happy ever after

灘乙子

 ええかもね、前はよう三上君ちに泊めてもろたし。


 彼女はするすると、甘くない酒を飲んだ。


 三上君、三上君にさあ、そういうこと言うてもらえるんって嬉しいよ、だってずっと、そういうふうに言うてほしかったんやから。今でも、わたし三上君のこと好きやねんし。けどな三上君、ほんまにそうしたら、わたしよりも三上君の方がしんどくなるで。三上君はそういうわたしの気持につけこんで一回だけ勢いで泊まりに行って、はいサヨナラに出来るほどひとでなしじゃないよ。昔と状況が全然違うしな。三上君は、奥さんにも――奥さんよりもむしろ娘さんかな――悪かったな、って気になるやろうし、わたしに対してだって、絶対なんかしら責任があるとか何とか思うはずやで。平たく言うとアレやな、浮気できるようなタマやない、ってこと。


 そう言って、ふふふふと笑った。

「でもそのかわり、多分これからもずっとこういう感じで、会えるやん」


 彼女は、美しかった。そして、大人だった。



 彼女と再会したのはほんの、二週間ほど前のことだ。出向した埼玉の関連会社から予定より一年も早く帰って来ることになって、また元の本社に勤務し出してすぐだった。

 おれが三十になったからあっちは二十九のはずだ。彼女は相変わらず、他人を振り返らせる美貌を保持し、落ち着いたブルーのスカートに軽いジャケットを羽織って、地下道を向こうから歩いてきた。八時だった。とっとと仕事を終えて出てきたのだろう。出勤した瞬間から一刻も早く退出することしか考えてない、とよく言っていた。おれの方が、先に見つけた。だから、すぐさま脇の本屋の方に幅寄せをして、彼女のようすをしばらく眺めた。彼女は足早で、黒い無難なパンプスの踵を小気味よく鳴らしていた。たくさんの人がいたけれども、おれは、その音が聞き分けられた。ように思った。

「ナツメ」

 今さら襲ってきた緊張で一瞬躊躇して、出ないかと思った声は、結局大声になった。ナツメは肩をびくんと震わせて立ち止まり、こちらを見た、声の源を探すように見まわして、おれを見て、数秒見続けて、黙ってつかつかとこちらに来た。そして、おれの左腕を右手で掴んで、頭を垂れた。

「びっくりするからやめてや、そういうの」

 そう言って上げた顔は、まゆ根が寄っていて、笑っていた。そんなふうにナツメに触られたことは、あまりなかった。


 その足で、よく一緒に繰りこんだ「CHABO」という呑み屋へ行った。マスターは大声をあげて驚いた。顔見知りの常連さんも、前からのバイトの女の子もまだいて、みんながみんなわあわあ言った。


 なにしてるんや三上君、帰ってきたんか! いつよ! 先月末。栄転? いや、単に呼び戻されただけ。なっちゃんは? まだ神経内科? そう、ずっと同じ。ナツメさん、相変わらずめっちゃ綺麗! や、大したことない。あははは、醒めてる! ワシなっちゃんのこと、いつやったか見たで、なあ大将、ワシゆうたやろ? ああ、去年な? そや、男前の兄ちゃんと一緒やったがな。ええ? それ私ちゃいますよ、そんな知り合いいてへんし。うそやー。いてへんて! いたら今頃もっと何とかなってる。あははははは。何とかなってへんの? うん、全然何ともなってない。三上君は結婚したんやったなあ? そうです。子どもは? 娘生まれた。いくつや。一歳。かわいい盛りやな! ワシの孫もその頃は可愛かったでぇ。いや、いまも可愛いけどな! そうですね、可愛いいうか、面白いです。なっちゃんも長いこと来えへんかったなあ。うん、連れおらんようになったし、ちょっと仕事増えたし。なんや、それでも来てくれや、仕事変わってへんのやったら毎日そこ通るやろ? あはは、せやね、来てもよかってんけど、なんかほんま地味に忙しくて元気なくて。今日も帰ろうとしててんけど、さっき道で三上君に会ってん! 偶然! そんで来てん。すごーい、運命のふたりですねー。いやもうあの人奥さんいるし。ははは、そうですけど。気の合う人はお互いいくらでも引き合って逢うっていう。まあ、そうかな。友達はいいよね。また会えるから。なんていうの? いつも普通に会えるやん。ああ、どんなに間ぁ空いても、いつも前回の続き、みたいに会えますよね。そうや、ええぞ友達は。


 ナツメは濃い睫を上下させて表情豊かに話した。そして酒を呑んだ。おれも呑んだ。ほんとうに、昨日まで会っていたような友達同士として喋った。ただ、おれには子供が生まれて、新しい家族と暮らしていた。


 娘さんなんていうの? 名前? 名前。はるか。普通やん。普通が一番やろ。そうやな、三上はるかか。いいやん。ありがとう。奥さんは? 三上早苗。知ってるそれは。さよけ。埼玉いっしょに行ってたんやろ? うん、でも一年くらいしてヨメさんが帰って、ていうか帰らせて、なんとなく定期的に行き来して、子ども出来て、おれが帰って来た。ふうん。なんで先に帰らせたん? あんま合わへんかったみたい。水とか。ふうん。じゃあ三上君寂しかったね。うーん、まあな。ナツメは? 何が? 仕事? うん、仕事とか。別に、変わりなく。忙しく。ごちゃごちゃと。ふうん。ずっと大体同じ。やってることは。ふうん。あんまおもろない三年間でした。ふうん。


 とりたてて喋ることもない、とナツメは失笑した。前といっしょ過ぎて。

「結婚とかはせえへんの」

「ないね今のところ」

「そうか」

 ナツメは別段気分を害した様子でもなかったがそのひと言で話題を切り、口の端っこをきゅっと上げて、おれの顔を見た。不安がる人をなだめたり、繰り言を言う人をいなしたりする、仕事用の笑顔だ。おれは湯呑に目を落とし、残りの酒を飲んだ。そのあとは、おれは埼玉の豆腐が入ったラーメンのこととか、あっちの外食事情について報告し、ナツメは最近ライブで見た新しいバンドのことや、職場で仲良くしている後輩の女の子の話をした。


 三年経っても、とくにかわりばえのない会話だった。

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