第三幕

 私の意識は、小さな魚になっていた。

 泳ぎすぎた小魚は、海面から空へ飛び出してしまい、世界から一瞬消え失せる。しかし、重力が小魚をまた海面下へと引き戻す。ようやく水の中に戻れたことで、小魚はようやく息を得て、ゆるゆると眠りから覚めていく。

 耳の奥には、泡の音が響く。私は泡になったのか。そして、海に流れていったのか。

 そう思いながらそっとまぶたを開いた瞬間に、違う、と気が付いた。開かれた目は潤わず、ただ乾いていく。そして強い重力が仰向けの胸を押さえつけている。ここはまだ、陸の上だ。

 私は白いベッドに横たわっていた。純白の掛布の静かな重みが、両の足を押さえつけている。私は、人間のままだった。

 指から肌に覚えるシーツの鮮やかな触感が『夢はもう終わった』と訴えていた。しかし、網にでも絡め取られたかのように、全身がとても重く鈍い。そしてなにより、耳の中に強い違和感を覚える。何か綿のような物を詰めて、両の耳の穴が塞がれている。これでは音が聞こえない。

 淡い光の差し込む窓で、白いカーテンがそよ風に揺れて、鮮やかな緑がちらちらとのぞく。何も聞こえない風景。カーテンが気まぐれにのぞかせてくれるそれを、私はただじっと見つめていた。清らかな、だけど、もの悲しい世界。

 差してくる陽が水差しを照らし始めた所で、カーテンが強く揺れた。部屋の扉を静かに押し開け、白衣をまとった白いひげの医師が入ってきたのだ。

 彼は私の目を見て優しく微笑んで、小さく頷いた。私はそれに、頭を枕に沈めたまま、そっと目を伏せて応じた。

 医師はサイドテーブルのスケッチブックを手に取ると、そこに用意されていた言葉を私に向けた。

『目が覚めてよかった』

 静かに目を閉じて、それに応える。間を置いてまぶたを開くと、いつの間にか次のページが開かれていた。

『劇場の人が異変に気付いて、君を見つけ出した』

 その字を追う私の目が、あまりに不安に満ちていたのだろう。彼はもう一冊のスケッチブックを私に差し出した。

 寝そべったままそれを受け取り、添えられていたペンを握って、白い紙面に文字を書き込む。ペン先を刻むように力を込めたのに、ペンが滑る音がしない。身体の内に覚える感触までもが、いつもと違って感じられる。

 ようやく書き終えた、いびつに並んだ字を、そっと胸の上に載せる。

『私の他に、誰か傷を?』

 想定していた問いではなかったからだろう。彼は少し首をかしげてからうなずくと、ページをいくつかめくって、ずっと先に用意していた言葉を私に示した。

『部屋に血の跡があって、その主をみんなで捜している。大丈夫、じきにつかまる』

 あの怪人のことだろう。この人は、もうおびえなくていいと伝えて、私を安心させようとしているのだ。

『ちがいます』

 あわてて書いて返し、こちらの意味するところを伝える。

『私の歌で、誰かがひどい目にあったのでは』

 その懸念は、どうにか通じたらしい。何も心配は無い、と、彼ははっきりと書いて示した。

『気付いた人は、音は聞いていない』

 私と仮面の男の他に、誰も被害を受けた人はいないらしい。どうにかそれを知ったことで、気がかりのひとつは晴れた。

 少しだけ安心した様子を見て取ったのだろう。医師は、ずっと前のページに用意されていた言葉を、私に示した。

『落ち着いたら、ちゃんと検査をしよう』

 そして、もうひとつ前のページを開く。

『大切な話をしなくてはならないかもしれない』

 すっと、頭から血の気が引く。薄々と予感は覚えていた。しかしその文字を目にした瞬間に、私は自分の身に起きた事態を確信した。

 真っ先に確認しておくべき、だけど、知りたくなかった……自分の身体と、受けた災いのこと。

 うなずきの二文字を記そうとした手が、震えて、使いものにならなかった。

 窓のカーテンが音もなく揺れて、わずかにのぞき見えていた世界と光を、覆い隠した。

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