感謝

スヴェータ

感謝

 紫色の空が私たちを覆う。中指の第二関節が僅かに触れ合う距離感で、長くのびた影を踏みながら歩く。整備されていない黒の土道。影が溶け込んで、深い闇の底のように見えた。


 家に帰ると早々に彼はコートを脱ぎ、ギシギシ音のする椅子へとどかり。私は提げて歩いた買い物かごの中身を広げた。さて、今日は何を作ろうかしら。


 悩みつつ戸棚を開けると、砂糖の瓶のそばに蟻がたかっていた。私は彼らを「蟻瓶」と呼んでいる瓶に詰める。週末のお楽しみ。私、彼らを半分潰して並べるのが大好きなの。


 さて、調理を始める。スープにペリメニ。肉をふんだんに使いたい。下準備は整えていたから、30分もかからない。おなかはペコペコ。早く作らなければ。


 こうして慌てているのを分かっているくせに、彼は私の邪魔をする。夕飯まで座っていれば良かったのに。後ろから抱かれては、ナイフがうまく使えない。


「ねえ、そんなにお暇なら手伝って。このお肉、うまく切れないのよ」


 彼にナイフを渡す。肉を触ってそのまま握ったものだから、ぬるっと滑り、渡し損ねて足元に落ちた。彼はナイフを拾い上げ、柄の部分までしっかり洗うと、微笑みながら続きを切った。


 私の失敗を彼は叱らない。私を対等な者として見てくれる。心から、愛してくれる。だからこそ意見だってしてくれるし、おかげで不安にならずに済む。きっと彼は、どんな私も受け入れてくれているのだろう。


 ああ、彼に逢えたのが今で良かった。いくつかの恋をし、失敗を重ね、身も心もボロボロになって。そんな全てを乗り越えた今だから、あなたを傷付けずに愛せる。


 かつての恋愛のように、不安に任せて責め立てることはない。拗ねて気持ちの反対にばかり行動することもないし、時には放っておくことだってできるようになった。


「大きさはこれくらいでいい?残りはミンサーにかけるかな?」


「ええ。とても助かったわ。ありがとう」


 感謝の言葉を忘れない。これも過去から学んだ。言わなくても伝わるかもしれないけれど、言った方が良い言葉はあると思う。感謝の言葉はその類。どんどん声に出した方が良い。


 初めは意識して言うようにしていたけれど、彼に対してはもう意識なんてしていない。自然と感謝の言葉が出るようになった。彼がそうさせるだけの力を持っていたのかもしれない。


 予定の30分を少しオーバーした頃、食卓にふわふわと湯気が立ち上った。良い匂い。野菜は少ないけれど、貴重なピクルスを使わなければならないほど寂しい食卓ではないから、そこは我慢。


 食べる前にお祈りを捧げる。神よ、今夜も食べ物をありがとうございます。天に召されたオボレンスキー一家も。あなたたちは私と彼のおなかを満たし、道具となり、肥料となってくださった。


 世界は、感謝すべきことに満ちている。この一食、あの道具一つ、あの畑の食物一つ。全て、私だけの力では手に入らなかっただろう。


 全ては、彼と交際するようになって知った。ありがとう。あなたのおかげで、私は受け入れられた気がした。世界はとても、美しくなった。


 思わず微笑む。テーブルの向かいで、彼が不思議そうに微笑み返す。ああ、幸せ。おいしいお肉をあなたと食べられて、幸せ。


 食べ終えてしばらくの後、窓際に置いたベッドに2人並ぶ。月と星がまばゆいほどに輝いていた。私たちはその明かりでアルバムを眺める。前に「感謝」したチチェーリン氏の写真。モノクロだけれど、とても色鮮やかに見えた。


 彼が私の耳を撫でる。これは合図。アルバムを見た後、私はいつもこの合図を待つ。ああ、ありがとう。チチェーリン氏のおかげで、私たちは今夜も愛を育める。

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感謝 スヴェータ @sveta_ss

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