エピローグ─五年後の世界─

 永遠の眠りについた友は、大工お手製の墓石の下で安らかな寝息を立てている。愚かな支配者により荒れ果ててしまった地に、理想を掲げ、懸命に生きた者だ。

 酒をかけ、淡紅色の花を添える。手を合わせ、あの世でめいっぱい酒を飲むんだぞ、と祈りを捧げた。

「暑い……」

 今日は日差しが強い日だ。日にちをずらせと言われたが、あいにく友が眠った日だ。どうしても今日でなければならなかった。

 残りの酒と花を抱え、今度は海沿いまでやってきた。潮の香りが鼻腔をくすぐり、大きく息を吸い込んだ。遠くに見える島と、人間とアンドロイドが住む島を繋いだ橋は、今は誰も通っていない。少し前には賑わっていたが、今は時期が過ぎてしまっている。

 頭上から白い羽根が落ちてきた。天国からの土産かもしれないと思うも、正体は上を飛んでいく。キメラではない、名前のない海鳥。急下降し、顔を出すと嘴には魚を加えている。今日の夕食は魚にしよう。帰りに釣りをしていけば、ちょうど夕食の時間になる。

 長い橋を越え、草木の生い茂る島に降り立った。今の時期は下生えも太陽光を吸収し、鮮やかな色を作り出す。数年前までは見られなかった光景だ。

「あれから五年か……」

 孤塔が滅んでからもう五年。あのときの大事な人を失うかもしれない恐怖を思い出すと、心臓が不穏な音を奏でる。恐ろしかった。苦しかった。足が震えた。でも今は、生きている。

 瓦礫の撤去は未だに進んでいない。生き残ったアンドロイドたちと話し合った結果、これはこのままでいいのではないかと案が出た。反発し合っていた仲間たちも、これには満場一致でおかしな一体感が生まれた。海に生息する甲殻類を食べているときと似た団結力だ。

 数か月に置かれた花は枯れ、海風に運ばれてそこら中に散らばっている。新しく持ってきた花を添え、地下で永遠に眠る人間たちに心から祈った。天国で幸せに暮らせますようにと、月並みな言葉を添えて。

「また来るよ」

 眠る仲間たちに一揖し、長い道のりをゆっくりと歩いた。海沿いでは老人が竿を垂らし、群がる魚たちを見つめている。

「おじいさん」

「おや……医者んとこの坊やか。食べるかい?」

 二つあるうちの片方のバケツを貸してもらいたかったのだ。老人は魚を二匹バケツに移し、持っていけと渡した。

「ありがとう、おじいさん」

 跳ねるたびに水しぶきがかかる。新鮮な証拠だ。生きているうちに捌いてしまうのが一番いい。釣れなければ市場で買おうと思っていたので、運が良かった。

 活気づいた街は通らず、裏通りを歩いた。稼働している空気清浄機は物静かで、鳥の巣の土台と化している。なんだかおかしい。笑い声に釣られてか、巣から雛が顔を出した。

「シルヴィエ」

 手を上げると、彼女は大きく名を呼んだ。大きな身体を揺らし、手招きをしている。数か月ぶりに会った彼女は、衰えも疲れも知らない。

「久しぶりだね。墓参りの帰りかい? もう五年も経ったんだねえ……。そうだ、ちょっと待ちなさい」

 庭に咲く大輪の花は、太陽を求めるように首を移動する黄色い花だ。シルヴィエは数本もぎ取ると、持って帰るよう渡してくる。ついでに搾りたてのミルクも添えて。

「ありがとう。大事に飲むよ」

「花はハクに渡してやりな」

 シルヴィエは忙しい。束の間の休息は、裁縫や食べることだという。

「ついでにお使いを頼まれてくれるかい?」

「もちろん」

「タイラーにこれを渡してきておくれ」

 布に包まれているものは、新しく作った枕だという。シルヴィエの家とタイラーの家は、少し距離がある。途中で出会うアンドロイドたちと挨拶を交わしながら、目的地へ向かった。

