第4話(最終話)

 千晴は声を荒げながら、紘に背を向ける。

「僕が悪いんだ! 冴島くんはαだから、僕の、Ωの発情期に当てられただけなんだ!」

 言い終えると同時に、千晴は左腕をちから一杯いっぱい掴まれた。

 なぜか千晴は、彼に抱きしめられている。

 千晴は戸惑いで、声が思うように出ない。


「俺がαなら……、番は渥美しかいない」


 彼の胸からも伝ってくる声に、千晴は息が止まりそうになる。

 紘の熱い腕の中で、千晴の両目からは堰を切ったように涙が流れ始めた。

 彼は、低く優しい声で囁く。


「本当にそんな世界があるなら、今すぐ渥美の首を噛むのになぁ」


 千晴は一瞬、紘は何を言っているのだろうと混乱こんらんした。

 だけど、自分の目線の先にある目覚まし時計が「二時」を指していることに気づく。


 その衝撃しょうげきに、千晴の涙は止まっていた。

(『二時』。…………。たしか『三時』だったよね? ……なんで、『二時』?)

 千晴は事態を飲み込めないまま、まばたきだけが繰り返される。

(ん? ……ん? あれ? このBL本って、『オメガバース』っ!)


 千晴はようやく、自分と紘が「キスをしていないこと」を理解する。


 すると、紘のたくましい胸板むないたを伝って穏やかな笑い声が零れてきた。

「好きだよ、渥美」


 幻聴げんちょうかと思った。

 けれど、紘は甘く優しく、何度も繰り返す。

 千晴はたまらず、彼に昨日公園で見た光景こうけいたずねる。

「お、長部さんは……?」

「やっぱり。あれは渥美だったんだな」

「ごめん! ぬすみ聞きするつもりはなかったんだけどっ」

 千晴は思わず紘の胸に顔をうずめると、彼の制服のシャツを両手で掴んだ。

 紘は微笑むような声で言葉を続ける。

「断ったよ。……俺は、渥美が好きだから」


 再び、千晴の両目から涙が零れ始める。

 紘の手が、千晴の頬を静かにつつんだ。

 彼は優しく指で千晴の涙を拭う。

 それから、彼は柔らかく囁いた。

「キス、してもいい?」


 きゅう展開てんかいが続くから、千晴は頭の中の整理が追いつかない。

 紘は返事のないことが千晴の『イエス』だとしたのか、彼は静かに唇に唇を合わせた。


 熱くて、優しい、かさねるだけの口づけ。


 一瞬のこの感触を、千晴は知っている。

 夢で見たのと、同じ「感触」だった。


 千晴は自分の唇を指で触れる。

いやだったか?」

 目の前で、こまったように眉間に皺を寄せた紘が、なんだか甘える仔犬こいぬに見える。

 千晴は小さく心の声が零れた。

「僕、これ知ってる。この感触……」

「あ、ええっと、その。実は、渥美が寝てる時、キスしちゃった」

 仔犬は尻尾しっぽを下げるように顔を伏せた。


 夢の中の、ファーストキス。

 それは、本物のキス。


 千晴にようやく余韻がおとずれそうになった時、再び穏やかな声で紘が囁いた。

「……ところで、『夢の中の俺たち』は何をしてたんだ?」

 彼の問いに、千晴は恥ずかしさのあまり、紘の両腕から抜け出た。

 千晴はベッドに上がって、毛布にもぐる。


 言える訳ない……。

 夢の中とはいえ、紘にキスされて、運命の番にしそうになっただなんて、言えるはずがない……。


 千晴が一人もだえていると、毛布越しに紘に背中を撫でられた。

「風邪、大丈夫か?」

 千晴はかぶった毛布から、両目を覗かせる。

 紘は今度は千晴の頭を撫でながら、優しく微笑んでいる。

「どうした?」

 失恋の、あの痛みが、うそのように千晴から消えていく。

「大丈夫だよ。……来てくれて、ありがと」


 互いに見つめ合い、微笑み合う。

