第四幕
私はまた、いつもの公園にいた。
聴衆もなく、注視もなく、ただ一人きり。
日は晴れ渡り、風も穏やか。目の前を老人が犬を連れて歩き、その脇を子ども達が駆けてゆく。小さな噴水がしぶきを散らし、さらに遠くの道を馬車がゆっくり通る。
その全てに、声もなく。音もなく。
私は何も感じないよう努めながら、しおらしくベンチに座り込んで、膝の上に一冊の本を広げる。
『私は……欲する』
手指や身振りを組み合わせ、意味のある言葉を結ぼうとする。
手話の練習だ。
『私は……欲する』
膝に載せた教科書の通りに、淡々と文章を組み上げようと試みる。
手話は概念を表現するジェスチャーを組み合わせて作る。『欲する』の仕草は、同時に『したい』『なりたい』『好きです』などの言葉も意味する。
あとはこれに、自分が望む単語を加えればいい。
だけど、私の両の手は、間に入れるべき『手話』という単語を作れない。伸ばした人差し指が、すぐに歪みだしてしまう。指の震えを押さえつけなくてはならないのに、手首までじっとしてくれなくて……。
私は両の手のひらを広げると、引き閉じたまぶたをそれぞれにあてがった。目元の方は既に、あふれる涙で濡れきっていた。
水の中なら、涙なんてすぐに流れてしまうのに、どうして陸の上だと泡のような粒ができてしまうのか。
私はこらえきれず、声を上げて、泣きはじめた。そのはずなのに、聞き慣れた泣き声が耳に入ってこない。身体の中で響いている音のような振動を、耳以外の器官で感じるだけなのだ。
私の聴覚は、あの時から機能しなくなっていた。
『私は、歌、欲する』
口にしたはずのその声も、まったく違う響きにしか感じられない。
歌が好きなのに。歌いたいと強く願ったから、わざわざ陸に上がってきたのに。
(泡になったも同じだ)
声が潰れたわけじゃない。全ての感覚が途絶えたわけじゃない。でも、自分の声の高低も耳でわからないようでは、人に聴かせる歌など披露できない。夢はもう終わった。そんな自分に、価値も意味もありはしない。
一瞬だけ視界の隅に入った、大劇場の白い屋根を避けて、目を伏せる。大劇場へ続く坂の道までも、目に入らなくなる。
公園で歌うことは、もうないだろう。寝泊まりさせてくれている酒場も、人間について教えてくれる学園も、いずれ出て行かなくてはならないだろう。その先にあるものが何なのか……。私は願いも遂げられず、このまま一人きりで消えるしか、ないのか。それを手話でどう表すのかが怖くて、教科書を読み進められない。
自分の状態でさえ、満足に表すこともできないでいる。それなのに、どうして一族のことなど語れようか。
こうやってふさぎ込んでいると、体の内で色々なモノがうごめいている音だけが伝わってきて、それがますます私を不安にさせる。
それをずっと部屋の中で聞いていては、気持ちがよどんでしまう。だから、逃れようとして公園に光を浴びに来たのに。つめたい風の中に長く居ては、身体が冷えきってしまう。
(春先のわずかな陽光でもいい、温もりを受けていたい)
そう願って肌の感覚をとがらせた。その矢先だった。
身体の先に、誰かの影が差すのを、覚えた。
顔を上げてみると、私の正面に、見覚えのある人影が立っていた。あの日私が、公園から大劇場まであとを追っていった、白い帽子の女性だった。
紺のワンピースを丁寧に折りながら座り込んだ彼女は、巧みに手を動かして、私に向けて何かを示した。そして顔を軽く傾げるジェスチャー。
それが何であるか、少し考えてから、ようやく気が付いた。
……さっきまで、私が作ろうとしていた手話の単語だ。向かい合って示すから、そうだと気付くのが遅れた。
『あなたは手話を学びたい?』
彼女はそう告げたのだ。
私は慌てながら涙をぬぐい、小刻みに何度もうなずいて、完成した文章を相手に伝える。
『私、手話、欲する……私は手話をしたい』