 タイラーの家は、木の良い香りがする。ハンマーで何かを打ちつける音がし、耳が心地良い。

 タイラーはこちらに気づくが、何の用だ、俺は忙しいと一瞥しただけだ。シルヴィエと違い、タイラーとはしょっちゅう会っている。昨日も顔を合わせた。過ごす時間が長いほど、扱いは雑になる。それはタイラーも口を揃えるだろう。

「枕。ほら」

「おっ、シルヴィエからか」

 木屑がついても気にしないのは、大雑把な性格を表している。一度家に戻ると、枕の代わりにカゴを抱えていた。

「カゴごと持っていけ」

 えらい高いお駄賃だ。ミルクと卵。そして家にはシュガービーツ。黄色いぷるぷるした甘味が浮かんでは消える。お礼を述べ、今度は寄り道せずに家に帰った。

 タイラーに作ってもらったこじんまりとした庭に、これまた小さな墓石がある。毎朝、掃除をしているので、汚れもなく綺麗なままだ。

 備え付けの瓶に花を挿し、残った酒を供えた。エッグノッグの方が好みだろうが、今はこれで我慢してもらおう。

 しゃがんで手を合わせていると、家のドアが開く音がする。足音は徐々に近づいてきて、背後で止まった。

 しっかりとハクに挨拶をした後、背後にいる人物に振り返った。

「出ていくときより、なぜ荷物が多くなっているんだ」

「いろいろ事情があるんだって。長くなるぞ」

「……手短に頼む」

 できる限り短めに、魚から卵までの道筋を順を追って説明した。

「というわけで、黄色い花はハクに、魚は今日の夕食、ミルクと卵はプリンに変わります」

「……………………」

「食べたいだろ? プリン」

「……早く中に入ろう。お前も薬を飲め」

「はーい」

 大事なことを忘れていたのに気づき、彼の白衣の裾を掴んだ。

「まだ言ってなかった。ただいま、父さん」

「おかえり、凪」

「仕事は終わりだろ? 先に風呂に入っててくれよ。その間に夕食作るから」

「ああ」

 疲労の溜まっている父さんをシャワールームに押し込み、キッチンに立った。キッチンには採れたてのシュガービーツやジャガイモ、玉ねぎが置かれている。俺にはポテトサラダが食べたいという物を使った圧力に見えた。勢力が強い。

