2.箱の話
僕のすむ町には、揚げパンの移動販売車がやってくる。週に一度、金曜日の午後から酒屋のそばに場所を借りてやってくる。小さなワゴン車を改造して、中でコッペパンを揚げられるようにしている。一つ100円。おいしい。
その揚げパン屋さんが来るのを密かに楽しみにしている人間は多い。僕もそのひとりだった。金曜日の学校が終わると僕はいつもより少しだけ早めに歩いて酒屋に向かう。味は何にしよう? さとう・ココア・抹茶・シナモン……ほかにもいろいろある。その日僕は、はっきり言って浮かれていた。他人からは「無感情」とか「退屈」だとかいう評価をしばしば受けるけども、僕だってこういう小さな喜びを愛する人間なのだ。
そして僕が、揚げパン屋さんだけに許されていたその神聖な場所に見つけたのは、小汚い屋台だった。大八車に少しだけ金をかけたような木造の屋台。誰もくぐることのない暖簾がぶら下がっていてそこには「海外雑貨岡倉」と書かれている。僕は激しい失望を覚えた。できることなら、この屋台を粉々に破壊したいとまで思った。
僕の表情は困惑そのものだった……と自分では思っていたけど、ほかのひとにはそうは見えていなかったらしい。
「あの……すごい顔だけど……」
僕に声をかけたのは、学校の制服を着た女の子だった。僕の学校と同じもの。その女の子は心配そうに(そして少しおびえながら)僕のことを伺っている。
「え……あ、ああ。すみません」
僕は自分のほっぺたを何かの合図のようにごしごし擦った。それで表情は戻ったのだろうか。でもひとがそう指摘したのだから、僕にはそれを訂正する義務があった。
「ここの揚げパン屋さん、今日はお休みみたいだね。残念だなー。私も楽しみにしてたのに……」そう女の子は言った。僕はちょっと困った感じになったけど、そうですね。と小さく返した。
彼女は僕のほうを見ている。僕は何も言わない。彼女がなにかを求めている? 言うまでもない。コミュニケーション。なぜ彼女は僕に話しかけてきたのだろう? 揚げパン屋さんがお休み。残念だ。その思考を僕と共有する必要なんかないはずなのに。僕の表情が不快だったとして、そうならその指摘だけで切り上げればいいのに。彼女はなぜか僕に話しかけてきた。
嫌な間が生まれたので、僕は踵を返して家に帰ろうとした。今日はいい日ではないらしい。嫌なことが重なって起きるということは、その日が加速度的に悪くなることを予兆している。発生すればするほど、嫌な経験が積み重なっていくのだ。
はじめ僕は、それをうまく認識することができなかった。音……。そう、音だ。これは音だ。何かの音がした。たぶん有意味のもの。でもなんだろう。これはなんだろう?
「申し訳ございません。わたくしはいま、あなた方に呼び掛けたのでございます」
こんどはどうやらそんなような声がした。そしてさっきの音が、これと同じものを経てやってきたものだと気づくことができた。
例のオンボロ屋台の前に小さな男がいた。お年寄り、と言ってもいい。背の低い僕よりもはるかに小さいその人はしわくちゃの顔をさらにしわくちゃにして僕のことを、僕と女の子ことを見ていた。
たぶん声の感じからいって、そのおじいさんが僕らに呼び掛けたのは違いないけれど、どうもあの声の感じは人間のものだとは思えなかった。そしておじいさん自身もまた、不気味な雰囲気に包まれたひとだった。ぼろぼろのセーターの上にぼろぼろのジャケット。擦り切れたズボンの裾には、泥とか小さなごみなんかがたくさんくっついていて、とても汚らしい。毒々しいピンクのつっかけサンダルに合わせた穴の開いた灰色の靴下は、悪趣味としか言いようがない。
おじいさんは相変わらず人間らしくない声で続けた。
