【お題短編】母の海と罪

紫上夏比瑚(しじょう・なつひこ)

母の海と罪(短編・一話完結)

「隣に、座ってもよろしいですか?」

 呼びかけられた声に、葵子あおこがぼんやりと見上げると、抜けるような青空を背後に背負って、無精髭のくたびれた中年男の顔が自分を見下ろしていた。眼球があるか疑わしいほどの細い目は、どこか気弱そうで温和な男の気性を表していたが、肌は浅黒く、ネクタイとしわくちゃのYシャツの下に隠された筋肉は引き締まっているように思える。人生の最後に、こんな男と2人きりで過ごすのも悪くない、と思い、葵子は涼やかに、「どうぞ」と言った。

「やあ、有り難い。最寄りの駅からもずいぶんと歩かされたが、どうやらここが一番眺めのいい場所のようだ」

 男は大きな口をあけて笑いながら、大股開きでコンクリート仕立ての地面に座る。

 或る夏の日。じりじりと空から降り注ぐ太陽の熱を受けて、大地は葵子と男の尻を容赦なく焦がすが、それに相反するように、美しい海風が2人の間を吹き抜けていった。眼の前には、広大な大海原が広がり、空の青空を映してきらきらと輝いている。真夏のシーズン真っ最中であるというのに、視界には人っ子一人いない。立ち並ぶ廃屋の看板を見るに、昔は賑やかな海水浴場だったのかもしれないが、今は寂れて、誰からも見捨てられた漁業の町なのだ。

「――その、青いワンピース」

「え?」

 男の口から、唐突に似つかわしくない単語が聞こえて、葵子は思わず聞き返す。

「ああ、いや。気を悪くせんといてください。実は来週、私の娘が誕生日を迎えるんですわ。にはしきりに、真っ青なワンピースが欲しい、とせがまれていまして……。しかし私はほら、こんな中年ですから。娘の欲しがるワンピースなんて、どこに売っているのやら見当もつかない」

 男は葵子の黒い瞳を、覗き込むように聞いてくる。

「その、あなたの、青空のように真っ青なワンピース。吸い込まれそうに青く、海の底のように美しい。いいえ、うちの娘はあなたほど美人じゃあありませんがね……その、どこで売っていたか教えちゃあもらえませんか」

「ああ。これは……」

 ふい、と葵子は自分のワンピースのすそをつまみあげ、笑う。自分のストレートな長い黒髪が、白い鎖骨の肌から青いワンピースの肩まで流れるような様をつくっていて、我ながら人魚のようだな、と思ったからだ。愛しい人に想いを告げれば、泡になって消えてしまう、悲しい御伽噺の上の幻想生物。

「ごめんなさい。この服はもともと白かったのだけれど……私、白は嫌いだから。自分で青く染めてしまったの」

 どこにも売っていない服。どこにも居場所を持てない私。

「そう、ですか……」

 何かを思ったのか、男はまた海を見て、ぼりぼりと頭をかく。

「いや、こちらこそ突然不躾なお願いをして申し訳ない。気を悪くせんといてくださいね。実は娘は来週、二十四になるんですが、同時に私の後輩と入籍することが決まりましてね。生まれてからこのかた、ずいぶん手を焼いた娘ですが、嫁に行くとなるとずいぶん寂しい気持ちになっちまいまして。ははは、せめて私の手を離れるまでは、自分でできることは何でもしてやりたいと、そう思っちまうんですわ。これが父親の気持ち、ってやつですかなあ」

 ふと、男はタバコの箱を取り出して、一本どうですか、と葵子に薦めてくる。

 葵子はタバコを吸う女だ。無言で受け取り、男の差し出すライターで奉仕を受け、煙を胸いっぱいに吸い込む。美味い。この煙が毒だと思えばこそ、より一層甘美な味に葵子は感じた。

「いやあ、しかし良いところですな、ここは。家々は少なく、時折ぽつぽつと営業している食堂の麦酒ビールは、昼間に飲むと天に昇るような心地さえする。それにしたって人影は一切見当たらないですがね……。私もここに来る用事がなかったら、きっと一生縁はなかったでしょう。思わぬところで、良い土地と巡り会えたものだ。……ええと……」

「葵子です。花の葵に、子どもの子」

「おお、あなたにぴったりな名前ですな。葵子さん、この町へはどういった用向きで?」

「……故郷なんです。私の」

 自然と出た言葉に、葵子は自分で驚く。故郷。そう、この町は自分と母親にとっての、ただひとつの故郷だった。決していい思い出があるわけではなく、むしろ悪い思い出の方が多い。母の酒屋に入り浸る近所の悪い顔の爺たち、幼い自分を汚す匂い……。けれど、毎日当たり前のように嗅いでいた海の香りだけは、葵子を裏切ったことはただの一度だけしかなかった。その一度も、葵子がずいぶん小さな頃のことだったので、もう覚えてはいない。潮風は葵子にとって、ずっと優しく頬をなでてくれる母の手で、波の音は子守唄で、海の青は葵子の……