 父さんが出る頃には焼き魚以外は完成していて、年々上がっていく腕前に自画自賛だ。

「なんだと……」

「だってポテトサラダなんて一時間以上もかかるんだよ。冷まさないといけないし。オムレツだって美味しいって。俺もシャワー浴びてくるから、ちゃんと髪の毛乾かすんだぞ」

 ジャガイモのオムレツを見ては、呆然としている。そんなにポテトサラダが食べたかったのか。もっと時間のあるときに言ってくれ。

 五年で伸びた髪の毛は女性と見間違うほどに伸びた。またそのうち切ると本人は言うが、いつになることやら。意外と長髪が気に入っているのかもしれない。

 異変を感じたのは、出ようと思ったときだ。鼻が敏感に感じ取っている。凪、キッチンに行けと危険を知らせた。

 急いでバスローブを羽織り、キッチンに向かうと、フライパンを見ては立ち尽くす父の姿がある。

「……おかしい」

「そ、そうだな……でも皮だけで、中はきっとふっくらしてると思うぞ。美味しそうだなあ」

 息子のためを思って焼いてくれた魚は、消し炭と化している。いろいろと泣きたい。

 フォークで身を裂いてみると、中までは問題なかった。これだと皮を剥げば一品料理の出来上がりだ。

 野菜たっぷりのオムレツと焼き魚、そしてスパイスの利いたパンで今日の夕食は完成となる。

「東の海も、浄化が進んでいるそうだ」

「それなら近いうちにあっちの海の魚も食べられるようになるかもな」

「何年かかるか分からんがな。変わりないか?」

「おう。体調もばっちり。けっこう遠出したんだよ。ドイルさんの墓参りに行って、孤塔に行って、シルヴィエとタイラーの家にも行ったから。今度一緒に釣りに行こうよ」

「ああ、そうしよう。それと……」

「ご飯食べたらプリンを作るって。心配しなくても大丈夫」

 医者として絶対に見せない顔だ。安心しきって、シュガービーツを口にする。明日のおやつには食べられるだろう。まさかあんな事件が起こるとは、夢にも思わなかったけれど。


 朝の日課は、まずは小鳥のアースに餌をやり、汚れていたらケージの掃除もする。放鳥させつつ家畜たちの部屋も綺麗にし、栄養たっぷりの餌を与える。山羊は乳を重そうに揺らしながら起き上がった。

 菜園は新鮮な水とポンプが作動しているかチェック、採れそうなシュガービーツがあるが、止めておいた。冷蔵庫にまだ入っているし、あればあるだけ食べてしまう同居人がいる。

 地上に出て、玄関と庭の掃除だ。秋になると枯れ葉で埋め尽くされるが、今は濃緑の時期で昨日とほぼ変わらない風景……だったのだが。

「なんだ? これ……」

 見覚えのない封筒が、ハクの墓に置いてある。差出人はないが、宛名は俺の名前だ。字を習い始めなのか、子供か大人か分からない。大人でも、まだ字が書けない人は多い。タイラーち大工は孤塔を繋ぐ橋や学校を建ててくれているが、まだ教育現場が整っているわけではない。

──ずっと、すきでした。

 これは。恋愛小説で何度も読んだ。いわゆる恋文というもので、何かの間違いだともう一度宛名を確認するが、やはり俺の名だ。

 言うべきか、放っておくべきか、知らないふりをするべきか。いろんな選択肢は枝分かれになっていて、相手を思うのなら間違えられない。

 大雑把に掃除を終わらせ、地下に戻った。

「父さん、起きてる?」

 キッチンではすでに身支度を整えている父が、鍋をかき回している。残った屑野菜でスープを作っていた。大丈夫。昨日と違い、今日は焦げていない。でも火力が強かったので、こっそり弱火にしておいた。

「おはよう、どうした?」

「おはよう。あのさ、ちょっと事件があって」

「なんだ?」

「いや、そんな切羽詰まった話じゃないけど!」

 いきなり低い声を出されると、ちょっとだけおおう……ってなる。

 手紙を父さんに渡し、代わりにおたまを俺が受け継ぐ。この方が気持ちに余裕が持てる。放鳥させていたアースもやってきて、父さんの肩に止まった。一緒に手紙を見る姿は、人間と鳥で種族は違えど本物の親子だった。

 宛名をじっくりと見て、段々と眉間に良からぬ溝が出来始め、見せたのは正解なのか分からなくなってきた。

「大事件だ」

「そんな大した話じゃないだろー」

「大ありだ。直接渡されたのか?」

「ハクの墓に置いてあった。ハク宛かと思ったんだけど、俺の名前が書いてあったから」

「怪しいものがあった場合、むやみやたらに触れるなよ。治安は良くなったとはいえ、物取りや詐欺などは多いからな」

「はーい」

 父さんは紙を光にかざしたり、浄水を垂らしてみたり、思いつく限り試すが、とくにこれといって紙におかしな点は見当たらない。となると、考えられることはただ一つ。

「本物のラブレターってこと?」

「…………許さんぞ」

「まだ何も言ってないって。けど悪戯であれ本心であれ、誰が送ってきたものかは気になるよな」

「ああ、そうだな。ただ後者だった場合、私は…………するかもしれない」

「お、おう……そうか……できればお互いに穏やかに話し合いで終わらせたいところだけどな」

 たくさんプリンを作ったらご機嫌になってくれるだろうか。父さんの目は、五年前の海のように、荒れ果てて濁りきっている。ゆっくり時間をかけて、澄んだ目にしていこう。

 まずはパンと野菜スープの朝食を終え、ふたりで事件現場に向かった。庭にもハクの墓にも、不審な点は見当たらない。

「足跡もなしか」

「昨日はあれだけ晴れていたからなあ。泥濘でもできていれば残るんだろうけど」

 しゃがんで下生えに触れ、ハクの墓も裏側まで念入りに調べる。俺も似たようなことをしたが、残念ながら成功裏に終わりはしない。

 父さんは遠くを見回した。ここ五年の間に新しく建てられた家があるくらいだ。外にいるのは俺たちだけ。迎えの家は、若い女性が一人住んでいる。少し離れたところにある二軒は、若い夫婦と子供、もう一軒は老人が一人で居住している。

