私、血の歌、欲する

和泉 コサインゼロ

第一幕

 海から吹く潮風を背に受ける。私は扱い慣れない自分の足を肩幅に広げ、公園の乾いた地面を踏みしめる。顔を上げた先には、大劇場の白い屋根がのぞき見えている。それらを意識しながら、大きく口を開いて息を吸い、空気の流れ、温度、そして湿り具合を読み取り、喉を整える。

 日は晴れ渡り、風も穏やか。目の前を老人が犬を連れて歩き、その脇を子ども達が駆けてゆく。小さな噴水がしぶきを散らし、さらに遠くの道を馬車がゆっくり通る。

 春先の世界はあらゆる音に満ちている。私の青く長い髪も、かすかに揺れて音を立てる。胸の中の風が、緊張からひととき止まってしまう。しかしすぐに、その全てに負けないよう、そして調和させるように、世界の隅に、大劇場にまでも行き渡れと、歌声を発する。

 まず選んだのは、耳にしやすく長い音。そよ風に乗せたその一声だけで、周囲の人々が振り向きはじめる。

 続けて、腕をゆるやかに差し伸べながら、流れるように、高く、低く、豊かな音階で、韻を踏んだ詞を紡いでいく。遠い昔の、人魚をめぐる恋の歌。織り上げられた旋律は、美しい色彩を聴く者の胸に描かせることだろう。

 振り向いた人々が、今度は足を止め、聴き入りだす。そして、私の周りに集まって、徐々に人だかりを生むようになる。

 人々のきらきらとした目が、こちらへと向けられている。慣れてきたとはいえ、まだ十三を迎えたばかりの少女の私には、この程度の舞台でも顔が火照り始めてしまう。

 そっと瞳を閉じ、両の手を組み合わせ、深く息継ぎブレス。次はヒロインが切ない恋心を打ち明ける小歌曲だ。熱い胸が鼓動しているが、その音を無視して、声を張り上げる。さらに目を引き閉じ、思いを込めて、とびきりのソプラノボイス。居合わせた皆が、思わず息を呑む。

 小歌曲を歌い上げたところで緩やかに目を開くと、聴衆の数はさらに増えていた。公園の小さな広場が、老若男女の輝く顔で埋め尽くされている。

 しかし、私の視線はそのさらに向こう……噴水のもっと先、並木を伴って横たわる道の方へ向けられていた。軽く泳いだ目は、すぐに目当ての人を見つけた。短いつばの白い帽子をかぶった、見るからに大人しそうな女性。成人して間もないぐらいだろう、シックな紺色の裾長のワンピースを身にまとい、しとやかに歩く。

(来た!)

 彼女はいつもこの時間に公園を横切り、私がどんな歌を歌っていようと、見向きもしないのだ。

(今日こそは……)

 後ろ頭が熱くなるのを覚えながら、私はここで、喉にうんと力を込め、おどろおどろしい男の声を絞り出して歌ってみせる。

 声こそあげぬものの、突然の変調に聴衆の目がどよめく。目の前に居る華奢で小さく、そして美しい少女である私に、こんな声が出せるものなのか、と。思わずこみ上げる悪戯な愉悦を押し殺し、さらに声を張り上げる。

 歌の中で男は、愛しい人魚を我がものにしたいと、欲望をたぎらせながら叫ぶ。声は醜くとも、この歌は人の胸の内を揺り動かす。それは、誰もが心の底で同じ欲望を抱くことがあるからだ。人々も一時はうろたえていたが、決してその場を離れることなく、私の歌に耳を傾け続ける。

 その声は、もちろんあの人にも届いていたはずだ。しかし……彼女は歩調を緩めることも、首を傾げることもなく、そのまま通り過ぎていこうとする。そのゆっくりとした上品な足どりを、声を張り上げながら目の端で追い続ける。

(……これでもダメなのか)

 深い落胆と強い焦りは、かすかに覚える汗にしか見せない。私が目指す一流の歌い手の姿を、強く意識する。

 男は人魚に近づこうとして、嵐の海へ漕ぎ出してゆく。その小船を、高く激しい波が絶え間なく襲い、ついに荒れ狂う海が飲み込んでしまう。そこへ人魚の歌声が聞こえてきて……というところで、私は譜の順序を差し替え、いきなり最終楽章を歌い始める。男がどうなったのかは、皆の想像に任せるというアレンジだ。

 最終楽章は、私の一番好きな、人魚による祝福の歌。今も水底に静かに沈んでいる、この譜面の刻まれた美しい石板を胸に思い浮かべて、それを私への追い風とする。

 天からあふれる光とともに、妙なる歌声が、鎮まりゆく海に降り注ぐ。その様を高く歌い上げ、立像のようにポーズ。火照った身体でしばし恍惚を味わった後、聴衆に向けて深く一礼。

 四方から拍手が湧き起こる。それに続いて、喝采の声。しかし私はそれらを後にして、挨拶もせぬまま、足早に駆けだした。

 そして無言で人垣をかき分け、最終楽章の間にすっかり遠くなってしまった、白い帽子の女性のあとを追いはじめた。


 私は、人と言葉を交わすことができない。

 生まれついての人魚だったため、二本の足を得て陸にあがるとき、歌の他に言葉を放つことを封じられたのだ。

 歌うことでしか意志を伝えられない私でも、この街の人々は温かく迎えてくれた。そして幸いにして、酒場に寝起きする場所を得ることができ、学園で読み書きも教えてもらっている。

