第2話

 インターホンの音が聞こえてきた。

 再び目覚めた千晴が見た時計の針は、三時を指している。

 えずいそがず、ひびくインターホンの音。

 渥美家の人間は今、千晴以外出払ではらっているらしい。

 千晴は、ベッドから静かに体を起こす。

 その間も、インターホンは止まない。

 立ち上がった千晴は、パジャマ姿のままで部屋を出た。


 先ほど起きた時よりも、千晴はさらに地に足がついていないような感覚。

 千晴は階段を降りると、一階のリビングにあるドアモニターへと向かう。

「はい、なんですか?」

 長方形のモニター越し。千晴はなく問いかけると、思わず息を呑んだ。

 黒髪に通った鼻筋はなすじという見慣みなれた綺麗きれいな顔が、覗き込むようにしてうつっている。


 千晴を突然、激しい動悸どうきおそう。

『あの、俺、冴島です。渥っ……、千晴くんのお見舞みまいに来ました』

 紘は家主やぬし返答へんとうを待っているのか、こちらを見つめたままそれ以上の言葉は発しない。

(どうしよう……、出ちゃった……。今さら居留守いるすにもできないし……)

 体感たいかんでは何十分という数秒。

 千晴がだまり込んでいると、紘の柔らかい声が聞こえる。

『……渥美、だよな。入れてくれないか?』

 いまだ治まる気配のない動悸を抱えながら、千晴は返事をした。

「……ちょっと、待って。……今、開ける」

 気の乗らない足取りで玄関へ辿たどり着くと、開錠かいじょうしたとびらの先に制服姿の紘がいた。


 千晴が辿々たどたどしく紘を自分の部屋へと通すと、彼が口を開く。

「突然来て、ごめん。昨日……、渥美がすぐ帰っちゃったからさ」

 紘はスクールバックを肩に掛けたままで、千晴を見つめている。


 千晴は自分のみゃく随分ずいぶんはやくなったような気がした。

 それになんだか、体も火照っていく。

 昨日の風邪かぜが今ぶり返したのか、このままだと呼吸もみだれる。


 好きな人が自分の部屋にいる奇跡きせきを、感じられる余裕よゆうもない。

 むしろ今、千晴は体調たいちょう不良ふりょうに加えて、失恋したその相手に傷口きずぐちをもえぐられているみたいで、んだりったり。


 それに紘が話したい内容だなんて、千晴は理解りかいできている。


 昨日、千晴があの場所に、あの告白の場面にいたこと。


 そう、その口止め。


 そうでなきゃ、彼がわざわざ風邪で休んだ「ただの同級生」の元に来る理由もない。


 彼にとって千晴の位置いちづけは、『大勢おおぜいの中の一人』にぎない。

 悲しいかな、千晴と紘とはそういうぐらいの間柄あいだがら


 千晴は顔をせながら、自然とパジャマのそでつかんでいた。

(「誰にも言わないよ」、……軽いかな? 

それとも「何も聞こえなかったよ」とか?)

 千晴は答えをいくつも用意しては、消去しょうきょほう選別せんべつしていく。

 紘が、再び口を開いた。

「結果が、出たんだろ?」

(また『結果』?)

