3.愛の告白の話
夏、ということで僕は海にいる。この季節はすきじゃない。暑くてうるさいからだ。サマーシーズンの到来は、僕にとって、一年間におけるうんざりする日々の始まりを意味していた。もちろん、例年であれば、僕は冷房のきいた図書館なんかで一日を過ごすんだけれども、僕はいま海にいる。半袖短パンから突き出た僕の枯れ木みたいな頼りない手足が、夏の激しい日差しに焼かれていた。日焼け止めは塗ったけど、少し心配になる。僕はここに来たことを後悔しつつあった。
夏休みが始まる前、僕は同じクラスの坂本くんに突然声をかけられた。坂本君のおじさんが隣町の海浜公園で海の家を開いているらしいのだが、そこでアルバイトをして欲しいのだと、彼は言った。繁忙期のなか、三日間だけという条件。給料も悪くない。僕も将来的にはどうしようもない社会のルールのせいで働くことになるので、この時期に前もって予行練習みたいなことをしておいてもいいなと考えたのが運のつきだった。
僕を待ち受けていたのは想像を絶するほどの激務だった。労働にかんするあれやこれやの法及び未成年者にかんするあれやこれやの法を完全に無視した純粋な契約と資本主義の生み出す悪夢が僕を苦しめた。破滅的なほどの重量のおぼんに乗せられたいくつもの料理たちを、僕は人間には許されない速度でお客さんに提供しなくてはならなかった。開放的な空間を気取ってはいるが空調設備が皆無である粗野な海の家には夏の熱と酒の匂いとたばこの煙、そして人間の声に満たされていた。その悪環境を僕は右往左往する。僕がその環境ゆえに十分に脳を働かせられずミスを発生させると、雇用主である坂本君のおじさんは僕を憐れむような目つきで刺した。同じく働く坂本君は、筋肉質で小麦色に日焼けした腕をタンクトップのない袖口から突き出し、僕の肩をスキンシップの域を超えた威力で殴打して言う。
「ドンマイ! コウくん! 気にしないでばりばりやってこうぜ!!!!」
人間性の合わない同僚。たくさんの知らないひとたち。肉体労働。野菜と肉がたくさん盛り込まれた、高カロリーな焼きそばのまかない。それらすべては僕にとってはストレスだった。
働くには、環境が、悪すぎる。
――ここからはバイト初日が終わった日の夜の、僕と高野さんの電話
『坂本くんにコウくんのこと紹介したのはわたしなんだよねー』
「……紹介はされてないよ。坂本くんはひとりで僕のところにきたんだし」
『え……? そういうの紹介って言わない?』
「いわないと思うけど」
『そう。まあいいや。とにかく夏休みに暇そうにしてるコウくんのことを彼に教えたのはわたしなんだよ。感謝してね』
「……」
『で、どう? バイト。 けっこう楽しくやれてるって聞いたんだけど』
「楽しくやれてる? 誰がそう言ったの?」
『坂本くんだよ。わたしコウくんが心配でもうたまんないんだから』
「心配ってなにさ」
『コウくんはディスコミュニケーションの見本みたいなひとだから、もしかしてバイト先でいじめられたりしてるんじゃないかなってさ』
「よけいなおせわだよ。ディスコミュニケーションなんて、カッコつけた言葉使ってさ……」
『コミュ障で陰キャかつ社会不適合者一歩手前のコウくんのことが、心配で心配で夜も眠れないの』
「……」
『で、聞きたいんだけど、坂本くんって彼女いそう?』
「知らないよ……」
二日目。
「おっしゃコウくん!! 今日もバリバリ働いていこーぜ!」
坂本くんは元気いっぱいの笑顔で言った。白い歯と焼けた顔のコントラストが著しくまぶしい。
僕と坂本くんは、朝に駅前で待ち合わせて職場へ向かった。土曜日の朝十時過ぎの電車はほどほどに込んでいて、僕はすでに人酔いの症状に悩まされ始めていた。車窓からの景色に目を溶け込まして、僕は何とかそれに耐えている。
「いやー、アチーな。今日は昨日よりも暑くなるらしいぜ。ちゃんとポカリ飲んどけよ」
「……うん」