 それらを可能にしたのは、私の自慢の歌声に加えて、この島独特の事情もある。この島には、私のように、特殊な背景を抱えて何かを学びに来た人たちが集まっているのだ。

 公園を通り抜け、大きく曲がりながら丘を登る坂を駆ける。海の色にも溶け込める薄水色の衣は、短めのスカートのものを選んでいるのに、それが足にまとわりついて、うっとうしい。足を布で覆う文化には、まだ慣れることができない。

(今、あの人を見失うわけにはいかないのに)

 私には、なりたいものがある。いつか、この道の続く先にある大劇場で、歌手として舞台に立ちたいのだ。そして多くの人間たちに私の歌を聴いてもらい、それを通じて我ら人魚の存在と歴史、置かれている状況を知ってもらいたいのだ。

 そのために、魔法を扱える老婆に頼んで、この二本の足を手に入れ、陸へ上がってきたのだ。

 それに、いつかは友を得、恋人を見つけたい気持ちもある。それらを手に入れるために、私は、魂を揺さぶる歌を欲している。人間たちの文化を学び、その心を知り、彼らを動かせる音を学ばなければならない。

 これが困難な道であることなど、十分承知している。強い決意なしに願っているわけではない。だからこそ……私は今、この坂を登り、走らねばならないのだ。

 私の歌に、何が欠けているのか。どうすれば、あの女性を振り向かせることができるのか。私の歌を目の前で聞かせて、それを問いただしたいのだ。

(なによ)

 空気の中で激しい呼吸を続けることには、まだ慣れきっていない。走るほどに徐々に息があがり、肺が熱く乾く感触を覚え、胸の焦燥が苛立ちへ変わっていく。

(私の声に目もくれないなんて)

 プライドが高いのは人魚の短所であると、気付いてはいる。しかし、自分を無視し続ける彼女への怒りは、抑えることはできない。

(きっとあの人は、芸術なんかに欠片の興味も抱いていないんだ)

 たしかに、歌なんてものは、なくても生きていけるかもしれない。でも、その素晴らしさを知らぬままでいるのは、死んでいるも同然だ。そんな、死んでいるような人間ですら飛び起きるような歌を、私は歌い聴かせてやりたい。

(あの人を振り向かせることも出来ないようでは、舞台に立つなんて夢は、叶うはずもない……)

 坂を登りきると、街の大きな広場に出る。あがりきった息を整えながら、白い帽子の女性の影を急いで探す……。いた。目を上げた正面、この広場に向けてそびえ立つ、大劇場へ入っていくところだ。

(あんな人が、なんでこんな場所に?)

 疑問に思いながらも、急いで足を向かわせる。一度だけ挑んだ事のあるこの広場は、公園よりも人通りが多く、私が歌うにはちょっとばかり広すぎる。今はそれを走って横切り、大劇場へと足を踏み入れる。

 夜の演目にはまだ早く、大劇場に人気は見当たらない。女性は大きく開かれたエントランスを通り抜けて、脇に伸びる大理石の回廊に進んでいった。駆けてきた足がわずかにゆるむ。しかし、そっと足音を忍ばせながら、磨かれた回廊を歩き出す。

 その空間はちょっとしたギャラリーになっていて、この島の領主様が保護し、修復させたという、彫像や絵画の数々が立ち並んでいる。今はまだ灯もともされておらず、辺りは冷たく静まりかえっている。繊細な色彩の絵画に気を取られていると、私の足が、甲高い靴音を立てた。

(気付かれるかな……)

 歩調をさらに緩め、音を忍ばせて、距離を取りつつ彼女の背中について行く。脇に並ぶ扉の向こうには、大きな舞台ホールが続いている。誰かが稽古や準備をしているかもしれない。それを邪魔したり、汚したりする行為はひかえたい。私はまだ少しだけ荒かった呼吸を、そっと鎮めさせていった。

 先を歩く女性の靴音だけを残して、世界から音が消えてしまう。その隙を見計らったのだろうか、私の心に心細さが忍び入ってくる。

『……この島の大劇場には、おそろしい怪人が住んでいるのさ』

 そんな噂を、酒場で歌を披露した時、耳にしたことがある。

『どこにでもある、ありふれた怪談だ』

 みんなはそう言って、笑い飛ばしていた。しかし、こうして冷たい薄闇の廊下をそっと歩いていると、そんな話も真実味を帯びてくる。右の手を胸に当て、あの時の皆の笑い声を内に響かせて、不安をなんとか押し殺す。

 こんな私の心中など知りもしないのだろう。帽子の女性は、大劇場の奥部までそのまま進み入るつもりのようだ。

(いったい、何処まで行くのだろう?)

 そんな考えに気を取られていた、ほんのわずかな瞬間だった。

 後ろから伸ばされた何者かの腕が、私の身体を絡め取った。そして、口元に冷たく湿った布が押し当てられる。

(眠りの魔法薬だ!)

 言葉は封じられていても、悲鳴ぐらいなら出すことができる。だけど、叫びを声にするよりも早く、口に魔法薬の苦みが広がり、全身から力が抜けていく。女性の白い帽子が、視界の奥で遠ざかっていく。手を伸ばす向こうの、その小さな足音が、脳に鈍く響いた。

 感覚の喪失。深い闇へと、潜っていく……。

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