蜜蝋に火を
詠弥つく
恋うこと、乞うこと
週末のお楽しみをめいっぱいに享受するには、平日の地獄が必要だ。
くたくたに疲れ切った金曜の夜。光り輝くネオン、繁華街の駅前がいつもの待ち合わせ場所だ。私と同じようなスーツを着ているというのに、彼女の姿は帰宅中の人波に紛れることなく、凛と存在感を放っていた。
「お待たせ」
ん、と吐息混じりの首肯。黒い鞄を両手から右の肩に移す。隣合った彼女からするりと自然に手が伸びてきて、私の手を握る。足並みを揃える必要が全くないくらいに、私と彼女は同じ背丈だ。駅前のカフェで甘ったるいクリームが山盛りの冷たい珈琲を頼む。出来上がったそれを、ソファに浅く腰掛けて髪を弄る彼女に運んで渡した。自分はただの珈琲。苦いものの方が好きなのだ。
顔を合わせたら恋の話をした時代もあった。もう、臆面もなく愛や恋を語えるような齢でも、関係でもなくなった。仕事の愚痴をぽつぽつと漏らしてしまう私に、ストローを咥えたままの唇が蠱惑的に歪む。声なき悪魔の誘惑。そうと知っていて、柔らかな手を握ってしまうのが愚かしき人の性なのか。私は、彼女の手のぬくもりの恐ろしさを知っているというのに。
言葉なんて、必要なかった。ベッドに入り、彼女を押し倒す。少し癖のある黒く豊かな髪、まっさらなシーツに広がるそれは夜そのもので、照明を反射した光は星に違いなかった。先程までアイシャドウに彩られていた二重の瞼は色を落として尚美しさを損なわず、視線を鼻筋から唇へと動かせば薄い桃色の舌が覗いて唇をなぞる。
それを見て、火を灯されたように体の奥からじくじくと熱が滲んでくる。自分の顔が赤くなっているか青くなっているか判別がつかない。ぐるぐると目が回るような感覚さえあって、落ち着くために息を吸いこもうとして、溢れていた唾液が顎を伝う。そのまま垂れた滴は自分の胸元と彼女の乳房に落ち、汚してしまった、と罪悪感が胸を焦がす。まだ、呼吸は喉に詰まって出てこない。目の前の彼女の唇が嘲るように、いや、慈しむようにだろうか。弧を描いた。白く長い腕が伸びてきて、私の首筋にそっと手が触れる。何がしたいのかと視線だけで問いかける。薄桃のカラーで塗られた指先が、答えを躊躇うように揺れる。重たい沈黙に耐えきれなくなって、くすぐったさに思わず身じろぐと、ゆるやかに手に力が籠った。それは、絞めるには辿り着いていない、まるで量るような仕草。それなのに、だんだんと息を吸うのがむつかしくなる。頭に血が回らなくって、くらくらふわふわしてくる。制止しようと彼女の手に爪を立ててしまうと、叱るように、宥めるようにもう片方の手も首に絡んでくる。ぐ、とついに絞められた。ひゅ、と間抜けに高い音が唇の端から漏れ出た。
くるしい、と震える唇で紡ぐ。音は乗らないけれど、言葉だけは伝わったのか彼女は艶やかに笑んだ。酷く長く感じたけれど、ほんの僅かな時間だったのだろう。首から手が離れる。げほげほと醜く咳き込んでいる間に、彼女の脚を覆っていたストッキングが彼女自身の手で脱がされていく。寝台の下に投げ捨てられたミュールは恐ろしく紅く、リップなど疾うに落としたのに彼女の唇も同じ色をしていた。
来ないの? と問うように
いつか間違いが起こるまで、どちらかの息の根が止まるまで。蜜に蕩かされるような、毒に飽くような、刹那的なのに永遠のような関係は続くのだろう。それでいいのだと彼女は笑う。運命の女はまだ、そこにいる。
蜜蝋に火を 詠弥つく @yomiyatuku
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