッセージを送った日々を過ごした後の朝の事だ。


「ふぁぁ……」


 いつもの通学路、ロサ子は眠たそうな瞳で歩いていた。いやまあ、実のところアタシも作業疲れで相当眠かったんだけどね。


「また漫画?」


 自分で話を持ち出して、なんか犬みたいだと思った。ご褒美を欲しがる犬。


「うん、とってもよかったよ~」


 返ってきた相変わらずの素敵な笑顔に、なんか顔が熱くなった。


「感想とか、送ってみたら?」


 そうして、ついつい欲張ってしまう。


「送ってみたら、案外ノリがいいかもしれないわよ」


 というか、絶対返す。アイツはそういう性格だから。


「そうかな……うん、そうかも」


 なんて言ってる間に、ロサ子は携帯端末をすごい勢いで操作してた。メッセージはよく覚えてないけど、結構な分量だったと思う。


「あ、待ってね。返事が来たんだ」

 

 送信も電光石火の速度なら、返ってくる速度も電光石火。

 そして、感情がコロコロ転がるのも、これまた電光石化であった。

 ぱぁっと、ロサ子の顔が明るくなった。

 よくやった、とアイツが目の前に居たら褒めてたと思う。


◆◆◆


 それから、ロサ子と栗生はSNS上で定期的にやり取りをするようになった。

 漫画の感想だけじゃなくて、日々のくだらないこととか、そういう、アタシとロサ子が話しているようなことも――そこに出ないような話題も、たくさん話していた。


「――ふーん」


 うれしい。だけど、ちょっとだけ釈然としない気持ちもあった。

 なんか、面白くなかった。仲間外れにされたみたいで。だけど、ロサ子も嬉しそうだったし、栗生も笑っていた。

 だから、それでいいと思ってた。


 アタシにとって、大切な人が二人いる。

 その二人が、ちょっと歪でありながらも嬉しそうにしている。

 なら、それでいいじゃない。

 自分が知らない間に大切な二人が勝手な関係を築いているのは寂しかったけど、そんなのは自分だけのものだから。


 ――だけど――

 ――季節が秋に変わるころ、それは終わった――


◆◆◆


 アタシの家から歩いて一時間ほどの場所に、比較的大きな駅がある。

 その日、アタシと栗生は漫画の資料を探すために足を延ばしていた。


 都会とは言えないアタシたちの町だけど、駅前は大きな店もあるし、利用する人は多い。


「人ごみは嫌いなんだよ」

 