 今朝にも、母が言っていた。

 千晴は理解できないままに、上目うわめで紘へとどうにか言葉をしぼり出す。

「……どうして、ウチに?」

 紘は目もらさずに話を進めた。

「『再検査』。昨日、結果が出ただろ」

 けれど千晴は、彼の言葉の意味を分からずにいた。


 千晴はたまらず視線を逸らす。

 ベッドの中へと身をかくそうと、千晴が歩くその動線どうせんを、なぜか紘は立ちふさぐ。

「ごめん。まだ、風邪治ってないんだ……。か、帰ってくれる?」

 千晴はそう伝えるも、彼はその場を動こうとしない。

「ほんと、ごめんだけど、帰って」

 紘を突破とっぱして、千晴はベッドへと向かう。


 ベッドに上がった千晴は、紘に背を向けたまま毛布を手繰たぐり寄せる。

 紘が、静かにつぶやいた。

「分かった」

 部屋に、沈黙が流れる。

 千晴は顔をそむけたままだったけれど、紘からは帰るような気配も音もしない。

 千晴は気まずさを拭いきれない。

 正直、紘と話を続ける余裕も理由も、千晴にはない。


 たまらず、千晴は声をあらげる。

「あっ、あの! もう、帰って!」

 するとなぜか、千晴をなだめるように、紘は優しくささやく声で繰り返した。

「大丈夫だ。……大丈夫」

 恐る恐る、千晴は顔を上げる。


 目の前に立った紘のうるむ黒い瞳が、自分を見つめていた。


 紘の指が、千晴の頬にれる。

(な……に……?)

 突然のことで戸惑とまどいを隠せない千晴をよそに、紘が呟き始める。


『もう大丈夫だ』

『分かってる』

『俺は、αアルファだからな』

『ただの発情はつじょうだ』


 その言葉に、千晴の背筋せすじへと何かがつめたくつたった。

(『発情期』……? 何言ってるの……? わけ分かんない……)

 そう言いたいけれど、まるで言葉が口の中でき止められるように声が出ない。


可愛かわいい俺のΩオメガ


 紘のその一言で、千晴の視界しかいがなぜか暗くなっていく。


(『Ω』……? 僕って『Ω』なの……? なんで、そんなこと……)



 頬に温かい感触かんしょくがした千晴は、再び自分が眠っていたことに気づく。

 おぼろげなままの千晴の左頬を、紘は手の平で撫でていた。

 それから紘の厚いくちびるが、千晴の唇に優しく触れる。


 千晴のファーストキス。

 夢に見ていた、あこがれていたその一瞬いっしゅん

 キスの余韻よいんひたるなんて間もないほど、呆気あっけなく通りすぎた。

(なんで、僕、冴島くんとキス……?)

 途端に、千晴はわれに返る。

 涙が込み上げた。

(冴島くんには彼女が……、長部さんがいるのに……)

 下唇をんだ千晴の頬に、紘の温かい手が覆う。


 目をほそめた彼は、次には微笑みをかべていた。

こわがるなよ。俺たちは『運命のつがい』だ」

「な、何言っ……」

 紘の唇が、千晴の首筋くびすじに降りる。


(待って待って。これって、もしかしなくても『あれ』だよね。『うなじ噛んじゃうやつ』だよね? 『つがっちゃうやつ』だよね?)


 千晴は両手で素早すばやく首を覆った。

(ダメダメダメぇ!)

 紘が吐息といき混じりに、千晴の耳元へと囁く。

「ねえ、俺の可愛い番。それ、外してよ」

 あま誘惑ゆうわくするように、紘は千晴へと言葉を降らせる。

 だけど、千晴には簡単かんたんなことではない。


 紘のことはもちろん好き。

 何がどうなって自分が『Ω』だなんてことになったのか、正直、今も理解できない。


 けれど紘が『α』だとして、このまま彼に噛まれれば、好きな相手と『番』になれる。


 それでも、彼は……? 

 紘が自分と『番になる』ということは、彼にとって『本当に好きな相手と番になる』と言えるのだろうか……。

 紘の言う通り、今、自分が『発情期』だとして、彼は単純たんじゅんに『「Ω」の「ヒート」』に当てられただけなのではないか……。


 千晴は冷静れいせい事態じたいを飲み込み始める。

(ダメだよ。絶対ぜったいにダメ! 番になるのは、おたがい好き同士どうしじゃなきゃ!)

 千晴は絶対に首元を外すまいと、両手の力を強めた。

 その千晴の手のこうへと、紘は執拗しつよう甘噛あまがみしてくる。

「……ダメだってばぁ」

 千晴はさらに手に力を込める。

「可愛い声で言ってもダメだよ。外してくれないと、番になれないよ?」

 抵抗ていこうする千晴へ、紘が低く甘い声で宥めてくる。

「やっ、ダメぇ」

 千晴は「この手だけは離すものか」と耐え続けた。

「ダメったら、ダメなの!」

 その時再び、千晴の視界が暗くなる。

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