「知ってるか? 水だけじゃダメなんだ。水だけがぶがぶ飲んでても、ミネラル……塩分がないと熱中症になっちまう。だからアクエリとかポカリとかを飲んどかないと、そのうちぶっ倒れるらしい。いろはすはただの水だからダメだぜ。それにあれは、なんかボトルがペコペコだし……。やっぱ安いのはダメだ。ちょっと高い奴じゃないとな。つまり水じゃないやつ、スポドリな……」
「……わかった」
「いやー。でも意外だったよ。まずコウくんがオッケーしてくれるとは思わなかった。コウくんわりと一匹狼だろ? 最近は高野とか石黒とかとも話すみたいだけど、春のころはマジで全然誰とも話さなかったもんなぁ。高野がコウくんのこと教えてくれたときはゼッテー無理だと思ったもん。そもそも話しかけても無視されると思ってたし」
「……そんなことないよ」
「だよな。話してみるとイイヤツなのはわかるよ。コウくんはいろいろビビってるだけだ。ほんとはもっといろいろうまくやれるやつだと俺は思う」
「……」
僕が沈黙すると、坂本くんは少し気まずそうな顔をして、それをごまかすように快活な笑顔を噴き出して言う。
「ま、今日もバリバリやってこうや。昼飯はカレーだってさ。おじさんが言ってた」
僕は窓から見え始めた海の端っこを見つめながら、頷いた。
坂本くんの言うように、まかないで出された昼食はカレーライスだった。カレー用の深皿に山々と白ごはんが詰め込まれて、そこになみなみとカレーが注ぎ込まれる。
おじさんは坂本くんによそった分とまったく同じだけの量を僕の皿にいれて出してきた。僕が拒絶する間もなく、その食事は僕の取り分として決定されてしまった。
僕はマナーとして、それを全部食べ切ることになった。半分を過ぎたところで胃が痛み始めたけれど、にこにこと僕をみつめるおじさんと目が合うたびに、謎の使命感に突き動かされた。全部食べ切ったときには、もうおじさんは仕事場に戻っていて、坂本くんが僕のとなりでラムネの瓶をあおっていた。
「おお。食い切れたんだな。無理だったら残りもらおうかなって思ってたんだけど」
坂本くんは前髪をかきあげた。整った眉毛の上に額がざくっと広がって、それから、髪の毛が戻ってくる。日によく焼けた首元は、うっすらと汗ばんでいた。
「飲む?」坂本くんが新しいラムネを一つ僕に差し出した。僕は断った。彼は笑った。「まぁ今は無理だよな。冷やしておいとくから、あとで飲めばいいよ」
「ほんとあっちいな」坂本くんは言った。
「そうだね」僕は返した。
お客がいちばんたくさんやってくる昼時を過ぎたころだった。正午を回って、太陽が海辺をもっとも暑く燃え上がらせる時間でもあった。僕らは海の家の裏手のひさしの下で、呆然と空気の温度を味わっていた。おじさんのラジカセから流れる店のBGMが、小さく聴こえていた。僕の知らない音楽だった。でもその音楽は、この空気と一緒に僕の肌に染み込みつつあった。
僕は坂本くんにお礼を言おうと思った。声を出そうとしていたら、後ろからおじさんの呼ぶ声がかかって、彼はさっと立ち上がった。僕らはまた仕事に戻らなくてはならなかった。そうして僕は、その場では、彼に話しかけそびれてしまった。
その日は坂本くんとは帰らなかった。夕暮れをしばらく眺めていると、あっというまに炎の塊は海に沈んでいって、暗いブルーと名残りの赤が空を魔術的な色に染め上げた。
僕は彼にてきとうな理由を言って、海辺に残った。
「じゃあまた明日な」彼は昨日と同じように言って、僕に手を振った。僕も手を挙げてこたえた。僕らは明日もここで一緒に働くだろう。バイトの最終日である海の日は例年もっとも忙しくなる日だとおじさんが言っていた。僕は最後まで、彼らとここで働くつもりだった。
海の家も閉まって、おじさんは家に帰っていった。浜辺にはまばらに人が残っていたけど、すぐにそのひとたちもどこかに消えていった。
この海にはそういう雰囲気がある。昼間は誰も気づかない。暑くて、眩しい、よくある海。でも陽が落ちると、すっかり様子は変わってしまう。さっきまで自分がここで遊んでいたとはとても思えなくなる。それは海岸線の形状が生み出す光の具合の問題かもしれないし、昼夜の移り変わりがもたらす気温の変化の問題かもしれない。でも、とにかくその海はびっくりするくらいに気味の悪い夜をそこに現わせる。