「この分だと手紙の主を見ましたなんていう都合のいい展開は無理そうだな」

「手紙を私に預けてくれないか?」

「構わないけど……なんで?」

「………………不都合が?」

 口調はめいっぱいに優しい。口元は笑っていても、目で銃を撃てるんじゃないかと思うほど、怖い。ここは素直に従うべきだろう。おとなしく差し出した。

 家から老人が出てきた。いつもはベンチに腰掛け、外の様子を眺めているのだが、今日はまっすぐにこちらに向かってくる。父さんは手紙を白衣のポケットにしまい、こっそり人差し指を口元に当てた。オーケー、言うなってことだな。あのおじいさんは、少し話が長い。

「今日は息子さんも一緒かい?」

「ええ、いかがされましたか?」

「足の調子が悪くて、診てもらえないかい?」

「中にどうぞ」

 診察室で待たせている間、俺は地下に戻った。作らなければならないものがある。今作っておけば、夜には食べられるだろう。


 一日一回は暑いと言っている気がする。地下に戻ってくる父さんも額には汗が浮かんでいた。

 ピークを迎える前に、俺は湖まで魚釣りに出かけた。まるまると大きくなった魚を釣り、父さんに褒めてもらいたい。

 糸を垂らしてお待ちかねの時間はわずか十分ほどでやってきた。湖に引きずり込まれるほどの強さが襲い、渾身の力を振り絞って耐えた。耐えて耐えて、一瞬の緩みに一気に引く。緩急の繰り返しだ。

 針を咥えていた魚は大きく、ふたりで食べるには充分すぎる。光が当たり、銀色の個体は眩しかった。

 汗を拭い、踵を返そうとしたときだ。近くの森で葉の擦れるざわめきが起こった。人間がいるところには極力出てこないが、秋になるとたまに街に顔を出す。狩猟以外では近づいてはいけないことになっているので、気にはなるが森とは反対方向に進む。魚を狙った動物だろう。

 今日は患者はまばらで、裏口からこっそり中に入った。五年前にはなかった、タイラーが作ってくれた扉だ。地下に下りようとするも、父さんがドアを開けておかえりと言ってくれる。

「ただいま。仕事は大丈夫なのか?」

「今は落ち着いた。随分なものを釣ったな」

「すごいだろ? ふたりでも大きいくらいだよ」

 聞きたかった手紙については触れなかった。捜査中であれば、むやみやたらに口を出すべきではない。気にはなるけれど、ここは我慢だ。

 地下に戻り、魚や野菜を処理して一息ついた。お茶を入れようとカップを準備していると、父が戻ってきた。

「凪、少し緊急だ。地上に来られるか?」

「大丈夫だけど、なんで?」

「お前にも会いたがっている人がいる」

 一旦、火を止めて階段を上がると、診察室に通される。良く見知った人物だった。俺たちの家から歩いていける距離にある家の夫婦で、女性だけが座っている。不安定なのは顔を見れば伝わる。

「どうしたんですか?」

「子供が……娘がいなくなったんです」

 患者ではないが、顔色が悪い。ろくに水分も摂っていないのか、唇がかさついていた。父さんは向こうで何か機材を弄っている。

「まだ小さいですよね? 五歳か六歳くらいの。いついなくなったんですか?」

「今朝はいました。朝食も一緒に食べましたし。主人は仕事が休みだったんです。てっきり面倒を見てくれているんだと思ったら、部屋で二度寝していたなんて言ってきて。昼食の時間帯にはいませんでした」