 うんざりするようなアイツの言葉。駅前とか人が多い場所に来る度に聞いていたと思う。

 まだ暑い季節だった。アイツは不健康そうな顔に汗を張り付けて、恨みがましそうに空を見てた。


「んなこと言って、将来都会で就職することがあったらどうするのよ」


 田舎というほど寂れてないけど、東京とかの本物の都会に比べたら月とすっぽんもいいところだ。


「考えるだけでうんざりするね」


「アンタをそこに突っ込んだら、倒れるんじゃないかしら」


「大丈夫だよ、倒れるときは白野の前にするから」


 思わず眉間を抑えてしまう。就職してまでコイツと一緒にいるなんて、さすがに頭を抱えた。

 でもまあ、否定しきれなかった。なんとなく、コイツとは腐れ縁でずっと一緒に居るんだろうと思っていた。

 そう、そう思ってた。


 なんとか気力をもたせて前を向く。気持ちだけは前向きに。そんな時に、見知った顔が視界に入る。


「あっ」


 ふわふわとした髪と顔。


「ロサ子」


 遠く、人の壁を超えた先にロサ子が歩いていた。

 たぶん、買い物だったと思う。


「えっ!? どこ?」


「そういえば、直接会ったことはなかったんだっけ」


 遠く、人ごみの先を指さす。ちょうど駅前の大きな交差点を渡っている最中だった。


「――かわいい」


「ほっほう、今なんて言った」


「かわいい、って言った」


 からかうつもりで言ったのに、そう馬鹿正直に答えられてしまった。


「あれが……」


 うっとりした顔と声で、ロサ子の名前を言う栗生。

 あんな顔みたいのは、一度きりだった。


 なんだろう。アタシは、人が恋をする瞬間に立ち会ったんだと思う。

 誰かの感情が、誰かにとらわれる瞬間を見たんだと思う。

 その時、ちょっとだけ想像した。今後二人が仲良くなって、アタシが知らない関係や秘密を手にするかもしれない。

 仲の良い二人。その二人からはじかれてしまうかもしれない。

 でも、そんな訳はないって思ってた。


「――当たり前でしょ、ロサ子はアタシの友達なんだから」


 そして、栗生もアタシの友達だ。

 形は変わっても、腐れた縁は消えない。


「そうだね――なら、合流しよう」


「え、ちょっと」


 急に、栗生が走り出した。

 ちょうど、横断歩道の信号が点滅する。


「赤信号!」


 アタシの警告を無視して止まらなかった栗生は、横断歩道を渡りきった。運悪く――そう、本当に運が悪く、アタシは間に合わなかった。

 道を阻むようにタイヤが回る音がする。車が邪魔をして、栗生には追い付けなかった。

 信号が変わった後、もう栗生は視界の中には居なかった。


 それから数時間、探していたと思う。

 それが終わったのは……終わらせたのは、交差点から聞こえてきた激しい衝突音。


 交通事故だった。


 野次馬根性で現場を見に行くと、割れたガラスに前面がひしゃげた車。

 そして、真っ赤な血を流して道路に倒れ伏す栗生だった。


◆◆◆


「冗談でしょ」


 信じられなかった。人がそんな簡単に死ぬとは思えなかった。


「いやいや、アイツの話だったら異世界転生くらいして帰ってくるじゃないの」


 真っ赤な血はそんなアタシの強がりを簡単に粉砕した。耳を貫くサイレンの音と怒号。呆けたアタシは何もできなかった。


 現実感がなかった。でも、栗生が死んだことは事実だった。

 お葬式が終わると、それが現実だって思い知らされた。


「……コンジョ無し」


 居たはずの人間が居なくなる。いつも聞いていた声が聞けなくなる。

 物語の中で、死はありふれている。世界を救うための障害だったり、人間関係の転機だったり、アタシたちは当たり前のように死を利用する。

 それが、どれだけ辛いか、身をもって思い知った。


◆◆◆


 栗生が居なくなっても、季節は容赦なく過ぎていく。

 栗生が居なくてもアタシは生きていて、日常を過ごす。


 当たり前みたいに、ロサ子と一緒に学校に通う。


「最近さ、『Sモインズ』さんが更新しないんだ」


 いつもの登校の時、ロサ子は寂しそうにつぶやいた。


「返事も返ってこない」


 だって、それは当然だった。管理していた人が居ないんだから。


「大丈夫なのかな」


 アタシは、何も言えなかった。

 気が付けば木枯らしが吹いていた。青々としていた街路樹は葉を落とし、枯れた茶色の欠片が冷たい風に流されて消えていった。


◆◆◆


 ロサ子だけじゃなくて、『Sモインズ』は沢山のフォロワーを抱えていた。その中には、心配して直接メッセージを送ってくる人もいた。

 でも、返事はなかった。

 栗生が居なくなって以来、更新は止まったまま。アタシも動かす気にもなれなかった。

 それでも、一方通行のメッセージが十件、二十件と溜まったころ、ようやくこのままではいけないと思って、忘れかけたパスワードを入力した。


 覚束ない指先でメッセージを作っていく。けじめを付けるために。

 もう、続きは書けないと、伝えないと。


 下書きは書いた。このアカウントは共同で管理していたこと。作画担当と物語担当が居たこと。物語担当が居なくなったから、続けられないこと。

 あとは投稿するだけ、それで終わる。

 ほら、送信ボタンはそこにある。それでいいんだ。


 でも、そんな時に通知が来た。相手はロサ子だ。


 ――大丈夫ですか?