「わたくしは岡倉と申します。世界中を旅して集めた珍しい品々をこのようにして屋台にまとめて売り歩くことをお仕事にしております。本日はこちらの酒屋さんの軒先をお借りいたしまして商売をやらしていただいております。どうぞお若い方々、少し見ていかれませんか。冷やかしも結構。もしかしたらおもしろいおもちゃがみつかるかも……」
――面白そう! 女の子は嬉しそうに言った。それで僕のほうを見る。僕は嫌だった。さっきのやりとりでへんにくたびれてしまっていたし、この岡倉というひとは、どうも気味悪い。
「さようなら」
僕はそう言って、今度こそ本当に二人に背を向けて歩き出した。背中がちくちくするような感じがした。彼女が僕を見たからといって、僕には僕の都合があるし、そもそも僕が彼女になにか応答する必要はないはずだ。
そんなふうにすごく嫌なことがあって、一週間が経った。
僕は先週の出来事をすっかり忘れて、放課後にまた金曜日の揚げパンを買いに行った。そして酒屋の前まで来て先週の屋台のことを思い出したのだった。なぜあんなに印象深かった出来事を忘れていられたのか不思議でたまらない。あんなに嫌なことはしばらくひきずってもおかしくないものなのに、僕は愚かにも全部すっかり忘れて、この場にやってくるまでまったく普段の気分で揚げパンを買いに来ている。
その日は、揚げパン屋さんも屋台も来ていなかった。僕は揚げパンなんかのことよりも、あの気味悪いおじいさんと、僕に話しかけてきた女の子のことが気になっていた。どちらにももう会いたくなかったけど、僕はどちらにもふたたび会うことになるような気がした。それはとくに、あのおじいさんがそうさせるのではないだろうかというふうに感じられた。
予感が先にあたったのは女の子のほうだった。彼女は僕と同じようにここにやってきていた。前とは違って、学校帰りの制服ではなく、私物のジャージ姿でやってきていた。
もう彼女は見た目に気を使っている様子ではなかった。前に見たときにはそういう印象はなかったのに、今は、なんだか危なっかしいというか不安定な感じを見る人に与えさせる雰囲気をしていた。それに体調不良を起こしているのか、顔色がひどく悪い。
彼女が僕に気付いた。僕を珍しそうに眺めると気味悪く笑った。あのおじいさんによく似た笑い方だった。
「ああ。このあいだの……。来たんだ。やっぱり。岡倉さんも言ってたもんね。あなた〈縁〉があるのよ。〈縁〉があるから、嫌でもここに来ちゃうんだ」
「縁? よくわかんないけど、大丈夫なの? すごくつらそうだけど」
「つらいにきまってるでしょ!!」
彼女が叫んだ。恐ろしい形相だった。
「あのひとが集めた〈縁〉を私が半分引き受けたんだから!! 『いい〈縁〉もある』なんて大嘘! あいつは詐欺師! あの日から私の周りはおばけだらけ!!! 私の人生はめちゃくちゃだ!!」
僕には、彼女が何の話をしているのかわからなかった。ただ彼女が、激しくあの男を憎んでいるということだけが伝わってきた。
「返品だ……返品・返品・返品……。こんな〈箱〉は返品してやる。こんなの間違ってる……わるいものを買わせるなんて間違っている……」
ぎぃっ、と何かが軋む音がした。僕らはその音が何の音か知っていた。規則正しく一定の間隔で鳴り響くその音は少しずつ大きくなっていく。僕は背中に冷たい汗が流れるのを感じた。女の子の表情は硬く重いものになっていく。憤然とした感情の発露は、少しずつ緊張と恐怖がないまぜになったものになる。対決の表情だった。
岡倉さんは、ゆっくりと屋台を
「いやはや、先週ぶりですなお二人とも。お元気にあられたでしょうか。ああ。高野さんはそのご様子ではよき〈縁〉にはまだ巡り合えておられないようですな。しかし〈縁〉はそもそも、運命のめぐりあわせ、ひととひと、ものとひととのつながりを言葉の世界に落とし込めたものでしかありませんゆえ……ま、気長に待たれるのがよろしい」