「どの辺りを捜しました?」

「付近はほとんどです。私が目を離したばっかりに……」

「ご主人はどちらに?」

「今、街の方を捜しています。凪さんが湖の方面へ行くのが見えたので、娘を知らないか聞きたくて」

「魚を釣りに行きましたけど、人には会いませんでしたよ」

 喉の奥がちりちりしたが、正体が何なのか掴めない。

 父さんは女性にベッドに寝るよう指示をした。

「悪いが、不調の人は医師として放ってはおけないんでね。強制的に点滴を打たせてもらう」

「はあ……お願いします」

 これで少しは顔色が良くなるだろう。走り回っている父親も心配だ。

「何か……ちょっとでも手がかりがあればいいんです……海もありますし……考えたくないことまでよぎってしまって……」

「教育現場でも海や森に行くなと教えられているでしょう。ちゃんとあなたの娘さんも分かっています」

 安心させるためか、父さんはなけなしの言葉を口にする。それで母親が落ち着くとは思っていないだろうが。

「一つお伺いします。なぜ私たちに、いえ、凪に助けを求めに来たのですか?」

 え、と声に出してしまった。それは少女の母親も同じだった。

「人と接する機会の多い私ならともかく、なぜ息子なのか疑問に思うところです」

「それは……」

 母親は押し黙り、何も言わなくなってしまった。何と声をかけたらいいのか分からず、父さんに任せておこうと、一滴ずつ丁寧に垂れ落ちる栄養分を黙って見つめた。

 液体が母親の身体にすべて吸い込まれると、父さんは何も言わずに針を抜いてテープを貼った。見えない攻防戦が繰り広げられている。父の無言は俺に、相手が何も言わなければお前も何も話すな、と言っているようだった。

「最近、娘は朝食の前に外でブランコをしたがるんです」

 接戦の末、口を開いたのは母親だ。

「あなたが毎朝、庭や玄関の掃除をしているのは知っています。娘の姿をよく知っているんじゃないかと思って……」

「でもお互いの家は目と鼻の先ってわけじゃないし、ここからだとあなた方の庭は中まで見える構造ではないので、はっきりとは。あ、でも……」

 あれはいつだったろうか。1か月か、それほど前だ。患者が多い日、久しぶりに診察室に駆り出され、父さんの手伝いをしていたときだ。

「……確か、けっこう前にここに来ましたよね?」

「ええ、あのときは私が体調を崩して、主人は仕事でいないので、娘を連れて来たんです」

「顔を覚えているようないないような……ダメだ。分からない」

「私が診察をしている間、何か作っていなかったか?」

「あ、うん。紙で飛行機を作って遊んでたなあ」

「娘はとても喜んでいて、家に帰ってからも一人で上手に作っていました」

 記憶を辿っても、ヒントになりそうなものはない。今日一日で起こったことを巻き戻してみた。

 起床して、家畜と菜園の世話、アースの放鳥。地上に出て、玄関や庭の掃除。ここまではいつもの流れになる。変わったことがあったのはこの後だ。ハクの墓に置かれた、俺宛の手紙。差出人は不明。

 地下に帰ると、キッチンで父さんが朝食の準備をしていて、おたまと手紙を交換した。手紙は父さんに預けてふたりで食べ、それぞれ仕事に戻った。

 昼食も一緒に食べてから、父さんは診察室、俺は今日の夕食のために魚を釣りに湖まで出かけた。大きな魚を釣り上げ、家に戻ろうとし、その後は。

「……………………」

「どうした? 凪」

「いや……なんか……今日、」

「気になることがあれば、何でも言ってくれ」

 あったじゃないか。気になることが。引き返そうとし、振り返って森を見た。無風なのに揺れた葉と野生動物の存在。俺は姿を見たのか。違う、野生動物と思い込んでいただけだ。影も見ていないし、鳴き声も聞いていない。

