第37話 ありがとう、アルネス

 この世に神様がいるのなら、愛する人が世界一幸せになれますようにと祈りたい。

 命を投げ打ってでも守りたいものがある。心臓を授けても生きてほしい人がいる。

 目の前に置かれていく機材にいよいよだと、俺は覚悟を決めた。本当は決めなければならないのは俺じゃないのに、本人は今夜はシュガービーツが食べたいと言い出しそうなほど普通すぎるくらいに普通だ。

 そんな平常通りの空気の中、風船を針でつつくみたいな真似をしたのは、アルネスでも俺でもなかった。

「儂は、もう長くない」

 死が来ないと告げられたときよりも、恐ろしい言葉だった。心臓を針で刺された感覚。

「だから、早めに手術を行いたい。弟子が成功する姿を見て、あの世に逝こう」

「ドイルさんの体調が悪くなったら、俺が」

 胸倉を掴まれた。締めつけられる喉が悲鳴を上げる。死が近い人間の力とは思えないほどの強さだった。

「小童よ、出来もしない約束などするべきでない。寿命はどうにもならん」

 年の功の前では、俺のちっぽけな同情など無意味だ。返す言葉も見つからない。

「いつ……やるの?」

「明日だ。時間を延ばせば延ばすほど、つらくなるのはアーサーだぞ」

「ドイルと決めた。明日、手術を行ってもらう」

 政府が住む孤塔が壊れてからまだ一週間だ。慌ただしいピークは過ぎ去ったものの、落ち着かない日々は変わらずだ。

「なんで……そんな……急すぎるよ」

「ならば、いつならいい?」

 赤子に聞くような、甘ったるい声だ。喉に砂糖菓子でも詰まっているのかもしれない。

「一年後とかだと思ってたから……」

「それだと遅すぎる」

「…………一か月後とか」

「きりがないな」

「なんで笑うんだよ、もう」

 隣に来い、と言われ、おとなしくソファーに腰を沈めると、アルネスは俺の頭を撫でた。優しいのは声色だけではなかった。

 いつの間にかドイルさんはいなくなっていて、それならばと、遠慮なく父の肩に身を預けた。

「疑似の心臓には、解毒をする機具も取りつけられている。取り除くということは、お前と同じ生き方をしなければならないということだ」

「外を歩くたびに薬を飲んだり?」

「そうだ」

 それが幸せかどうかは、不死を与えられた人間にしか計り知れない。俺からしたら、面倒が省けていいとか、メリットばかり浮かぶ。デメリットは、授かった本人だけが苦しむ余波だ。

「頼むぞ、凪」

「頼まれた。けどさ……今日、」

「一緒に寝るか?」

 俺の考えなんてお見通しだ。

「うん、寝る」

 すぐに元に戻るが、口元が笑った。ダメだとも嫌だとも言わない。いつまで甘えていいのだろうか。自分の年齢は具体的には分からないが、大人だからひとりで寝ろとそろそろ言われるかもしれない。

 ベッドに入ると、冷えた足が次第に熱を持っていく。ひとりより、ふたりの方が暖かい。

「手術……怖くないの?」

「それ以上に怖いものを知っている。大事なものを失ったとき、気が狂った」

 いつも冷静なアルネスは、取り乱したりするのだろうか。見たことがない。

「孤塔でお前が現れたとき、心穏やかではなかった。もしお前が怪我をしていたら、人間たちに……していたかもしれない」

 久しぶりに出たブラックアルネスだ。そうかそうかと、背中を叩いた。冗談を言わないので、今のが本音なのだろう。しかと心に刻んでおく。

「お前なら大丈夫だ」

「根拠ないよ、それ……」

「私にはある。お前ならやれるさ」

「なんだか自信がついてくるよ」

「冷静に、頭のどこかで失敗をしたことを考えておけ」

「どういうこと?」

「絶対などない。万が一が起こった場合、リスクと戦える冷静さを出せるのは、失敗を抱えている者だけだ」

「十二分に承知しました。リスクを想定しろってことだな」

 アルネスの声は眠くなる。何か薬でも飲まされたんじゃないかと思えるほど、副交感神経が活発になる。

「父さん……」

 意識を失う前、アルネスと呼びたかったのに、口から出たのはまだ面と向かって言っていない呼び名だ。きっと、アルネスが一番に呼ばれたいと思っている言葉。

「……次は、移植が成功したら呼んでくれ」

 生まれて初めての腕枕は、固くても一番安心できる寝具で、骨折の治りが異常な彼の身体を突きつけられた。

 うとうとし出したとき、頬に柔らかい感触が当たり、漕いでいた船が夢の中に突き進んでいった。


 シルヴィエの持ってきてくれた花を見て、俺は驚愕した。普通なら綺麗だとか、良い香りとか、当たり障りのない褒め言葉を口にするところだが、あいにくそんな世界とは無縁に生きている。

