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 CHABOのマスターは諏訪さんというらしい。諏訪広志。誰も諏訪さんとは呼ばないからずっと知らなかったのだが、CHABOのことが雑誌に取り上げられて、それを見て知った。

「これ、呑み屋」

 早苗にも見せると、ああ、ずっと行ってたとこ? と、先週買ったはるかのクリーム色の肌着を畳みながら目をくれた。そう。こんど行く? いや、別にいい。居酒屋とか、わたし呑めへんのに。ていうか誘ってくれるの初めてじゃない? まあ、そうやな。急にどうしたん? いや別に。載ってたし。ふうん。わたし家でピザ食べる方がいいな。はるかもいるし。

 それで木曜日、ピザを食べた。でかいピザ。七時に帰ってこいと言われて、ちゃんとそのようにした。言われたことをそのようにするのは、昔から得意だ。


 おれは大学に入った直後から、同じ学部にいた早苗と付き合っていた。始まった時から老夫婦のような関係で、落ち着いていて気楽だった。しかし、もっとあけすけに言うと、「特段別れる理由も気力もないから別れない」という理由で、付き合いを続けていた。物足りないと思わないでもなかったが、「物足りない」は別れる理由にはならなかった。結局そのまま、結婚したわけだ。ナツメのことは、さらに理由にならなかった。ひそかにいいなと思ってはいても一切どうにもなっていない、どうにかなる予定もする予定もない別の女の子のことを理由に悶着を起こすような根性があったら、それこそ、もっと他に何とかなっていたはずだ。早苗には、早い段階でナツメのこともちゃんと紹介してあった。ただ、早苗は、ナツメのことを関本の何かだと思い込んだようで(まあ事実、はじまりは「関本の妹の友達の姉ちゃん」なのだったのだが)、おれはずっとそれを訂正しなかった。


 おれと早苗は籍を入れたあと、お互いの友達だけを呼んで、レストランでささやかなパーティーをやった。おれ側の招待客の中でただひとりの女性だったナツメは、クラシックな紺色のワンピースを着て、関本と連れ立って現れた。ナツメは群を抜いて、本当のことを言ってもいいのなら花嫁よりもきれいだったし、関本もおれの友達の中ではナツメにどつかれた本田の次に、次というかまた別のタイプの、押し出しのいい男だから、二人はやたらに目立った。

 早苗の目にもそれは同様だったようで、関本君と夏目さんはお似合いやね、と言った。結婚とか、せえへんの? と。

 ナツメは女の子がいいらしいで、と喉元まで出かかった言葉を呑みこんで、運ばれてきたアイスクリームに挿してあった太いポッキーをぼりぼり齧りながら、さあな、とだけおれはこたえた。


 そして約束の金曜、おれはナツメに会いに行った。ナツメと呑みに行った、と言うよりも、そっちの表現の方が心境には忠実だ。ナツメの顔を見に行った。ナツメに会いたかった。ナツメはその日の朝に、「ちゃぼ行ったらいい?」とメールを寄越したが、おれは、ネットであたりをつけた全然知らない店を提案した。二人になりたかったのだ。


 ナツメはその日も旺盛に食べた。ナツメは昔から健啖家だった。口数はそんなに多くない。それでも気づまりになったりはしないのだった。初めて会ったときからずっとそうだった。灰皿とタンブラー以外何もなくなったテーブルに肘をついて、時々酒を飲む。モヒート。昔は呑んでいなかった類の酒だ。ナツメは、漢字か平仮名で書くような酒しか呑まなかった。


「ちょっと前からスペアミントがあってさあ。うちの庭に」

 ナツメは酒に浮かんだ美しい緑色の葉を、つまんで氷山の上に移動させた。スペアミントが、年じゅう半陰になる裏庭に育っているらしい。

「一昨年やったか、お母さんが車でイタリアンレストランのハーブの植え込みに突っ込んでな、隣のケータイ屋の駐車スペースに入れるの失敗して。その縁で、そこから貰って来てん。そんで挿したら付いてん」

 どんな縁やねん、とおれは笑った。普通貰うか? その状況で。

「謝りに店に入ったら、シェフがお母さんの昔の同級生やってんて」

 煮込み料理向き以外のハーブはどうやって使うかわからんかったけど、せっかくあるしもったいないし、クックパッドで調べたら出てきた、そんで家でもよく呑んでるとナツメは説明した。

「決しておいしいわけでもないのに、なんかまた飲もうかな、って思わせてくる味と香りなんよね」そして飲むでもなく、形のいい唇をグラスの縁に押し当てるように持ち上げた。「独特のにおいがする。けどそこまでいい香りってわけでもない」

 わけわからんやろ、とナツメは目の前で右手の指をひらひらと動かした。

「わけわからんもんて、でも強いよな」おれは頷いた。時々、理由があきらかなものよりも、よっぽど。

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