僕は砂浜に腰を下ろして、その時間をじっと待っていた。僕以外のひとびとが、その潮のにおいに耐えられなくなってみんないなくなったとき、彼女はやってきた。
彼女には目がたくさんあった。彼女は昨日からそのたくさんの目で僕らのことを追っていた。気づいていたのは僕だけだった。僕にはそういう〈縁〉がある。それだけ「見たい」ということなんだろう。たくさんの瞳がぎょろぎょろと、あちこち落ち着きなく巡っていた。まるで一つ一つが別のいきものであるかのように動いている。でも僕がこんばんはと声をかけると、それらは統一された流れに沿って、ざざざっと僕を見つめた。
「僕の勘違いじゃなかったとしたら――
「あんたじゃないのよおおおおおおおおおお!!!!!!!!!」
彼女の叫びは僕の耳に激しく反響したあと、黒い波に沈み込んで消えていった。
「だろうね」
「あのこ!! あのこがいいの!!! あの、日焼けが濃くって、ハンサムで、背が高くて、髪の毛が硬くて、シャツが筋肉で盛り上がってて、たくさん食べるし、たくさん笑う、声が大きくて、低いんだけどよく通る声の、おでこがちょっと広い、手が大きくてごつごつしてる、すね毛が全然ない、元気いっぱいの、おちんちんの大きそうな、優しい、あんたみたいなのにも優しい、イケてる、おしゃれな、歯が真っ白の、まじめな、働き者の、頭のいい、面白い、知的な、かわいい、おちゃめな、陽気で、フレンドリィな、男らしい、
僕は気分が悪くなった。吐きそうだ。カレーライスも、ラムネも、全部吐き出してしまいそうなくらいひどい気分になった。
僕がこれまでに結びつけてしまったいくつかの〈縁〉のなかでも、著しく質の悪いものがこれだろう。そう気づくのに時間はかからなかった。
「あのこの名前を教えなさい!!!!!」
「
僕は突発的に嘘を言った。
「れんたろう……? ああ……彼はれんたろうっていうのね……。れんたろう。れんたろう。れんたろう……」
彼女は身もだえして、石黒の名前を連呼した。気持ち悪い光景だった。彼女のたくさんの目玉一つ一つが、恍惚の白目を剥いてふるえる。そのうちのいくつかは、うっすらと涙さえ浮かべている。本物の石黒廉太郎には悪いことをしたかもしれない。僕は少し後悔した。
「あんた、明日れんたろうに私を紹介しなさい」
悪い冗談にしか思えなかった。石黒を紹介するにしても、坂本くんを紹介するにしてもだ。そんな〈縁〉は認められない。僕はそんなものをつなぎ合わせたいとは、みじんも思わない。
「いやだ」
僕が断ると、彼女は絶叫した。全部の目玉からだくだくと涙があふれだしていた。
――なぜこんなことが起こるの? こんな理不尽が許されていいの? 私に限って、こんな残酷で勝手な不都合があてがわれるなんて、信じられない! とでも言いたげな絶叫だった。
彼女は一息で全開の叫びを打ち上げた後、大きく息を吸い込んでもう一度叫んだ。同じことをまたやって、飽き足らずまたそれをやった。何度もやった。
僕は彼女が満足するまで待った。満足なんか決してしないだろうけど、とにかく待った。彼女は人間だから、僕は待たなくてはならなかった。
叫びは突然終わった。そのあとには、今にも僕をたたき殺そうとしている無数の視線があるだけだった。僕は言った。
「君の、その……恋愛感情?みたいなものを邪魔するようで悪いけど、彼を君に紹介するわけにはいかないんだよ。それはどうしようもないことなんだ」
彼女は歯を剥きだし、唾を飛ばして怒鳴った。
「あんた、さてはれんたろうのこと好きなんでしょう!? だから私に彼を紹介しようとしないんだわ!! 男のくせに男が好きなんだわ!!! 恋敵だからそんな不親切をするんだわ!!! 私の! 私のれんたろうなのに!??」