そのように、岡倉さんは実に楽しそうに言った。僕は、彼と僕とのいる場所の違いを思い知った。このひとはいまここにあることをよく楽しんでいる。……いいおもちゃが見つかる…… いつか彼の言った言葉を思い出した。とことん気味が悪い。そう思った。
女の子――高野さんというらしい――は、恐る恐る一歩を踏み出す。あとは虚ろな勢いがつくのか足取りは速くなっていく。でもその軽さはとても心もとないものだった。こんな軽さじゃ岡倉さんには勝てないだろう。そもそも、彼は勝つとか負けるとかそういうところにいない。彼はただ楽しもうとしているんだ。
「返品します」高野さんが言った。
「承ります」岡倉さんが言った。
高野さんは一瞬面食らったように口を尖らせるけど、すぐにジャージのポッケに手を突っ込んでそれを岡倉さんに突きつける。
それは箱だった。小さな箱。高野さんが片手で持っているのを見るところ、そんなに重いものではないらしい。金属的だけど、どういう風に成型されたのかちょっと思いつかない不思議な紋様がたくさん施されている。いわゆる宝箱型だった。半分円柱の蓋がぱかりと開くかたち。
岡倉さんはそれを受け取って、いとおしそうに眺める。うっとりとして表情。僕にはそんなに美しいものには見えない。ひととおり堪能すると、彼は言って渡す。
「はい。三十円……」
高野さんがその手を払いのける。小さな鈍いきらめきが、ちりちりと音を立てて地面に転がっていった。
「違う! そうじゃないでしょ! 〈縁〉なんだってば……! 私にまとわりついたこの〈縁〉をさっさとなんとかしなさいよ」
「ああ。そういうことでしたか。しかし先ほども申しましたよう、〈縁〉というものは運命の巡りあわせのことであって、そう簡単に切ったりできるものではないのですな……。同じことは先週にも説明させていただいたはずでしたが……」岡倉さんは嬉しそうだ。
――うるさぁああい! 高野さんが小さな体から呼吸を爆発させた。
――この箱を開けてから、あちこちで気味悪いことが起きてるの! ずっと誰かのひそひそ笑いが聞こえる! 道を歩けば後ろ髪を引っ張られる! 振り向いても誰もいない! トイレに入ったら、誰かがずっと扉をノックし続ける! 何でもない隙間にちょっと目をむけたら、こっちを見てる目がある! イヤホンをつけたら、どんな音楽を流したって、聞こえてくるのは「私」が誰かにいじめられて泣いてる声! 眠ったら信じられないような悪夢に必ずうなされる! なにが〈縁〉! なにが〈縁の箱〉よ! こんなくだらないいたずらが許されるわけがない!!
岡倉さんは、まるで大好きな女の子とお話ができて嬉しくてたまらない男の子のような、あるいは素敵なお洋服を与えられて鏡に映る自分に夢中になる女の子のような顔で言った。
「す、す、素晴らしい。たかだか一週間でそれだけの〈縁〉を集められるとは……! 高野さん。もっとです。もっとありますでしょう。恐るべき〈縁〉がもっとあるはずです。あなたと〈虫〉は相性がいいらしい。わたくしもずいぶんと見てきたが、こんなに進みが早い子は初めてだ!」
「虫……?」高野さんが聞き返す。
「ええ。虫です。この箱に入っていたのは虫です。あなたが開けたから、あなたの中に這入っていきました。〈
その語りを聞くにつれて、高野さんの顔はまっさおになっていった。う、うう、うわわあ、と唸り、彼女は体中を掻きむしった。そしてなにか体に張り付いているらしいものをばしばしと払い落とし始める。そして悲鳴。もうそれは意味を持たない叫びだった。僕はその叫びに身を震わせた。僕は何を見ているんだろう?
