眠れる部屋のΩ(オメガ)くん

水無 月

第1話

『十日ぶりにれるでしょう』

 今朝けさ予報よほう見事みごとはずれる。

 かさを忘れた、七月の鉛色なまりいろの空の下。

 高校二年生の渥美あつみ千晴ちはるは、初めての失恋しつれんをする。


 閑静かんせいな住宅街を通る、放課ほうかの帰り道。

 雨は気まぐれに、ってはみをり返す。

 天気に翻弄ほんろうされながらも、千晴はようやく軒先のきさきを見つけて、ずぶれの小柄こがらな体を押し込んだ。


 げた茶色の、ふるびた町屋まちや軒下のきした

 千晴は目の前で滝のように落ち続ける雨をながめる。

 ナイロン製のスクールバッグは雨水あまみずみ込んで、本来ほんらいこんから黒へと変わっていた。

 おそおそる、バッグを開けてみる。

 かろうじて、中身は無事ぶじ

 千晴は安堵あんどから、息を一ついた。

 うちポケットに入れてあるミニタオルを取り出して、千晴は顔と両手をぬぐう。


 降雨こうう濃紺のうこんしょくのニットベストを悠々ゆうゆうと通り越していた。

 千晴の華奢きゃしゃ白肌しろはだいつくように、半袖はんそでの白いシャツと淡灰色たんかいしょくのチェック柄のスラックスが体にりついている。

 雨は、アスファルトの地面じめんはげしくたたく。

 まった水が波を作るようにして、千晴の黒色のローファーを容赦ようしゃなくおぼれさせた。


 小さく溜め息をいた千晴は、重くなったスラックスのすそをくるぶしまでまくる。

 張りついたままの制服に、千晴の体は徐々じょじょれてきた。

 茶色がかった髪も濡れきって、長い睫毛まつげしたたりが落ち続ける。

 千晴は手にあるミニタオルでひたいを拭うと、大きな瞳をしばたいた。


 正面には小さな公園。

 時折ときおり、太陽の光があつい雲からこぼれる。

 あたりはドライアイスをらしたみたくかすんでいた。

 千晴は不意に視線しせんうつす。

 左隣ひだりどなりがきには、紫陽花あじさいいていた。

 雨粒あまつぶあつに、花びらがえている。

 花は白に青そしてむらさきと、どれもあわく、葉は瑞々みずみずしい緑。

 いつもとちがって見える景色けしきに、千晴は胸があたたかくなって、自然とほほゆるんだ。


 その時、目の前の豪雨ごううが姿を消した。

 見上げてみると、ところどころに青空まである。

 けれどすぐさま、空を黒雲こくうんおおい始めた。

 千晴からげるように、青色がせまくなっていく。

 あわてて軒下から走り出ようとした時、不意に千晴の足がまった。


 正面に見えている公園の中央。

 そこには、片手にすぼめた赤い傘を持つ女子と、その隣を歩く男子。

 どちらも、千晴と同じ学校の制服だった。

 千晴は濡れたままのスクールバッグをかかえると、息をひそめて二人の様子をうかがう。


 理由は、赤い傘の女子の隣にいる男子が、千晴の初恋の相手「冴島さえじまひろ」だったから。


 すべり台とブランコだけという、こじんまりとした公園内。

 木製のベンチはあるけれど、この雨で濡れているのだろう、二人がこしかけることはない。

 女子はブランコの手前で止まると、紘へとり返る。


 赤い傘の女子の正体は、学校内で一番人気と言われている「長部おさべ真綾まあや」だった。


 彼女を一言で表すなら、美人。

 千晴と紘と同じ二年生ながら、生徒会長をつとめる。

 長身の紘と並ぶと、まさに美男びなん美女びじょ

 背丈せたけのバランスだって、……キスをするのにはちょうどよい。

 可憐かれんな真綾の風にれる黒髪くろかみと白い肌と、赤い傘のコントラスト。

 凛々りりしい紘をくわえたその構図こうずは、さながら一国いっこくの姫と王子みたいだった。


 さわやかですずやかな、真綾と紘。

 二人とは相反あいはんして、全身濡れている千晴。


 どうしようもなく切なくて、悲しくて、千晴は胸がめつけられる。


 その時、沈黙ちんもくを紘がやぶった。

「話って?」

 低くもやわらかく優しい、紘の声。

 ためらいがちに、真綾が返事へんじをする。

「うん。……こんな雨の日に、ごめんね」

 真綾は片耳かたみみに髪をける。

 途端とたんに、彼女の頬が赤くまっていった。

 千晴は固唾かたずむ。

 バッグを抱える千晴の両手は、自然と力が入った。

 呼吸こきゅうととのえ直した真綾が、口を開く。

「私、冴島くんのこと、好きなの」


 その時、千晴の背後はいごから風が吹き込んで、紘と真綾の間を通りけていった。


 雨が、降り始める。

