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結婚して、埼玉に移ってしばらく後、関本が遊びに来た。今度横浜でも個展をやるから、打ち合わせに、と言った。埼玉に来てからの早苗は情緒不安定というかなんというか、機嫌のいい日と悪い日の振れ幅がものすごく大きくて、この日は誰にも会いたくないというものだから、おれは関本に事情を説明して、おれの方が横浜まで出向いた。回転寿司でも行くか、ということになって、おれらは久しぶりに皿を重ねる競争をやった。負けた方が全額持つのだ。話もそこそこに、真剣に、相手よりもたくさん食べること集中した。
お互い、だんだん皿をあけるスピードが落ちてきた頃、ナツメの話が出た。その時点ではおれの方が、三枚リードしていた。
「めぐちゃんと連絡取ってる?」
「正月にメールぐらい」
関本は、はじめて流れてきたエビアボカドを取った。うわあ、女みたい、とおれが顔をしかめると、アホかうまいぞこれ、と関本は反論した。そしてマヨネーズのてろんとかかった緑と赤のコントラストを口に放り込み、
「今やから言うけど、めぐちゃん、ずっとお前のこと好きやってんで」
と眉一つ動かさず言った。意味がわからなかった。まず言葉の意味がわからず、つぎに、なぜ今頃そんなことを言うのかがわからなかった。
「ナツメ、同性が好きやったんちゃうんか」
関本は、あの日と同じように、あー、あー、と大きく頷き、
「だってお前、ほんまのこと教えたらひとりで持って行ってまうやろ」
一瞬眩暈を覚え、次の瞬間こいつ殴ってやろうかなと思った。ただ、高校一年の頃からこの前の年に左手中指の神経をゆわすまで、関本は絵を書く傍らずっとボクシングもやっていたという行動破綻者だったから、おれのパンチがまぐれでも関本に当たるとは思えなかった。関本を殴る代わりに、右手の親指と中指を両側のこめかみに渡して揉みながら、何か気の利いたことを言ってやろうと考えた。
何も出なかった。
「けどお前、ずっと早苗ちゃんおったし、そんで結局結婚してめでたしめでたしで今があるわけやん。ハッピーライフ、ハッピーホームやんけ。おれがいらんこと言わんかったおかげやと思わへんか? めぐちゃんに乗りかえたとして、その後ずっと上手くいった、とは限らへんやろ?」
やっぱり殴ってやろうかな、と思った。遠方からの友達を歓迎できない家のどこがハッピーホームなのだろう。いや、もはやこいつが友達かどうかは置いといて。
けれど関本が、
「なっ?」
と左のてのひらに右のこぶしをバチンと打ちつけたのを見て、敵わない、と項垂れた。
「関本は? 今もナツメとつながりあるん?」
腹に力が入らないままそう問うと関本は、優美と表してもよいその長い首をやー、と横に大きく傾けて、
「最近またふられたねー」
と笑いながら答えた。
「また、って何?」
「こんで五回目くらいかな」
「ナツメに?」
「そう」
「ナツメひとりに?」
「そうや」
いや、ほんま、昔から何回か言うてんねんけど、そろそろ諦めるわ。関本はエビアボカドののっていた黄色い皿を脇へ押しやった。
「そやし、お前にも言うとこうかと」
死んだらいいのに。おれは思ったけど言わなかった。関本はそこからさらに四皿食べ、結局おれが勘定書きを持ってレジに立つことになった。
「ナツメさあ」
「うん?」ナツメはモヒートのタンブラーを傾け、一口すすった。
「どっか泊まってかへん?」
「今日?」
言ってしまったとたん、床につけている靴の裏の部分だけに、真っ黒な穴が開いているような気がした。吸い込まれそうだ。頭皮が痺れ、眉間が痺れ、咽喉が、胸が、膝が痺れ、全身がおかしくなった。
「うん」
それでも死ぬ気で頷くと、ナツメは素晴らしい、素晴らしい笑顔を見せた。おれ自身が最後にこういういい顔で笑ったのは、一体いつだったのだろう。ナツメは持ち上げていたタンブラーにもう片方の手も添えて、テーブルにそっと戻し、背もたれに軽く伸びた。おれは浅はかにも、あまりに浅はかにも、承諾の笑顔かと思った。
「ええかもね、前はよう三上君ちに泊めてもろたし」ナツメは卓上のタンブラーを無意味に回した。ろくろを回すように、両手で回した。「何? 奥さんとうまくいってない?」
おれは、いいや、昔といっしょ、とだけ答えた。あれ? じゃあ昔からうまくいってなかったってことか? いや、そうじゃないやろ。そうじゃないけど。
痺れは去り、穴に落ちる感覚に襲われた。胃がすうすうするような。言うんじゃなかった。言うんじゃなかったな。でも。
「今さらやけど、どうにもこうにも、言いたくなって。いっぺんくらい、ほんまのとこ」おれはナツメを見た。黒い眼を見た。それからスペアミントの葉の緑を見た。「おれナツメ好きやで」
ナツメは、しばらく何も言わなかった。おれは両手で頭を抱え、天井を仰いだ。進退窮まった人間は、ほんとうに頭を抱えるのだ。
「あかんかったなー。しかも言うこと順序が逆やん、おれ。言わんかったらよかった」
するとこのひとは、さっきの笑顔の残滓とともに、それはいいよ、いいねんけどな、と言いながらかすかに横に首を振った。
「でもちょっとだけ、遅かったね」
happy ever after 灘乙子 @nadaotoko
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