エピローグ
それから一週間後、よく晴れた初夏の日。
柿坂は、昼休みに会社から抜け出して公園のベンチに座り、コンピュータの参考書を読んでいた。ページをめくる手を休め、空を見上げると、遠くにぽっかり浮かんだ夏の雲が、太陽の光を受けて純白に輝いていた。
なぜあの夜、マンションのロビーで、フロイド逃したのか…、それは柿坂自身にもよく分からない。不正を働いた盛高を罰したかったのか、それとも単に、盛高の泣く顔が見たかったのか、あるいは、可奈子のことが好きだったのか…。
あの後、柿坂は仕事の失敗を野際に報告した。野際は苦々しい顔をして「これで柿坂さんの居る場所もなくなりましたね」と言った。会社の上層部の信頼を失ったという意味では、この言葉は正しかった。「柿坂にはコンピュータ関係はやらせるな」という話が上の方で出ていた。
野際の部長昇進はとりやめになった。この仕事の失敗が影響したのは明らかだった。柿坂が足を引っ張ったことになる。柿坂自身も、降格か、最悪はクビを覚悟していた。しかし首は繋がった。盛高社長が自分に責任があることを認めたからだった。盛高にも大人の分別が少しは残っていたことになる。
青い空の遠くに、一羽の鳥が飛んでいた。
柿坂は逃げて行ったフロイドのことを思った。ハッキングをさんざん繰り返し、最後には学芸会のような手で足枷を盗んでいった手口を思い起こして苦笑いした。バーのカウンター席で顔をピンクに染めた可奈子を思い出した。二〇世紀の偉大な精神分析学者、フロイドの曽孫。本当かどうかは知らないが、柿坂は彼女を忘れないだろう。
気持ちのいい風が吹いて、膝の上に載せた本のページがめくれた。柿坂は続きを読み始めた。コンピュータの勉強も、やってみると悪くない。この調子だと社内の試験もうまくいきそうだ。試験でいい点が取れれば、周りの見る目も変わるにちがいない。
了
1998年のハイテク人情回路 ブリモヤシ @burimoyashi
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