そうやって、私が戸惑い、悩んで、不慣れな言葉を示している間も、彼女はずっと笑みながら待っていてくれた。そして、手話の先生でもある医師が、何度も見せたジェスチャーを示した。
『がんばって』
続いて、とても慣れた動きで上半身を動かし続ける。その文はまるで読解できなかったけれど、心から励まそうとする、流ちょうな手話であることは理解できた。
そうだったのだ。
彼女にはもともと、歌声は聞こえていなかったのだ。
私がどんな声を張り上げようとも、彼女は反応を示さなかった。そこに悪意も無関心もありはしなかったのだ。
もしもあの時、彼女を追い詰めた私が、自慢の歌で何かを伝えようとしたとしても、それが届くはずなどなかったのだ。
(あの仮面の男が、芝居がかった言葉で私に何かを訴えたのと、何も変わりはしない……)
私はあることに思い至って、服のポケットからメモ帳とペンを取り出した。筆談を交わそうとしているのを察して、彼女は私の隣に座り込む。
『大劇場で私を見つけたのは、あなた?』
手渡したその書き付けを読んだ彼女は、うなずいて、手帳とペンを受け取った。彼女がペンを滑らせて描く筆跡は、私のそれとは違って、とても流麗で、文字の一つ一つがしっかりと自立している。
『はい。あの日、あなたの姿が消えたので、心配していました』
手帳とともに言葉を受け取って、私はまた問いを書き付ける。
『どうして私を見つけられましたか?』
『仕事帰りに、壁の振動に気がついて、探しました』
あのころの私が、公園から大劇場を見上げ、坂を必死に登っていた時。彼女はすでに、大劇場で仕事をしている人だったのだ。その事実を知って、薄く目眩を覚えだす。
『あそこで仕事を?』
『事務と、絵画などの修復を』
大劇場のギャラリーに並んでいた、修復された絵画の数々。私が脇を通り過ぎたあれらはきっと、彼女の手による仕事だったのだろう。彼女は、そうだ。芸術を充分なほどに、知っていたのだ。
『私を』
また問おうとして、しばし手が止まる。しかし意を決し、手を動かして続きを記す。
『知っていました?』
『はい。いつもここで、見かけていました』
鼻の奥がうずいて、目頭に涙が集まってくる。耳の先がとても熱い。
彼女は私の存在にも、ちゃんと気が付いていたのだ。私の声だけが、ただ、届かなかっただけで……。そして、だからこそ『呪歌』の災いを受けることもなく、私を見つけ出してくれた。
全ては自分の、愚かな思い込みだったのだ。
湧き上がる様々な想いと己への苛立ち、感情の数々をこらえるのに必至で、押し黙ってしまう。そんな私に向けて、彼女は優しい視線を投げ続ける。
日がゆっくりと、傾いていく。空が、世界が、薄紅色に染まっていく。
そんな中でも、彼女はずっと、すぐ隣に付き添うように座っていてくれた。彼女がそこに存在する音。それを、私は全身で、はっきりと感じていた。
(人は、これほど大きな音を、身体の内に抱えていたんだ)
やがて私は我に返り、ある単語を探して、膝の教科書を急いでめくった。
そして彼女の前方に回り込み、正面に座って向き合って、今の気持ちを手話で伝えた。
『私、友達、欲する……私は友達になりたい』
恥ずかしくなるほどの、ぎこちない動き。それに彼女は、笑みながら頷いて、優しく手を差し伸べてきた。
私の両の手が、それを握る。
人魚は泡と消えない。途絶えたと見えた道も、大きく曲がりながら、いつか大劇場へと続いていく。それを、自分の足でしっかりと踏む。
穏やかな春先の風が、静かに二人を包み込む。その中で、私がずっと欲していた、温かい血が巡りながら奏でる歌を、火照った指先から聴いていた。
私、血の歌、欲する 和泉 コサインゼロ @izumicos0
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