 時間が止まっているかのように、穏やかに流れている。

 千晴はようやく、好きな人が自分の部屋にいるよろこびと事実じじつを噛みしめる。


 紘が腰を上げた。

「俺ね、今、渥美の母さんに留守番頼まれてるんだ。俺は下のリビングに戻ってるから、ゆっくり休んで」

 そう言い終えて、紘ははにかんだ。

 彼がたまらなく可愛くて、恋しくて、千晴はいとしさでも心が締めつけられるということを初めて知る。


 背を向けて扉へ向かおうとする紘を、千晴は追いかけた。

 彼の制服のシャツの裾を、千晴はつまむ。

「あ、あの……」

 紘ともっと一緒にいたい、隣に、傍にいてほしい、と千晴は声にはできなかった。

 千晴が紘の裾を摘んだままでいると、彼が背中越しに言った。

「ごめん。俺、これでもキスしたいの、我慢がまんしてるんだ」

 それを聞いて、千晴の口が自然に動く。

「僕も……」

 千晴は紘のシャツを摘んでいる指に、力が入る。


 覚悟かくごのそれとは違う、単なる願望がんぼうだった。


 すると、紘が大きく溜め息を吐いた。

 反射はんしゃてきに、千晴はシャツを離す。

 体を気遣きづかってくれている紘にはんして、自分の返事は空気を読んでいないもの。

 彼が呆れて当然。


 けれど次の瞬間、千晴は彼の腕の中へ引き込まれる。

 紘の胸に、千晴は軽々かるがるおさまる。

 彼は大きい人だと、千晴はあらためて感じた。

「夢の中の紘」にはなかった、彼の爽やかな香りが鼻先はなさきかすめる。

 千晴は彼へと、自然と頬を埋めた。


「こっちは我慢してるってのに。あおるなよ」

 紘に大きく息を吐かれて、千晴は咄嗟とっさに声が出た。

「ごめんっ」

 再び紘は大息おおいきを吐くと、今度は微笑む。

 千晴の耳元に、紘が囁いた。

「好きだよ、大好きだ」

 同時に、千晴の唇に唇が静かに重なる。


 つい先ほどファーストキスをむかえたばかりの千晴は、不慣ふなれで息苦しくなって、思わず紘から口を離す。

 彼は千晴と鼻先同士を合わせた。

「大丈夫。鼻で息して」

 再び千晴の唇に、紘の唇が降りてくる。


 唇が離れて、千晴が紘へと視線を移すと、彼の潤んだ黒い瞳が、自分を見つめていた。


 夢の中にいた彼とは違う。

『本当のキス』をした『本物の紘』が、男の、同性の自分を好きになってくれたという現実。


 千晴はどうしようもないくらいに、幸せが込み上げ続ける。

(本当に、両想いなんだ……)

 一度は失った初恋が舞い戻ってきた事実に、胸へと広がった熱さが涙となって、千晴の頬を伝う。

 それを、紘が拭った。


「好きだよ、『千晴』」


 突然名前で呼ばれて、千晴は心臓が口から外へと飛び出しそうだった。

 紛れもなく、彼の黒い瞳には自分が映っている。

 本当に、夢じゃない。

 千晴の唇に残る全ての感触が、それを証明しょうめいしている。


 紘の綺麗な顔は、あからんでいた。

 男らしくも、あどけなさがただよう。


 陶酔とうすい寸前すんぜんの千晴は、辛うじて理性りせいたもち、紘へと返事をした。

「僕も、好き。大好き、……『紘』」

 言い終えた千晴の胸に、紘が倒れ込む。

 爽やかさに微かにあせが混じる彼のにおいは、不思議と心が落ち着く。

 紘は上目で照れたように、千晴へと微笑み返した。

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眠れる部屋のΩ(オメガ)くん 水無 月 @mizunashitsuki

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