第二幕
やがて気がつくと、私の身体は真紅のソファーに横たえられていた。
わずかな薄明かりの中に、笑み顔がひとつ、浮かんでいる。
いや……それは、人間の笑みではない。
仮面の笑み顔。それを顔に付けた男が、私をじっと見下ろしていたのだ。
声を上げてしまいそうになる。しかし、冷たさに震える私の胸が、かろうじてひきつった震えを走らせただけだった。
「お目覚めかな、我が歌姫よ」
おぞましい声。仮面の裏から発せられたそれは、私が想像で作った醜い男の声色より、幾層も深い冥府の住人のものに思われた。
仮面の下には、黒い蝶ネクタイの上等なタキシード。胸元のシャツと、手袋が白く浮かび上がって見えている。目が慣れてくると、黒髪の男の奇妙なほどに細い身体の輪郭が、淡いランプの灯に浮かんできた。
(大劇場の怪人……!)
あの怪談の主が今、目の前に居る。そして私をじっと見つめている。
すくみながら上体を起こして、身をこわばらせる。途端に意識は明瞭になったが、まだ頭の奥に痺れが残る。口を開くも、声も出ない。
「突然の招きを、お赦し願いたい」
芝居がかった声と共に、両腕も使った大仰な一礼。その丁寧な仕草とは裏腹の、仮面でくぐもった、絡みつくような声が続く。
「だが、
知らない。私はこんな人の前で歌ったことなどない。当惑する胸を見透かしたように、男は壁際に立ち、柱の脇に向けて顔を傾けた。その柱の陰には縦に細い隙間が空いていて、かすかに月明かりが差してきていた。
「一度だけ、この大劇場の前で歌ってくれたね?」
一筋の光を浴びる仮面の下に、もしも表情があるのなら、その目を細めたことだろう。かすかな甘い思い出に浸るかのように。そして静かな吐息を仮面の縁からもらした後、男は私に向き直り、手を当てた胸もとを大きく反らした。
「その時私は、脆くもきらめく原石を掘り当てた……。貴女の内なる澄みわたる輝き! それが我が胸を貫いて離さぬ……!」
身振りを交えた演説に、私は唇を震わせる。かすかに吸うことができた部屋の空気は、ホコリとカビの香りを帯びていた。
「貴女が本物であるならば……まばゆき宝石に磨き上げねばならぬ」
誰もそんなことなど望んでいない。かすかに首を振っての抗議は、しかし声にもならない。私の全身は凍り付き、音もなく近づく仮面を払いのけることすらできない。冷たい仮面は、そのまま私の眼前に向けて迫ってくる。嫌悪しながらも、まばたきさえもかなわない。そんな私に、男がささやいた。
「貴女はこの大劇場で舞台に上がる」
そっと、しかし大ぶりな仕草で上体を起こし、男は胸を反らして声を張り上げてみせる。
「何百の灯火が貴女を照らし、幾千の瞳が貴女を見つめ、万雷の喝采が浴びせらるる!」
そして、虚ろな空洞の目でまた私を見据えた。
「……そうなる運命と定められていたのだ」
読み取れない。その目の奥にある感情、いや言葉ですら。
この男は私に何を願い、どこまでを私に望んでいるのか。
胸元に組んだ腕を、ほどく事ができない。
男はゆっくりと足を動かし、床をきしませ、私の前を横切る。
「私はこの大劇場を建設し、
そして、先ほどとは逆の壁へと歩んでゆく。立ち上がることもままならない私は、首をひねって、じっと見送るばかり。
「夜の
そちらの壁には、埋め込まれたオペラグラスが据え付けられていた。男は豪奢な椅子に腰掛け、それをのぞき込むように、仮面の空洞をあてがう。そこは、舞台のすべてを見渡せる特等席になっているのだろう。
「だがしかし!」
いっそう芝居がかった口調で、膝を打ち、否やの声を張り上げる。
「百の、千の舞台が幕を閉じようと! 万の、億の観衆が手を打ち鳴らそうと! 我が胸を昂ぶらせた歌い手は、いまだ一人とてない!」
叫びとともに、あまりに強く石床を蹴ったので、壁に立てかけた書棚が大きく揺らめいた。音を立てて震え、床に散らされた紙の束の数々は、戯曲の台本と楽譜たちだろう。
そのあまりの怒気に、すくめた顔と、膝が震える。
果たして男はそれに気付いただろうか。一転して、音も立てぬ優雅な動きへと変わって、こちらへ向けて振り返る。そして、すぅと手を差し伸べながら、静かに歩み寄る。
