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 帰還祝いと称して奢ってくれたナツメは、またちょいちょい呑みに来ようよと誘ってくれた端から、ああでも三上君はさっさと家帰らなあかんよな、あかんわ、と自らそれを打ち消した。いや、まあな、でもまた来ようや、とおれは言ったが、来られるのかどうか、自分でもよくわからなかった。来る根性が、あるのかどうか。それで無事でやっていけるのか。このひとのほっそりした首から顎にかけての線をひとわたり眺めているうちに、肺から一気に酸素が抜けていくような感じがして、直後に心臓が痛んだ。あーあ。今度こそ目を背けられない事実、ってことになるんかな。もう一人の自分が、遅いわ、子どもまで出来て、と舌打ちした。あほちゃう。


 ナツメとは、十年前、お互いがまだ学生だった頃に、おれの友達の関本が催したイラストレーションの個展のオープニングパーティーで出会った。ナツメは、関本の妹の友達の姉ちゃん、だかなんだか、かるく遠縁の親戚のような続柄でパーティーに動員されて来ていた。妹づてに頼まれて来てはみたものの関本本人との面識はなし、妹は妹で自分の知り合いとワイワイやっているしで所在なかったらしく、はじめは客であったはずなのに、半時間もすると隅っこに設置されたバーカウンターの後ろに回って、モスコミュールやらカシスソーダやらをこしらえては、他の客に配っていた。その時、バーを任されていたのがおれだ。最初は、おれより年上だと思っていた。無根拠に、喧嘩の強そうなひとだな、と思った。流血戦。


 ナツメはJRの改札へ向かって歩きながらおれに言った。

「これ、三上君と帰る方向が同じってすごいね。新鮮」

「あー、せやな」

 ナツメにとってはそれは変わらない帰り道だったが、おれは独身の頃部屋を借りていた阪急沿線からJRの方へ住居が変わっていた。最寄駅まで乗って、そこから歩くかバスか。早苗が気に入ってローンで買ったマンションは、むこうの実家のすぐ近くだから、大体昼間はそっちにいるらしい。まあそうなるだろう。むこうがいいようにすればいい。もうずいぶん前から、むこうのすることをどうこう思うこともない。パパは無関心よねー、とむこうは言う。娘に向かって言う。おれらのシビアな会話は、近頃では大体娘を中継して行われる。けれども、別に無関心なわけでもない。だって、おれが何か言ったところで、結局むこうは自分の思うようにするはずだ。はるかが生まれてからは絵にかいたようなセックスレス夫婦だったけれども、近頃ははるかにきょうだいがいた方がいいというので、むこうの基礎体温の山谷に沿って生殖活動を申し込まれる。まあ、そういうもんだと思う。別にかまわない。


 ナツメはくだんのオープニングパーティー以降、おれや関本とつるむようになって、よくおれの下宿にも来た。ナツメは関本他おれの友達といっしょにうちにあがっては、酒を呑んで咥え煙草でインディアンポーカーをして勝ったり負けたり、眠たくなると歯だけはいつも持ち歩いていたホワイトニングの何とかというペーストでしっかり磨いて、その辺で寝た。はじめのうちこそみんなナツメを女性として扱ったが、間もなく夏目さんは確かに美人ではあるけれども、あれはスコットランド人、つまりスカートを穿いた男だと言うようになった。実のところ、おれはそうは思っていなかったわけだけれど。勝気そうな外見とは裏腹に、根本的に親切で温かいナツメは、とても魅力的だった。


 おれの下宿にみんなして来たはいいが、深夜バイトに出る奴やらちゃんと家に帰る奴やらが一人欠け二人欠け、最終的にはナツメひとりだけになることもあった。それでも、ナツメに何かしたいとかしようとか、そんなことは考えられなかった。とにかく意識の上でも下でも高嶺の何とかで、ものを思う以前に諦めていたのだ。

 ナツメは一度、酒の席で自分の膝に手を置いてきた仲間内の自信家の本田を、掌底でどついていた。笑顔で、

「どぉっかーん!」

 というしょうもない効果音を自前で付け、はずみであたり一面に散らばった柿ピーを、その場にいた全員に、

「はい、年の数だけ拾って食べる!」

 と指示してそうさせ、あくまですべてが冗談という態にして、美形の本田に全面的な恥をかかせることなく絶妙にその場を収めていたが、本田が涙目になっていたのを正面に座っていたおれは見逃さなかった。相当痛かったのだと思う。


 後日、関本と二人になった時にオフレコやぞと念を押してその話を聞かせ、

「ナツメは彼氏おらんて言うてたし、そもそもあんまりそういう話もせんやろ? でも好きな男はいるんかな。ひょっとしてお前とか」

 と話を振ると、関本は、あー、あー、と意味ありげに顎を上下させ、ややあって、

「めぐちゃんは女の子がいいらしい」

 これこそオフレコやぞ、絶対な、と口止めした。連れの中ではおれと並んでナツメと親しかった関本は、ただひとりナツメのことを下の名前で呼ぶ男だった。おれは、ああ、と頷いた。まさに腑に落ちた感じだった。


「ここの団地をな」

 ナツメのことばで我に返った。二人で乗り込んだ電車は、広がる団地群を南に見ながら走っていた。ナツメは黒い鏡になった窓をひとさし指でとんとん叩いた。

「わたし三上君が結婚するって教えてくれた日の帰りも、異動になったて聞いた日の帰りも、こうして見たんよね」

 おれたちはまあまあ空いている車内の、ドア口に立っていた。電光ウェハース、とナツメは言った。少しだけ窓ガラスに顔を近付けて、外の景色に焦点を合わせると、空には細い月も出ていた。

「だから何ってわけじゃないねんけど、なんかすごいよく覚えてるねん。あの日団地見たよなー、って。あっちの道路にいる車とか、外灯の光の加減とか」

 へえ、とおれは応えた。元の位置、俺より頭ひとつ分小さいナツメのすぐ脇に立って、窓に映っている自分たち二人を眺めた。おれらはどう見えるんだろう? 恋人には見えない。だろう、多分。昔は一緒に歩いていると時々、言われたんだけど。夫婦には絶対に見えない。同僚かな、一番近そうなのは。

「ほんままた飲みに行こう」おれはぼそぼそ誘った。何となく、周りの人に聞かれたくなかった。自分のことを知っている人なんて誰もいなかったけれど。呑みに行くだけなら、やましいことなんかではまったくないのだけれど。「来週、か、その次か、その辺で」

「行けるん?」ナツメは目を見張って、言外に、無理やろ、という台詞をにおわせる表情で聞いた。

「決めたら行くやろ。その、先に約束さえしといたら万障繰り合わせるやん」

 おれは十日先の金曜日を候補に挙げた。ナツメは、いいよー、と軽くうなずいた。


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