 ああ――

 指が止まった。脳裏にあの子のはちみつ色の笑顔と、最近の寂しげな顔が重なった。

 もう、『Sモインズ』は終わりだと聞いた時、彼女はどんな顔をするんだろう。

 黒塗りになった、ロサ子の顔が脳裏を過った。


「いやだ」 


 気が付けば、下書きを消していた。予定にないメッセージを返していた。

 『大丈夫だよ』嘘っぱちだって分かりきってるけど、そうしないといけないと思った。


 ――すぐには難しいかもしれませんが、漫画の続き、楽しみにしています。


 棘が、アタシの胸に突き刺さった。


◆◆◆


 『Sモインズ』を続ける。そのためにはどうしたらいいか。

 また、漫画を描けばいい。絵は描ける。だけど、物語だ。考えていた栗生は、もういない。


 どうすればいいか。

 決まってる、アタシがやるしかない。

 栗生が作る物語を、アタシが作ればいい。


「簡単だ」


 震える声で虚勢を吐き出す。

 そう、簡単だ。アタシが栗生になりきればいい。


 できる? 当たり前だ、だってあいつとは幼馴染で、ずっと一緒にいた。

 アイツがどんな話し方をして、どんな物語を作るのか、忘れようったって忘れられない。


 アイツの顔を思い出す。アイツの言葉を思い出す。アイツの仕草を思い出す。

 何度も見て、嫌というほど焼き付いたシルエットを掘り起こしていく。


「うん。待ってるよ」


 全然似ていない声真似で、自分自身に問いかける。


「待ってなさい」


 自分自身を縛るように、強く意思を吐き出す。

 馬鹿な事、だと今でも思う。だけど、馬鹿になれなかったアタシは空っぽだったと思う。


 燃えるような感情を呼び起こし、筆を走らせる。

 違う、そうだ、違う、そうだ。否定と肯定を何度も繰り返して、その先にある妄執を形にする。

 そうして、物語の続きは出来上がった。


◆◆◆


 続きが出来上がったころには、もう、コートを着る時期になっていた。

 いつもの通学路、眠たげなロサ子は笑顔でいた。


「新作?」


「うん」


「よかった?」


「うん!」


 いつか見惚れたはちみつ色の笑顔。それが。もう一度見れた。心の底から、嬉しかった。

 きっと、栗生だってそう思う。

 だって、栗生になりきったアタシが、あの子の笑顔を見て、こんなに嬉しくなるんだから。


◆◆◆


 それからも、日々は続いた。

 『Sモインズ』のフォロワーは増えていった。そして、ロサ子は変わらず『Sモインズ』を応援してくれた。

 直接、メッセージをやり取りすることも毎日のようにあった。もちろん、栗生になりきって返していく。


 SNSを開く度に栗生を思い出す。そして、なりきってメッセージを投稿する。

 辛いかと言われると、もちろん辛い。だけど、それ以上に怖い。今のアタシは誰だろうか、わからなくなる時があった。

 それでも、ロサ子の嬉しそうなメッセージが届く度に、それでいいと思った。


 二重生活は歪だったけれど、それが続いていくならいいと思った。

 だけど、日常って本当にすぐ崩れてしまうんだ。


◆◆◆


 高校三年生になったころ、ロサ子の様子がちょっと変わった。

 朝はいつもと同じように登校するのだけど、その間の雑談に、とある人影がちらつくようになった。


「後輩くんがね」


 漫画のために帰宅部をキメているアタシと違って、ロサ子は美術部に所属している。

 そこで一緒にやっている、一つ年下の男の子について話すことが増えたのだ。

 

 なんとなく、面白くなかった。

 