「父さん、森に行きたい。湖のところにある森」

「分かった」

 幸い、待合室には誰もいない。三人で家を出て、湖の方角へ向かった。

「ここで、魚を釣ったんだ。そしたら、あっちの森で風も吹いていないのにざわめきがあって……何か音がする」

 耳を澄ましてみると、すすり泣く声が微かに聞こえた。行こうとする俺を制し、父さんはひとりで森に向かう。俺も後ろをついて歩いた。

「まあ、まあ……なんてこと!」

 金切り声を横で上げられ、耳に針を刺した感覚が残る。

 覚えのある少女が動けないでいる。足には狩猟に使う罠が絡まっていて、ズボンに血が滲んで土に滴り落ちていた。緑の葉が季節外れの紅葉になっている。

「ミーシャ、ミーシャ……」

「触るな」

 父さんは無理に剥がそうとする母親を止め、ナイフで膝の辺りからズボンを切り裂く。

「凪、ひとりで家に戻り、手術の準備を頼む。縫わなければならん。肉がえぐれている」

「分かった」

「お兄ちゃん……」

 父さんじゃない、ミーシャは俺を呼んだ。手を握ると、顔に笑みが零れる。頬を伝う涙の跡は、すでに枯れてしまっている。手が熱い。熱を下げる薬も必要だ。

 全力で走って家に帰り、俺は白衣を身につけた。消毒液、ガーゼ、針と糸、解熱剤やその他諸々の薬。

 罠を外したのか、ミーシャを抱きかかえて父さんがやってきた。手術室まで母親が入ってこようとするものだから、さすがに止めた。いてもたってもいられない気持ちは、五年前に学んでいる。気持ちは分かる。けれど譲れない。

 レントゲンを撮ってみるが、骨に異常は見当たらない。足を消毒し、麻酔を打つのは父の役目。父さんは針に手を伸ばさない。

「俺がやるの?」

「適任だろう」

 泣き疲れたからか安堵感からか、少女は眠りについている。俺は針を手に取った。


 泣くでもなく笑うでもなく、少女は縫われた箇所を見ては何度も首を傾げている。俺の腕の中で、母親には抱っこされたくないと意思表示の結果だ。なぜこうなった。

「良かった……本当に……どうなるかと……」

 数種類の薬を説明するが、父さんの話を聞いているのかいないのか。泣き虫は娘から母親に乗り移ってしまっている。

「どうして、一人で森にいたの?」

「……………………」

 子供の扱いは上手いわけではないが、この子は俺によく懐いてくれた。

「一人で外に出ちゃったの?」

「……………………」

 じっと俺を見るだけで、何も言わない。子供は素直だ。だからこそ、失礼に当たる行為も無邪気にこなす。

「ひこうき、つくる」

「飛行機? また作るの?」

 頷いて、俺の首にしがみついた。

 余っていた紙を渡すが、彼女は頭を振るだけでまただんまりだ。そして俺を見つめる。作れってことか。

 ソファーに並んで座り折っていると、父さんたちの話が終わったようだ。母親は我が子を抱きしめると、嫌がる娘に頬すりをする。

「無事で良かったですね。父さんの作った薬は効きますし、すぐに良くなりますよ」

「無事…………」

 母親の目は、俺は過去に見たことがある。自分の子供を守ろうとするあまり、目の前の異物を排除しようとする目だ。忌々しいと、俺に厳しい叱責を向けている。

「なぜ気づかなかったんですか? 湖から近くて、動物か人間か確かめに行こうと思わなかったんですか? 縫うほど怪我をさせておいて、どこが無事だったんですか!」

 最後の方には、俺はほとんど聞いていなかった。母親も、絞り出すだけ出して、何を言ったのか分かっていないと思う。感情を吐き出したくて声に乗せただけでも、俺には心臓を抉られる痛みだった。