「それは、さぞかし懐かしいでしょうな」

「ええ。……もう、ずいぶん帰ってはいなかったですから」

 まるで後悔しているような口ぶりだ、と葵子は思った。海を前にすると、過去のことが、水鏡を覗き込むように襲ってくる。

「ところで葵子さん。不躾ついでに、ひとつ私の話に付き合ってくれやしませんかね」

 男は海の地平線の向こうに、甘い煙をくゆらせながら、ゲームの提案でもするように話しかけた。無言の葵子の返答を了承と受け取ったのか、男は勝手に話をする。

「先程話した、娘の……亜花子あかこはね、それはそれは手のかかる奴だった。いいえ、非行とかがあったわけじゃあないんですよ。そんな道に走ろうもんなら、私はあいつを殴ってでも止める、駄目なほうの親だ。そうじゃあない。手がかかるのは……親の望みを一切聞かず、親と同じ職業についちまったことだった。私はね、葵子さん……警視庁捜査一課、通称殺人課の刑事をしているんですわ」

 男の独白に、思わず自分の右肩がぴくりと動くのを感じる。男は青空に無防備な喉をさらして、懺悔でもするように話し続けていた。

「思えば私は、亜花子が幼い頃から、あれにも、あれの母親にもうまく構ってやることができなかった。仕事が忙しいなんて言い訳ですな。実のところ、血の匂いのする現場を走り続ける私から、あれを遠ざけてやりたかった。せっかく私みたいな冴えない男のもとに、女の子として生まれてきてくれたんです。古い男だと笑われても構わない、優しくおしとやかで、世間の汚さなんてこれっぽっちも知らない、純粋な子に育って欲しい、そう願ったっておかしかぁないでしょう。――こら葵子さん、笑わんといてくださいよ、もう。――ところがあれはね、女が勉強なんてしたら嫁の貰い手がと言う私の言葉も聞かず、国立大の薬学部なんかに入っちまった。いや、本音を言えば大学に合格した時はなんてできた娘なんだろう、私にはもったいない子だとすら思いましたがね――話がそれましたな――亜花子は大学を卒業すると、あろうことかとんでもない場所に就職しやがったんですよ。どこだと思いますか。……科捜研(科学捜査研究所)ですわ。事件やら何やらの現場に残った痕跡を調べて、犯人を追い詰める、いわば父親の相棒みたいな職場。お前どういうつもりだ、警察に関わる仕事にだけは就くなとあれだけ言ったはずだ、そう詰め寄る私に、亜花子はけろっとして言ったんですわ。――お父さんがどう言おうと、あたしはお父さんの仕事を誇りに思っている。お父さんと一番近い場所に人生を賭けたいんだ、ってね」

 男の声が、震えていた。涙目にでもなっているのだろうか。つまらない三文芝居でも聞かされているようだ、と葵子は思った。

「父親として、これほど嬉しい言葉はなかった。そりゃ、常に前線を張る私と違って、科捜研は裏方の仕事だから、それほどに危険があるわけじゃあない。だけど、捜査によって有力な証拠をもとに逮捕された犯人が、出所後に逆恨みで職員を襲う事件もないわけじゃなかった。私はそんな恨みを買いやすい現場から、亜花子を遠ざけてやりたかったけど……日々、いきいきと仕事場に向かう亜花子を見ていると、どうしても言えなかった。そうしてそのうち、私の後輩の男と恋仲になって……結婚を決めたんです」

「……おめでとうございます」

 ようやく終わったか。人の幸せな話など、葵子にとっては手の届かない豪華な食事のようなものだ。見ているだけではつまらない、それを食べている人間を見ているだけはもっとつまらない……。

「――いいや。何がめでたしめでたしなもんか」

 急に、男の声が、がくりと低音になる。海の波がふるえる。或る種の予感をたずさえて、嵐の予兆が耳の奥をかき乱す。

「娘は死んだ。――殺されたんだ。何者かに、結婚相手の私の後輩ともどもな!」

 男の声は、クライマックスに向かうように早口になっていった。

「亜花子が愛した男……航平は、それはもう爽やかを絵に描いたような人間で、どこからどう見ても娘を愛し、幸せにしてくれるだろう、申し分ない男だったが、ただひとつ欠点があるとすれば、を連れてきたことだった。……あれは私と彼が追っていた、下町の夫婦殺人事件の現場に入ったことだった。東京でも貧しい街で人には言えない仕事をしていた夫婦は、四畳半一間の粗末な部屋が血の海になるほどにめった刺しにされて殺されていた。……被害者の男の方は、二度目の夫だったらしいが……現場は治安の悪い地域だったから、部屋の様子からも強盗殺人の線で捜査されていた。夫婦には一人娘がいた。名前は知らないが……航平は一人残された娘を優しく慰め、保護してやった。あの時私は娘の顔を見たが……どこか心がざわつくような、不吉な目つきをする女だと思った。それからしばらく経って、あれは私に相談してきたんです。、と」