不気味なまでの男の仕草に、思わず震えまでもが止まる。それとは逆に、今まで動かせないでいた身体が、自然と後ずさりをはじめた。白い手袋をはめた、生気を感じさせぬ細い指先が、遠慮も容赦も知らずに迫りくる。それから逃れようと必死に身をよじるが、ソファーのアームレストが退路を阻んだ。硬い木材が背中に食い込むのも構わず、なおものけぞって抵抗する……だが、私は逃れることができない。
男の冷たい指先が、ついに私の頬に触れ、その輪郭をなぞる。私の身体はふたたびの金縛りにあっていた。
「……ただひとつ、貴女という原石だけを除いては」
愛おしげに首筋をなでまわし、男がゆるりとその手を離す。
目を合わせたまま、細かく震えることしかできないでいた。この男の持つ寂しさも、嘆きも、渇望も……愛情ですらも、興味はなかった。ただ、ここから生きて帰りたい、それだけを強く念じ続けた。
男はワインセラーの前に立つと、中から瓶をひとつ手に取り、声をかけてくる。
「飲み物はなにをお望みかな、歌姫? ……気を遣う必要など、どこにもない……ここには私と貴女しかいないのだ。いかなる法も、そしりも、目も届きはしない。葡萄酒? ウィスキー? とびきり上等なスパークリング・ワインがいいかな? 貴女が望むなら、何だって届けさせよう」
首を振る。すくませて、また、強く振る。目を引き閉じて、否を、拒絶を、突きつける。感じる乾きなどありはしない。望むものなど何もない。ただ私をここから解放して、光のもとに戻して、と。だが、男はそれらを、表情もなしにあざ笑うかのように、告げる。
「大丈夫、時間ならある。無限とも言えるほどに、だ」
夜はいっこうに明けそうもない。男は透明なグラスをふたつ、卓に並べると、手に取った瓶から栓を抜いた。はじけ飛ぶ響きが高く鳴り渡り、密室にアルコールの香りが立ちこめはじめた。ガラスの瓶が空気を飲みながら液体を流し出す音、そして、はじける泡の小さなつぶやきが、耳に聞こえる。
(遂げられぬなら……)
不意に胸に響いたのは、私に二本足の魔法をかけてくれた老婆の言葉だった。
(泡と消えるのみ)
低く、重く、練りあげるようなその声色が、何度も何度もこだまする。
小さなグラスの海の中では、いくつもの泡の命が浮かんで、消えている。
「さあ、歌姫よ」
グラスの片方を指に挟み、男は正面の椅子に悠然と腰掛けた。
「どうかその声を聴かせておくれ。そして、共に杯を傾けよう」
全身に冷たい汗がにじむ。両の足にまでそれを感じるのは、生まれてはじめての経験だった。そして今まで、どんなに広い場所であろうとも、いかに多くの注視を得ようとも、音階を誤ろうとも、歌詞を
歌を捧げねば、時が進むことはないだろう。そこに思いを込めなければ、男の失望を買うだろう。ひとつでも音を外したなら、それは怒りに変わるだろう。そして、この部屋の存在を知った以上、私はもう、自由に泳ぐことなど、叶わないのだろう。
それでも。私はまだ、あきらめきることはできないでいる。ここから無事に解放され、自分の足で大劇場の舞台へたどり着く日を。
上体を何とか引き起こし、ソファーにすがるようにして、気道を保つ。そして、おずおずと私が漏らしたのは、短調ヘ音の、整いきらぬ声。
虜囚が故郷の我が家を切実に慕う、小さな民謡だ。全身に過ぎた力をみなぎらせながら、私は今の自分の思いのたけを込めて歌う。
(ここから出して、家に帰らせてください)
私は歌を通じて、切ない歌詞とかすれそうな声色で、確かにそう告げた。歌は捧げた。思いも込めた。音も違えてはいないはずだった。しかし……怪人が、私のその意を汲む事はなかった。
「実に良い……はかなげで、感情の込められた、心を惹き付ける、透き通ったボイス。だが、力が入りすぎている、もっとリラックスして。姿勢を正しく保ってごらん。今度は、高音の歌を」
告げながら、グラスをそっと傾ける。仮面を付けたまま器用に液体を口にするその姿に、私はただ、絶望を覚えるしかなかった。
(この人に……私の言葉は、届かない)