 母親はミーシャを抱き上げ、大きな音を立ててドアを閉めた。宝物が奪い取られたみたいに、空虚感が残された。

「いてっ」

 呆然と凍りついていると、後頭部に何か当たった。

 作りかけだった紙飛行機が、不器用に形作り、床に落ちている。

「お疲れ。手術は成功。よくやってくれた」

 確かに、成功はした。自画自賛するほどに、準備から完璧だった。

 悲しみとか情けなさとか、言葉にしづらいものが溜まっていく。

「ちょっと、外に行ってくる」

 庭に来て、ハクの墓の前で腰を下ろした。父さんが折ってくれた紙飛行機を手土産に、そっと置いた。ハクなら父さんの作ったものはなんでも喜びそうな気がする。いや、なんでもは言いすぎだ。唯一、父さんお手製の料理を前に、固まったことがあった。

 救えた命。けれど、救えなかったものもある。俺は後者に気づけなかった。成功だと疑わなかった。母さんが父さんに、病気や怪我だけを治すことが仕事ではないと言い、それは俺にも受け継がれた。見せかけだけで、俺は何も理解していなかった。

「なあ、ハクならどうする?」

 気の優しいハクなら、相手が望む言葉を添えて負担を取り除いてくれるだろう。こっそりを裏道を抜けて、俺が気づかないようにしながらあったかい心にしてくれる。

「また頑張るからな、俺」

 くよくよしないのが父も認める俺の長所だ。立ち上がって大きく伸びをし、気合いのために頬を叩いた。今日も暑い。ジャガイモやトマトを入れた、冷製スープでも作ろうと思う。

 家の陰から美しいブロンドヘアーが見えた。こんなに暑いんだから、中に入ればいいのに。俺の心もじんわりと熱くなる。

「魚とスープでいいか?」

「構わん」

「早く入ろう。暑いし」

 遠くで、嗄れたキメラの鳴き声がした。人間たちは、失った自然を取り戻そうと汗を流している。キメラは元通りにはならないが、せめて天寿をまっとうできますように。

「今日さ……あの……」

「なんだ?」

「……一緒に寝たいんだけど」

 キッチンに入ったところで、父さんの足が止まる。呆れられたか。

「もう少し大きめのベッドを作ってもらった方がいいな。お前は寝相が悪い」

「あっそういうこと言う? 父さんの寝言で起きたことがあったんだけど」

「寝言だと?」

「シュガービーツがどうのって言ってた。食い意地張りすぎ」

 いつまで一緒に寝てもいいのだろうか。そろそろ、ひとりで寝ろって言われる気がする。今は甘えるだけ甘えておこう。


 放鳥したアースもご機嫌で、父さんのところに連れていけと鳴き続ける。部屋のドアを開けると、一目散に寝室に飛んだ。ついでに起こしてもらえると助かる。

 今日もとびきりの天気だ。

「ハク、おはよう。今、掃除するからなー 。あれ?」

 昨日置いたはずの紙飛行機が無くなっている。代わりに、またもや手紙が置いてあった。そういえば、手紙の主がまだ判明していない。いろいろありすぎて、手紙まで頭が回らなかった。

──ひこうき、どうもありがとう。まま、おこってないよ。

 庭と玄関の掃除を終えて戻ると、父さんは起きていた。手紙に気づき、口角を上げる。

「もしかして、手紙の持ち主に気づいてた?」

「ああ。最初、見たことのある字だとは思ったが、確証はなかった。過去に彼女の母親から書いてもらった問診票に、ミーシャが落書きをしたことがあった。それを見返し、気がついた。庭が目隠しをされていても、ブランコに乗ればお前の姿は見えるだろうしな」

「俺……告白されたの初めてだよ……」

「……許さんぞ」

「さすがにそこまで年が離れていたらアウトだって。それより父さんはいないの? 患者さんの中で気の合いそうな人とか」

「私が生涯愛するのはサキとお前だけだ」

「うわあ、熱烈」

「今日はタイラーのところへ行って、大きめのベッドを作ってほしいと頼んできてくれ」

「はーい」

 いつまで一緒に寝てもいいのだろうか。同じ台詞が頭の中で回り始めるが、結論はやはり、甘えられるときに甘えておこう、だ。

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アレの眠る孤塔 不来方しい @kozukatashii

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