「普通の花だ……」

 感想がこれだ。シルヴィエの顔は不服だと、眉毛がハの字に曲がる。

「それだけかい?」

「だってさ、ピンクの花ってここに来て初めて見たから。大抵はどす黒い色とか斑模様とか、サメの歯みたいにギザギザしたものが生えてたりするし」

「街で買ってきたんだよ。綺麗だろう?」

「うん…………」

 瓶の中で生きる花は一日しか持たないという。綺麗なんて言葉で片づけてはダメだ。

 アルネスは、世に生きる生物たちを信じてみたいと言った。信じた想いが届き、希望の色を宿して咲かせたんだと思う。外を歩いても、俺はこんな美しい色の植物は見たことがない。花も必死で生きようとしている。

「枯れてもさ、きっと種になる。俺はアルネスと一緒に育てるよ。ありがとう、シルヴィエ」

「どういたしまして」

「シルヴィエもこれからが大変だな」

「ほんと。アーサー先生が新しい未来を作ってくれようとしたんだ。私はそれをいい方向に持っていくだけさ。凪も頑張りな」

 シルヴィエと話していると、母さんとつい呼びたくなってしまう。あったかさと間違いを正せる心を兼ね備えている人。指導者に向いている。

「タイラーは本当に来なかったんだな」

 新しい門出に姿を現さないところは、タイラーらしいとも言える。

「あいつが来て暴れられでもしたら具合が悪くなる」

「アルネス」

 薄手のガウンに着替えたアルネスは、いつも通りとは言い難い格好だ。服のことではない。シルヴィエも、小さな息を漏らした。

「さっぱりしたな。似合ってるよ」

「そうか」

「俺よりまだ長いけど」

 あれだけ長かった髪が、今は肩くらいに切り揃えられている。前髪も作り、髪に隠れて見えなかった目が、俺を捉えていた。

「先生、外の心配はいらないよ」

「ああ。私が起きる頃には、外はさらにより良い方向へと進んでいるだろう」

 アルネスとシルヴィエは握手を交わし、俺たちはいよいよ手術室の中に入った。

 心臓が高ぶる。血を送るポンプは意思がなくとも懸命に動き、命を繋いでいる。緊張から狂う動きも、生きている証だ。

 同じように、アルネスにも狂おしい音を体験させてやりたいと思う。当たり前にあるはずのものがなくて、千年以上死ぬに死ねなくて、どれほどもがき苦しんだだろう。

「ふたりで生きて、ふたりで一緒の墓に入ろう」

「ああ、そうだな」

「良くなったらさ、またプリンも作るから」

「それは楽しみだ」

 奥でドイルさんが機材を動かしている。俺たちの話には、入ってこようとしなかった。

「アルネス……アルネス」

「凪、よく聞け。医師が患者の前でそのような顔をすべきではない。私まで不安になる」

「うう……アルネス」

「参ったな。お前は医師に向いていると思ったが、考え物だ」

「手術は、絶対に成功させる。アルネス、本当にありがとう。アルネスが生かしてくれた俺を、今度はアルネスに受け継ぐから。なんとしても、生かしてやる」

 死んでもおかしくなかった状況で、永遠の眠りから起こしてくれたのは、神様だった。甘いものをこよなく愛し、長い髪を弄る癖があって、メスを扱う手は華麗で美しい。神様が父親なんだぞ、とスピーカーで銀河系に向かって叫んでやりたい。

「ありがとう……ありがとう」

 何度言っても言い足りない。

 次第に、繋いだ手から力が抜けていった。

 点滴が垂れるたび、アルネスの目は俺を映さなくなる。

 皺のない白いシーツに手が沈んでいく。

 呼吸とモニター音が規則的に音を鳴らす。

「凪、準備はいいか?」

 ドイルさんから初めて名前を呼ばれた。

「……いつでも」

 ハクに似た笑みで、アルネスは穏やかに眠っている。

「いい顔だ」

 俺に言ったのか、アルネスに言ったのか。

 意外と俺の心臓は緊張の高ぶりがない。

「アルネス……もう少し眠っててな」

 行こう、とドイルさんと目配せし、メスを握りしめた。

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