怪人の口の中で、いくつもの泡がはじけて、消えているのだろう。その音が、叫びが、耳に聞こえる気がした。
私も、消えるのか。ここで、泡となって消えるのか。
胸に湧きはじめた暗闇を、私は強く否定した。私は無には還りたくない。舞台で浴びる光を、まだあきらめたくない。
(ならば、あの歌を)
人魚は遠い昔から、母が子へ、子が孫へ、いくつもの『呪歌』を伝えてきた。様々な魔法の力を帯びるそれらの譜面には、頭に必ず『
強い決意と覚悟なしに、これらに触れることはならぬ。その教えもまた、ともに伝え聞かされるのだ。
そして……それら『呪歌』の中でも、身も凍るほどの畏怖と、激しい嫌悪、そして話題にするだけでとがめられるほどの厳しい戒めとともに、ひとつの歌が伝えられてきた。
首筋に、氷を押し当てられたような冷気を覚える。それが用いられるべき、あってはならぬ非常の時は……今をおいて他に、ない。
私は持てるすべての意を固め、起こりうるあらゆる災いをこの身に受けると心に決めた。
ゆるやかにソファーから身を起こし、距離を置いたまま、男に正面から向き合って、立つ。指示に素直に従うかのように、あくまでも平静を装ってはいるが、冷たく見えるその胸の内は煮えている……こんな男の言いなりになるなど、プライドが許さない。まだ扱い慣れない、すくみそうになる自分の足を肩幅に広げて、石の床をしかと踏む。
腹腔の奥に静かに息を吸い入れ、両の手を胸元で組む。
沈黙。
その中から空気の流れ、温度、そして湿り具合を読み取る。半音の変化記号が複雑にひしめき、絡み合う、漆黒の石板の譜面を必死に思い浮かべ、頭の中に据える。
仮面の男は、無表情のままでありながら、満足そうに眺めてくる。私はその顔めがけて、大きく口を開いた。
開いた喉に、思わずビブラートがかかりそうになる。それを一瞬のうちに整えて、身体の奥から歌を紡ぎはじめた。
「母様、父様、おゆるし下さい」
その詞から始まる、教わりながらも、決して口にしてはならぬ『最後の歌』。
短調で始まる最初の小節は、優しく高らかなソプラノ、テンポ五十。だが、そこから一拍置いて始まるメロディーは、海峡を抜ける潮流のごとくに転ずる。節を追うごとに、音階は高く上昇を続ける。テンポは狂いだしたように加速! 声量は止まる事を知らずに
異変に気づき始めた男が、手の内のグラスを揺らしながら立ち上がる。しかし、すでに鋭い風を伴いだしていた私の声が、その圧で、男の身体を椅子に押しつける。
感情の高ぶりは抑える事ができない。楽調はなおも
男が椅子の上でうめき、もがきながら、何か罵りの言葉を口走っている。だが、あらん限りの
両足で振動に抗うが、辺りに構っている余裕などない。この歌に
上昇を続ける音階が、とうとう人の可聴域を超えようとする。胸の内で全速力で揺れていたメトロノームは、とうにはじけ飛んでしまった。ふくらみ続ける声量が、耳の奥をじかに揺さぶる。それとともに、私の頭がきしみだし、強く悲鳴を上げだした。鼓膜を刺し貫き、脳をひび割れさせる痛みが走る。
これはもはや、ただの歌でも、超音波でも、空気の振動ですらもない。耳で聞く者に、あまねく災いをもたらす『呪い』を叩き付けているのだ。
その密度と、かさを、なおも増しながら、密室の隅にまで流し入れ、絶え間なく押し込んでいく。その奔流の中、床を這う男の白い手が、震えながら宙を泳ぎ、どうにかこの喉を締め上げようと、迫り来る。しかし、それが私に届くことはない……男はやがて床の上に伏し、耳から血を流して転げ回りだす。
螺旋階段を巡るがごとき旋律に乗って、私は昇り続ける。そしてついに塔の円錐状の屋根に上がり、その先端へ向かいながら限界まで加速する円舞を披露する。私は両のまぶたを引き閉じた。魂の底から絞り出す声で、譜面の最後に記された、いくつもの繋がれた音符を途切れなく奏でる。ついに頂点に達した音とともに、私の総身が天に向けて恍惚と指先を伸ばす立像と化して、動きを止めたとき。
私はすべてを歌いきり、弦が切れたように、その場に沈み込んだ。
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