 真綾は持っていた赤い傘を開くと、紘を中へとまねき入れた。


 千晴は不意に後ろへとたおれそうになって、左足で重心じゅうしんささえる。

 二人に背を向けるように、千晴は走り出す。

 体が重く感じたのは、雨をふくんだ制服とくつのせいだけじゃない。


 家に着いたころには、空から滝のように打ちつけていた雨は完全に上がっていた。

 四つ上の姉が、玄関先で水浸みずびたしの千晴の姿を見た瞬間しゅんかん悲鳴ひめいはっする。

 おどろいた母が、リビングの方から慌てた様子で飛び出してきた。

 二人に強制きょうせい連行れんこうされて、千晴はバスルームへと押し込まれる。

 無心むしんでシャワーをませた千晴は、二階にある自室へと向かった。


 千晴は、ベッドに倒れ込む。

 毛布にくるまった途端に、心拍しんぱくすう加速かそくしていった。

 涙が雨にまぎれてくれたおかげで、どれだけ泣いたのか分からない。

 目の前へときつけられた恋の終わりは、千晴の心を容赦なくつぶしていく。

「ふっ、うぇっ、んぐ、ううう……」

 言葉にならない声たちが、再び千晴の涙となって零れていく。


 忘れたい赤い相合あいあいがさに、千晴は自分のたましいうばわれたみたいだった。

 体も顔も火照ほてって頭も痛いし、鼻水なんて止まる気配けはいもない。


無言むごんの失恋』

 それは心から全身までをもきしませていく。



 高校に入学したての頃は、千晴は冴島紘と同じクラスで隣の席だった。

 彼はりんとしていて、性格も温厚おんこう

 すでに背は高く、黒髪と黒い瞳が彼の顔の作りのよさをさらにきわたせていた。

 千晴も当時、彼のことは「同級生」という認識にんしきで、時々教科書を忘れた紘にたのまれてつくえを合わせたぐらい。


 ある日の休み時間。

 紘は友人が一緒にいるにもかかわらず、どこか遠くを見つめていた。

 不意にのぞかせたそのさびしげな表情に、千晴は激しく心を揺さぶられる。

 どうしても頭から離れなくて、千晴は彼が同性であっても、次第しだいかれていった。



 千晴は、毛布から顔を出す。

 ベッドのそばにある小さなテーブルに視線を移した。

 テーブルの上には、み上げてある漫画まんが

 姉からいつもりているものたち。

 家族以外には内緒ないしょにしているけれど、千晴の姉は腐女子ふじょしの情熱から〈BLビーエル漫画家〉へ変貌へんぼうげて、今や千晴も、立派りっぱ腐男子ふだんし


 紘を、同性を好きになったのは、姉の影響えいきょうなのか、もとからそうなのか。

 今となっては、分かるすべはない。


 * * *

 

 柔らかな電子でんしおんが聞こえて、千晴はねむっていたことに気づく。

「あ、起きた? あれだけ濡れたから、ほら熱が出てる」

 母が体温たいおんけいを持ちながら話している。

 けれど千晴は、頭はれるような痛みが、体はベッドの奥底おくそこしずんだみたく動かない。

「とりあえず今は、薬んでてなさい」

 千晴は、久しぶりに母に頭をでられる。

 母のその変わらない姿に、千晴は少しだけ身も心も楽になった。


 * * *


 ベッドわき目覚めざまし時計が、七時をしていた。

 夜だと思っていたら、カーテンの外にが当たっている。

 千晴は軽くなった体を起こすと、パジャマ姿のまま一階のリビングへと向かった。

 廊下ろうかは雲の上を歩くような、階段はまるでエスカレーターで降りていくような、不思議ふしぎな感覚。

 

 キッチンでは、母と父が仲よく朝食の準備じゅんびをしていた。

 これは、渥美家の恒例こうれい

 千晴に気づいた父が、優しく「おはよう、気分はどう?」と眉尻まゆじりげて微笑ほほえむと、母も同じく繰り返す。

 千晴は自然に、目線を手元てもとに落とした。

 不用意ふよういつめさわりながら、千晴は両親へと視線を走らせる。

「おはよう。もう、大丈夫」

 失恋後に見る、仲睦なかむつまじい両親の姿。

 千晴はなんだか居心地いごこちが悪いような、れくさいような気持ちで落ち着かない。


「今日は学校に、お休みの連絡れんらくしておくわ。忘れずに薬を飲むのよ」

 母はそう言いながら、眉をしかめた。

「もうなおったよ」

 千晴が薬は必要ないことをげると、母に加えて父も眉間みけんしわせる。

「結果が出たんだから、ねんのためだ。部屋にもどって寝てなさい」

 なんの結果? とい返そうとしたけれど、溜め息じりの母にうながされて、千晴は部屋に戻る。

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