高野さんはがくりと膝をついてうなだれた。線が切れたようだった。彼女を吊っていた糸が切れたようだった。なにかが彼女をいまここまで立たせていたけども、それはもうできなくなった。死んだわけじゃない。でも、もしかしたら、もっとひどいものかもしれない。
女の子はうなだれたまま、ポケットに手を忍ばせた。僕にはその動きが見えていた。岡倉さんにもたぶん、見えている。
彼女は小さな果物ナイフを取り出した。プラスチックの鞘を抜いてからりと地面に落とす。彼女の右手はその刃をしっかりと保持していた。
彼女はそれをじっと見つめた。使いあぐねているようだった。これをどうつかうべきか、わからないそういう表情だった。不思議そうに刃物しばらく見つめて、それを岡倉さんに向けた。岡倉さんは相変わらずニコニコしている。まだまだおもちゃの可能性を信じている。
高野さんは手首を返して、刃先を自分に向けた。両手でしっかりとナイフの持ち手を固定すると、勢いよく息を吸い込んだ。過剰な負荷は人間をしかるべき場所に追い込んだ。
岡倉さんが驚くべき機敏さで駆け出した。高野さんが自分の喉を貫く前に、彼は彼女からナイフをもぎ取る。そしてどこからか取り出した包みを開いて、その中にあった粉の塊を息で吹いた。彼女はそれを吸い込むと、力なくその場に倒れた。あっというまの出来事で、僕はなんにもできなかった。
「ふぅ……。危ないところでした……。〈縁の虫〉は宿主が死ぬと同時に死んでしまいますから。こうなる前に、回収しなくてはならないのです。まさか高野さんがここまで早く虫を育ててくれることになるとは思いませんでした。いや、わたくしもまだまだ未熟。一生勉強でございます」
岡倉さんはそういうと、例の〈箱〉を倒れた女の子の鼻に近づけて、ぱかりと蓋を開けた。意識のない高野さんの鼻から、白くて細長いものがするすると出てきて、〈箱〉の中に収まっていく。それの
〈虫〉が全部〈箱〉に収まると、岡倉さんは丁寧に箱を閉じた。それを屋台に積まれたがらくたの一つに加えると岡倉さんは僕のほうを見た。満を持して。
「さぁ。あなたも見ていかれますか。面白いものがほんとうにたくさんございます。どれでも一つ三十円。ひやかしでも結構。いかがです?」
僕は答えた。
「いりません」
ここから立ち去ろうとした。でも一つだけ気になって、聞いてみることにした。
「ひとつ三十円……。なぜそんなに安いんですか」
僕は自分のこの愚かな質問を、後になって悔いた。訊くべきではなかったし、想像すればすぐにたどり着くような答えしか返ってこなかったからだ。
岡倉さんは丁寧に答えた。
――それはもちろん、こどもでも買える値段だからです。
***
それからまた一週間ほどが経って、僕の生活にはいくつかのちょっとした変化が現れる。
一つ。高野さんと付き合いが生まれたこと。高野さんは驚くべきことの僕のクラスメイトだった。復帰した高野さんは、本当にたまに学校で僕に話しかけたり、挨拶をするようになった。ちょっと面倒だけど、礼儀を欠くわけにはいかないので僕は応答している。
そしてもう一つ。僕は奇妙な、首をかしげる出来事にであうようになった。
例えば、おかしな「聞き間違え」や「見間違え」(鏡の中にだけ映り込む人影や、自分以外誰もいないはず部屋に響く呪詛は勘違いであるべきだろう)が起きるようになった。また特定の建物や場所、人物が無性に耐え難いものになったり(人物の場合それは法則も脈絡もないものだけど、建物や場所となると、それはたいがい、墓場とか病院とかいった空間が当てはまった)もした。高野さんに聞いてみても、彼女にはもうそういった「奇妙な」ことは起きていないらしい。
あれら金曜日の出来事のことを振り返ると、僕はいつも〈縁〉というものについての誰かの考えを思い出す。……運命のめぐりあわせ、ひととひと、ものとひととのつながりを、簡単に切ったりはできない。
たまに、忘れられないあの、木車のきしむ音が聞こえたりするけども、それもまた聞き間違いのはずだ。そういうことにしている。
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