「私は……私は、その時しっかりと話を聞いてやっていればよかったんです。男のくせに女に惚れられたくらいで泣き言を言うな、もうすぐ私の娘と結婚するんだろうと一笑に付してしまった。私の中にも、不吉な気持ちがあったにも関わらず! ……そうしてある日、書類を届けようと科捜研の職場に向かうと、薬品室から血の匂いがして……扉を開けると……ああ! 血の海の中に! よほど激しく争ったのか、薬品棚は倒れ、瓶は床に散乱しぶちまけられ……それらの薬品の匂いが混ざりあった中に、あの夫婦と同じような血の海の中に、無残に切り裂かれた亜花子と、航平とが、重なり合うように横たわっていたんだ!!」

 びゅうびゅうと、海風はもう容赦をしない。葵子と男の身体を、ばらばらに切り裂かんばかりに荒れ狂っている。

「……はあ、はあ。すみません、取り乱してしまいました。ところで、葵子さん。おそらく犯人と亜花子たちとの乱闘の末に荒れたのだろう現場には、不思議な痕跡が残っていたんですよ。いいえ、この場合はと言ったほうが正しいでしょう。なんだと思いますか」

 すん、とすえたような匂いが漂ってくる気がした。男は、鋭い眼光でこちらをにらみつける。

「薬品ですよ。……。私には専門的な名前はわかりませんが、亜花子には仕事の必須道具だったのでしょうね。あらゆる薬品の瓶が、床にぶちまけられているのにも関わらず、その薬だけは中に入っていたであろう液体の成分がほとんど床や家具からは検出されなかった。だから私は、こう考えたんです。現場を見れば、犯人の服は、2人の返り血を大量に浴びていただろうことが容易に想像できる。そして2人ともみ合ううちに、薬品棚から落ちてきたその液体を浴びたとすれば……犯人は今頃、

 その青いワンピース、よくお似合いですよ。そう言うと、男は、初めて憎悪に満ちた、ぎらりとした眼差しをこちらに向けた。ぞくぞくとした歓喜の歌が、葵子の頭の中に鳴り響く。ついにカーテンコールの幕が開く。葵子の青いワンピースが、彼女を奈落へ運ぶように白い足にまとわりつく。

「実はね、葵子さん。ここに私は一人で来ているんですよ。私がたどり着いた真実は、まだ本庁の誰にも喋っちゃあいない。……どうしてだか、わかりますか」

 わかっている。ああそうだ。言われなくとも、神が天啓を授けるように、葵子はこの男の顔を見た時から、心のどこかで察知し、期待していた。この男はきっと、自分が探し求めた、

 男は、ふわり、と音もなく両手を伸ばし、葵子の細い首筋に手をかけた。男の浅黒い手は太陽の熱にうかされたように熱く、葵子の頸動脈を締め上げる。その快楽は、葵子を容易に幸福な気持ちにさせた。

「……して、やる」

 男の顔が、みるみる歪む。ああ。あのときのあの人と、同じ顔だ……。

「殺してやる! 殺してやるんだ!! お前を! 私の、俺の、おれの大切な、おれと妻が誰よりも幸せであれと願っていた亜花子を、己の欲望で無残に踏みにじったお前を!! 今ここでお前を殺したとて、海と青空しか俺の罪を知らない! ああ、そうだとも! そのために俺はここに来た! 亜花子を殺したお前を、この手で……」

 殺して。

 はっ、と、自分の口が自然と動いてしまったのに葵子が気づくと同時に、男はぎょっと怯えた顔をして飛び退いた。天国を見るような圧迫感から開放され、自分の喉が、ひゅっ、と空に向かって空気を求める。しまった。自分の欲望を、ここで晒すべきではなかった。眼の前の男が、

 しばらくの間、潮風が2人の間を切り裂くように吹きすさぶ。虫の声。鳥の声。ああ、何もかもがうるさい。私達の間にあるのは波の音だけでいい。その他のすべては燃えてしまえばよかったのに。私はこの人に殺されたかった。何よりも高潔で、何よりも私が欲したものを得ていた、この人だからこそ。そうでなければ、なんのために、ここまで来たというのだ。――

「お、前。お前は……」

 眼の前の男は、哀れな子どものように視線を泳がせていたかと思うと、くるり、と背を向けて、足早に走り去っていく。ああ。逃げていく。私の絶望が、私の最後の希望が、海の向こうに走って行く……。

 葵子は、青いワンピースの裾を持って、ふらふらと立ち上がり、うらめしそうに瞼を開いた。

「おくびょうもの」

 あなたも、私の最期に、そばにいてくれないのね。

 葵子は呪いの言葉をつぶやくように、去りゆく男の背中に声を投げかける。その声が届いたのかどうかわからないが、美しい海風が、ざざっ、と潮の音を葵子の耳に運び、その風にさらわれるように男の姿は海の中に入り、そして見えなくなった。

 あとには、地平線に、ちかちかと赤く光る静寂だけが存在している。

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【お題短編】母の海と罪 紫上夏比瑚(しじょう・なつひこ) @alflyla

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