「――ああ、なんだろう」


 なんで不機嫌なんだろう。分からなかった。

 胸の奥がざわついて、真黒な脂が胃の中に溜まっていくような不快感があった。

 原因は、きっと後輩ってやつと――栗生のせい。


「栗生が見たら、そうなってたんだろうから」


 そう、栗生のせいだ。

 最後に見た、うっとりした顔。あれは、恋をした顔だから。


 わかる。アタシはアイツの物語を書くために、栗生になりきってきた。

 だから、こういう時にどう思うか、わかってたんだ。


 あの時の心情は、詳細に覚えてる。


 アタシは女で、あくまでロサ子とは友達。

 あの子が男と付き合おうが、嫉妬するわけない。

 だから、これは栗生の嫉妬で、栗生の恋心なんだ。

 しょうがない。アイツは根暗なところがあったから、こんなしょうもない気持ちになるのも仕方ない。


 ほんと――本当は、アタシはしょうもないんだから。

 自分の感情がどこにあるかすら、分からなかったんだから。


◆◆◆


 季節は、過ぎていく。

 いつの間にかロサ子の笑い方は変わって、後輩の話題も増えてきた。

 聞くたびに、アタシの中の栗生は黒い感情を重ねていった。


 この黒い油を、本当に吐き出せたら楽だったと思う。

 いっそ、栗生になりきらなければ、この感情も捨てられると考えたこともあった。

 でも、それは出来なかった。

 相槌をうちながら、変わっていくロサ子をただ見ているだけだった。


◆◆◆


 そして、昨日――高校の卒業式の日。

 アタシは見てしまった。ロサ子が件の後輩と思われる子と、二人で居るところを。


 校庭の隅、人気のない大きな木の下に、真剣そうな男の顔と真っ赤なロサ子。

 思わず、割り込んで話を聞きそうになった。だけど、必死に耐えた。

 誰かが、止めてくれとくれて叫んでいるような気がした。


 内なる声に必死に耐えた。

 やがて、男が去ったあと、アタシはロサ子に話を聞いた。


「告白、されたんだ」


 まだ、真っ赤な顔でロサ子が言う。

 眩暈がした。吐きそうになった。


「それ、で、どうするの?」


 感情をこめないように、仮面をかぶった。

 何が返ってきても、大丈夫なように。


「うん、お付き合いしてみようかな……って」


 続けて出てきた言葉は、思い出しくもない。


「きっと、私にとっても、初めての恋だから――」


 そう――

 ――ロサ子からの感情は、恋じゃなかったんだ。


「うん……そうだね、うん」


 ああ、だから……アタシは、こんなに悲しいんだ。

 悲しんでいるのが、アタシだって分かった。栗生じゃなくて、アタシの悲しみだった。


 なんでアタシが栗生になりきってたか。そんなの簡単だ。

 この子が悲しむ姿が見たくなかった。この子が楽しいって言ってほしかった。

 きっと、それは栗生の感情じゃなくて、アタシの感情。

 

 誰かを好きになって。誰かに笑顔でいて貰いたい。

 誰かに奪われるのが嫌で、そばにいて欲しい。

 きっと、この感情は恋だから。

 この子に、恋をしていたんだから。


◆◆◆


 丸一日、何をしていたか分からない。

 気が付けば、家に帰ってきていた。

 一日たっても感情の置き所はわからなくて、気が付けば、弱音を投稿していた。


「あーあ」


 そして、その弱音に真っ先に反応してくれた人がいた。

 ロサ子だ。

 もう、散々見慣れたアイコンが、真っ先に来てくれた。


 ――大丈夫ですか?


 ただ、シンプルにアタシを心配するメッセージ。だけど、それがたまらなく心に突き刺さる。

 自棄になった行動。その結果、泣かせたくなかった相手に心配をかけている。


 ――大丈夫だよ。


 歯を食いしばってメッセージを送る。

 返信は、すぐに返ってこなかった。

 呆れられたんだろうか。それもそれでいいかもしれない。いっそ、すべてバラしてしまおうか。

 まあ、今更それに意味はないんだけど、単に八つ当たりだ。


 ――上手く言えないのですけど。


 ロサ子から、メッセージが帰ってきた。


 ――あなたが苦しんでいる姿を、見たくないです。


 返ってきたのは、飾りのない言葉だった。

 何も余計なものはなくて、アタシの心にすっと入ってくる、優しい言葉。


「ああ――ほんと」


 ずるいなあ、と思う。

 だって、その感情は分かるから。

 栗生が居なくなった後、寂しそうにしていたロサ子――それが嫌だったから、アタシは面倒なこの生活を始めたんだから。


「こんなの、何も言えないじゃない」


 だから、自棄になってる自分が馬鹿らしい。

 最初から、アタシの望みは決まっていて……アンタに、こんなことを言わせるために闘ってきたわけじゃないんだから。


「振られた相手に励まされるなんて、笑えない」


 笑えないはずなのに、なんか口元が勝手に笑顔を作ってる。


 ――あのさ。


 簡潔に、言葉をつなげる。


 ――なんですか?


 聞きたいことは、一つだけ。


 ――アタシの漫画、読めて楽しかった?


