第3話

 午後一時を少し過ぎた頃、冴島紘は渥美家のインターホンを押す。

『はい。どちらさまですか?』

「あの、俺、渥美くんの友だちで、『冴島』と言います」

『あらあら、千晴の』

「突然すみません。お見舞いに来ました」

『…………。ちょっと待ってね』

 会話が終わるとしばらくして、玄関の扉が開いた。

 紘は千晴の母に促されるがまま、家の中へと入る。


すわって座って。千晴ね、まだ寝てるのよ。でも、よかったわ。さあさあ、座って」

 千晴の母はそう言いながら、お茶の入ったグラスをリビングのテーブルの上に置いた。

 紘は傍のソファーへと腰をろす。

「実は、急なんだけど、今から出かけなくちゃいけないの。二階で寝てる千晴を一人にしておくのも、心配だったのよぉ」

 千晴の面影おもかげのある彼の母は、なぜだか心底しんそこ胸を撫で下ろしたように笑顔を向けている。

「申し訳ないんだけど、留守るすばん、頼んでもいいかしら?」

「ええっと、あの……」

 戸惑いを隠せない紘をよそに、千晴の母は話を続けた。

「時間があればでいいの。誰かが帰るまで、ウチにいてくれないかしら。たまにあの子の様子だけ見てくれればいいから」

 そう言われて、紘にことわる理由はなかった。

「俺で、よければ」

 紘のその一言で、千晴の母は微笑む。


 それから千晴の母は「何かあったら、短縮たんしゅくに電話して」「お菓子かしやジュースも自由に食べて」「くつろいでていいから」「夕方には、誰かが帰るから」「ごめんね、ありがとう、行ってきます」と、慌ただしく出かけた。


 音一つ無くなったリビングに一人残された紘は、千晴の母に教えられた『二階の右側』の部屋へと向かうことにする。


 * * *


 ノックをしても返答のない扉を、紘は静かに開け入る。

 フローリングの、ろくじょうほどの空間くうかん

 左側には淡い青色のカーテンの閉まった窓と、その傍に同系どうけいしょくのカバーの掛かる木製のベッド。

 その上の毛布が、上下じょうげに動いている。

 紘はぐにベッドへと近づいた。


 茶色がかった髪が、わずかに見える。

 その延長線えんちょうせんじょうには、音を立てることもなく毛布が上下の動きを繰り返す。

 不意に毛布が逸れると、彼の顔が見えた。


 伏せた睫毛は長く、きめこまやかな白い肌に桃色ももいろの頬。

 赤く色づいた、つやのある柔らかそうな唇。


 自分と同じ『男子』だと言うのに、目の前にいる千晴は少女のような顔立ち。


 そう、紘は千晴を愛している。

 実は昨日公園にいた時、千晴を見かけた気がした。

 たんなる間違まちがいだろう。

 けれどそれほどまでに、紘の頭の中は千晴のことでくされている。


 千晴を好きになったのは、必然ひつぜんだった。

 高校に入学早々そうそう、不意に見た隣の席。

 思わず、二度にどした。

 あれを「一目ひとめれ」というのだろう。


「千晴」という存在そんざいは、容易よういに『性別のかべ』を飛び越えた。

 彼といくつか言葉をわすうちに、見た目だけではなく中身までもが、紘の心を掴んだまま離さない。


 しかしながら、好きな子を前にして、自分は無力むりょくだった。


『隣の席の人』以上の接点せってんを持ちたい、彼の視界に入りたい、けれどおのれの『下心したごころ』がけそうで、彼には「気持ち悪い」と思われたくないとかなんとか考えているうちに、月日つきひは流れていた。


 千晴から見れば、いつの間にか「冴島紘」は、『大勢の中の一人』となっていた。


 くやしかった。

 だけど、きらわれるよりはよかった。


 時々そんな現実げんじつくるしくなって、友人たちと過ごしていても、意識いしき逃避とうひさせていた。


「悲しい」とか「つらい」とかいうよりも、「寂しい気持ち」だった。


 それだけ、『恋』とは自分を臆病おくびょうにする。


 だから昨日公園で、同級生の長部真綾に「好き」と言われた時、純粋じゅんすいに彼女のことを尊敬そんけいした。


 彼女は、学校内で「一番美しい」とされている人。

 艶のある髪、揺れる睫毛に赤くなった頬と濡れた唇。細い体と白い肌。

 どれもが人を惹きつける魅力みりょくてき要素ようそだとは思う。

 げんに、彼女は綺麗。

 けれど紘には、目の前に見えるそのどれもが『千晴』に変換へんかんされる。


「恋は自分を臆病にする」とは言ったけれど、『盲目もうもく』にもなるものだと、紘自身、彼女にあの公園で気づかされた。


 だから、彼女が差し出した赤い傘の中で、紘は「好きな人がいるから」と彼女の気持ちを断った。


 紘は、ベッド脇にひざを突く。

 眠っている千晴の前髪を、紘は中指でかすかにき分けた。

 睫毛を伏せた千晴が、静かに寝息ねいきを立てている。

 紘はげた人差ひとさし指で千晴の頬を撫でた。


 した。

 気づいた時には、唇を合わせていた。


 紘は我に返る。

 己の気持ちをしずめながら、「これが真実しんじつの愛のキスなら、彼は目覚めるのに」とがらにもないことを考えた。

 次には、紘はそんな自分にあきれたように、微笑んでいた。


 * * *


 目の前に、見慣れた天井てんじょうがある。

 あれから眠っていたのだと、千晴は寝返ねがえりを打った。

 その視界の先に、千晴は背を向けて座っている人物をとらえる。


 千晴の脳内のうないでは、紘とのキスの記憶きおくめぐる。


 慌てるようにして、千晴は自分の首元へと両手を当てると安堵した。

(よかった……、噛まれてない……。本当によかった……)

 万が一にでも番になっていたら、紘に一生消えない傷を付けることになっていた。

 ……実際じっさいあとが付くのは千晴の方だけど。


 千晴は、恐る恐る体を起こした。

 見える後ろ姿は間違いなく、先ほどキスをした相手。

 様子を窺うように、千晴は彼を凝視ぎょうしする。


 すると、千晴の視線に気づいたのか、彼が振り向いた。

 彼の手元には、千晴が姉から借りている『BL漫画本』があった。

 千晴はベッドから飛び起きると、紘の手にある漫画を取り上げる。


 キスをしたばかりでずかしいけれど、それとこれとは別。

 千晴は漫画を隠すように抱えると、紘へと背を向けた。


 千晴の耳元に、柔らかな声が降ってくる。

「『男』が、いいのか?」

 その言葉に、千晴は途端に熱が引いていくようだった。

 ふるえる奥歯おくばに耐えながら、千晴はこたえる。

「違うよ。……ごめんね、僕、……冴島くんが好きだったんだ。本当にごめん……」

 千晴がそう言い終えた直後ちょくご、突然彼に左腕ひだりうでを掴まれた。


 紘は黒い瞳で、千晴を真っ直ぐに見つめている。

 意外いがいにも、紘はおだやかな表情を浮かべた。

「何が『ごめん』なんだ?」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る