なんと返すべきかさっぱりわからなかった。ただとにかく気持ち悪く、うんざりするやりとりだった。さっさと全部終わらせたいとまで思った。逃げようかなと考えたけど、ろくでもない結果になりそうだった。でもそれ以外にどうしろというんだろう。考えれば考えるほど、
ぶつぶつと、意味が分からない何かの言葉を夢中でつぶやいていた彼女は、ふとその言葉の連続を止めた。それから、たくさんの目を一斉にぐにゃり歪めて、笑った。
「いいわ。あんたがどれだけれんたろうを私から遠ざけようとしたって、それは無駄なんでしょう? あんたたちは、昨日も来たし、今日も来た。もしかして、明日も来るんじゃないの? あそこの海の家にまたやってくるはずよね。私は海の中からずっと彼を見ていたんだもの……そのくらい分かるわよ……。明日よ。明日の夕暮れ。私の時間と彼の時間が重なるあのわずかな瞬間……、そのときに、私は愛の告白をするわ。そして私たちは結ばれるのよ。あんたなんかおよびじゃない。できそこないのきゅうりみたいな、あんたは、おとなしくしてなさい……。ふふふ。いい気味だわ」
僕はぞっとした。そのことに気づかなかったわけではないのに、彼女の口からそう語られることそれ自体に、猛烈な嫌悪感が生まれた。坂本くんは当然、明日も来る。そして彼女は、彼に愛の告白をする。ごく人間的な行為だ。
僕はまるで負け惜しみのように言った。もしかしたら笑っていたかもしれない。
「それで、断られたら?」
彼女の、大きな、たくさんの、つぶらな瞳たちは、僕をじっとりと捉えて、声をそろえて言った。
――断るわけないじゃない。
そうとだけ言うと、彼女は僕に背を向けて歩き出した。見えなくなるところまでいくと、海の空気はずっと軽くなった。
僕はため息をついた。もう一度ついて、やはり我慢できなくて、さらにもう一度深く息を吐きだした。夜だった。昼間に貯めこまれた熱は、まだ海辺の空気を煮えてたぎらせていた。やっぱり夏は嫌いだ。そう思った。だれもかれも、頭が
僕の手は震えていた。
翌日。朝食をすませた僕は本を読んでいた。窓の外には見事な青空が広がっていた。今日も暑くなりそうだ、と思った。他人事のような気分だった。
坂本くんとの待ち合わせに遅れてはいけないので、そろそろ準備を始めようかなと考えていたとき、携帯電話が鳴りだした。僕はそれをとった。坂本くんだった。
彼は自分が話していることが、まるで信じられないというような声色で、とつとつと語った。海の家が昨夜、不審火によって全焼してしまったこと。当然、今日のアルバイトも中止になるということ。給料は二日分のみが支払われることになるが、おじさんがひどく落ち込んでしまっているので、少し遅れることになるかもしれないということ。
僕はそれにてきとうな相づちを打って応じた。驚くべき箇所には、ふさわしい感嘆符を付け加えた。きっと不自然だったろう。僕はもはや、自分にさえうんざりしていた。昨日の夜から、ずっと続いていたうんざりだった。
そうした必要事項の伝達の終りに、坂本くんは言った。
『ところでさ、ヘンなことを聞くみたいでアレなんだけど、コウくん昨日おれと一緒には帰らなかったよな……』
僕は準備していた答えを述べた。昨日と同じ、でっちあげの理由を彼に教えてあげた。彼はそれで納得できないだろう。でも、これは納得の問題ではなかった。
少なくとも僕にとっては。
坂本くんは、ちいさく、「だよな」と言った。
――それじゃあ。と僕が言って電話を切ろうとしたとき、坂本くんが切り出した。
『コウくんはさ。やっぱ嫌だったのか? バイトも、俺も、嫌いだったのか?』
「まさか」僕はそう答えた。
坂本くんはそれには返事をせずに、電話を切った。僕は携帯をソファの上に放って、深いため息をついた。それから、坂本くんに、バイトに誘ってくれたお礼を結局言えていないことを思い出して、すっかりくたびれてしまった。
あさっての怪談 @isako
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