 返事は、すぐに返ってきた。

 内容は、何度も何度も、アタシと栗生が励まされた真っすぐな好意だった。

 はは、見てるかな、後輩君。確かに君は告白したけど、この感情は君に向けられたものじゃなくて、アタシたちに向けられたものだ。

 なら、十分だ。


「恋した相手が、喜んでくれたのなら、意味はあったんだから」


 強がりを吐いて、起き上がる。

 さあて、物語の続きを書きますか。


◆◆◆


 そして、物語ってのは簡単に続いていくものだった。

 時間は流れて、世界は続く。アタシたちは大学に進学して、あっという間に四年が過ぎた。


 ロサ子と後輩は順調にお付き合いを重ねたらしい。後輩くんが二十歳になった時、実際に合わせてもらった。

 ちょっとパッとしないけど、悪い人ではなさそうだった。栗生には負けるかもしれないけど。


 アタシは、漫画を描き続けた。栗生は相変わらずアタシの中に居たし、そいつはガンガン成長した。

 そして、二年前に編集者に見つけてもらって、次の春には雑誌に載せてもらえることになった。

 『Sモインズ』とは別、と言うことにしてもらっている。ロサ子には、ついぞ本当のことを言えなかったから。


◇◇◇

 

 また、春が来た。


 いつか見た時のような、春の空。

 アタシは、桜の花が舞い散る街路樹の下をロサ子と歩いていた。


「遅いよ、白野さん」


「はいはい、わかってるって、ロサ子」


 すっかり大人っぽくなったロサ子を追いかけて、道を歩く。


「それにしても、ロサ子が漫画家さんになるなんて、思わなかったよ」


「アタシはアンタがさっさと主婦になる方が驚いてるわよ」


 時間は経った。お互いの立場が変わるくらい。


「白野さんだって、もうちょっとしたら東京に出るんでしょ」


「まあね、編集さんに色々世話をしてもらったし」


 アタシは少ししたら、本格的に漫画を描くために上京する。

 たぶん、ロサ子と会うことも少なくなるだろうけど。


「――ねえ、白野さんの漫画ってさ、本当にあの人と関係ないの」


「そう言ったでしょ」


 あの人、というのはもちろん、今はロクに使っていないアカウントの事だ。

 おっとりしたこの子でも、多少は気が付くみたいだ。

 ま、絶対に認めないけど。


「でも、すっごい似てる」


「はいはい。似てるだけでしょ」


 さて、どうでしょう。『シラノ』ですから、そう簡単には言えません。


「ん~、白野さんが言うのなら、そうなのかな」 


 いつか、栗生と冗談で話し合った。『シラノ』と『クリス』で、どこかの物語みたい、だと。

 フランスに、シラノと呼ばれる騎士の物語がある。それの主人公はシラノで、別人を装って恋文を綴る。

 気が付けば、似たようなことをやっていた。

 文豪には及ばない――なんて冗談を言っていた日は遠い昔だ。

 あの時、まさかこんな人生を自分が歩むと思ってなかった。


「じゃあさ、これは言ってもいいかな」


 ちょっとだけ、ロサ子の口調が優しくなる。


「昔さ、初恋だって言ったことがあるよね」


「ああ、旦那さんの事でしょ」


 そうそう、失恋の時。


「あれってさ、二回目の恋だったかもしれないんだ」


 思わず、足が止まった。表情、変わってないかな。ちゃんと、仮面が被れているかな。


「誰が初恋」


「さあ、誰でしょう」


 悪戯っぽく無邪気に笑うと、桜の下でロサがくるりと回転する。

 子供っぽい、ずっとアタシが好きだったはちみつ色の笑顔がそこにある。

 もしかしたら、仕返しなのかな。しらばっくれてるアタシに対しての。


「聞いてみたい?」


 真剣な顔で、アタシを見る。


 そこにあったのは、すっかり大人になった女ができる、黄金の笑顔。

 ちょっとずる賢く、試すようにこちらを見ている。

 ああ、言いたいんだ、きっと。


「べーつに」


 だから、そっけなく返してやった。


「ふーん、いくじなしー」


 唇を尖がらせて文句を言う。だけど、相変わらず目は笑っている。

 いいんだ。別に実らなくたって、恋をしていた事実は変わらないから。

 アンタの笑顔を守れたのなら、それでいいんだ。


 もしかしたら、勘違いかもしれない。でも、己惚れるくらいは、許してほしい。

 それが許されるくらいには、カッコつけてきたんだから。


「うん。ならいいよ。また、会おうね、白野さん」


「うん。その時は、また楽しい話をしよう」


 きっと、アタシが栗生だとかどうでもよくなるくらい、この子とは長い付き合いになるのだから。


《了》


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