Imitation or Substitute

山本アヒコ

1

「ハイ、みんな。この女の子は、今日からみんなのお友達になりますよ。じゃあ、自分でお名前を言えるかな?」

 大人の女性にうながされた幼い子供は、両手を握りしめて顔をしたに向けている。上半身は動かないのに、両足は小刻みに動いていて今にもそのまま走って出て行ってしまいそうに見えた。

 女性はその様子に笑顔を変えることもなく、もう一度優しい声で言う。するとやっとのことで絞り出したような小さな声で、女の子は名前を言葉にした。

「……二若、ララです」


 この施設の名称は『特例教育施設 はなぞの』通常の公立学校とは別に、この地区が運営する教育施設である。

 敷地面積はそれなりに広い。ブランコやすべり台に砂場や鉄棒といったいくつかの遊具が設置され、子供たちが走り回って遊べるほどの空間もある。地面には人口芝生が一面に敷いてあり、転んだ場合に怪我をしないようになっていた。また土で衣服が汚れることもない。他に大小二つの建物が敷地内にあった。建物はどちらも平屋建てだが、天井が高いので二階建てと同じほど高さがある。

 二若ララはその大きいほうの建物にある図書室のすみで、ひとり絵本を読んでいた。

 彼女が座っているのは図書室の一角にある、床より一段高くなったスペースで、スポンジ製の床材が敷いてあってやわらかい。図書室には机と椅子もあるのだが、部屋の中心に近いので落ち着ける場所ではなかった。またすでにそこで数人の子供たちが本を読みながらも、さかんに喋っているので近づくのが怖かったのだ。

「そこでウサギさんは言いました……」

 スポンジが敷かれた場所は正方形で、ララが座った場所はその二辺を部屋の壁にした角になる。その対角に何人もの子供たちが座っていた。彼女と同じ年ごろもいれば、それより幼い子供がいる。

 子供たちに囲まれながら大人の女性が絵本の読み聞かせをしている。この施設にいる大人は、全員ここの職員だ。子供たちの後ろには三人の大人がいて、二人は座って腕に幼い子供を抱いている。唯一の男性は立っていて、優しい顔で子供たちを見守っていた。

 ララはその仲間に入れなかったわけではない。自分から断ったのだ。

 つい最近まで、彼女は違う幼稚園へ通っていた。しかし年長へ上がると同時に引っ越しすることになった。

 もともと人見知りする性格だったこともあり、まったく知らない幼稚園へ行くことは非常に嫌がった。しかし引っ越した場所からは遠すぎたため、もともといた幼稚園に通うことは不可能だった。そのためララはこの場所に来ることになってしまったのだ。

 最初にララが名前を言ってからすでに何時間も経過している。職員の大人が何度も彼女をさそって他の子供たちと遊ばせようとしたのだが、うまくいかなかった。何も言わずその場で黙って下を向いたり、走って逃げたりするだけで終わってしまう。

 そのうちに職員が子供たちを連れられてこの図書室へ来ると、ララはひとりで絵本を読み始めたのだった。

 彼女はひとり離れている。だからといって放置されているわけではない。ちゃんと職員が彼女を見守っている。そういう施設だからだ。

 いつの間にか読み聞かせしている絵本が違うものに変わっていた。子供たちの人数と顔ぶれも、そして職員も。机で喋っていた子供もいなくなっている。かわりにララから見るとかなり年上と思える子供が二人いて本を読んでいた。先ほどまではララと同年代と幼い子供しかいなかったはずだ。

 二人とも女の子だったが、一方の存在感が段違いだった。その子の横顔しかララからは見えなかったが、その容姿が美しい事はよくわかる。わずかに瞼がおりた瞳は年齢に似合わない憂いを帯びていて、大人でも目を引かれるかもしれない。長い黒髪は照明の光を反射して輝き、その滑らかさを想像させる。

 それを何となく見ている彼女に、いつの間にか近くにいた職員が声をかけた。

「絵本、読み終わったかな?」

 ララは黙って首を縦に動かした。職員は笑顔をさらに深める。

「みんな教室に戻ったから、ララちゃんも行こうか」

「絵本、もどしてくる……」

 職員の女性はララが絵本を本棚に戻すのを笑顔で待っていた。それが終わると彼女はララの頭を優しくなでる。

「ちゃんと絵本を戻せてえらいね。それじゃあ行こうね」

 ララの小さな手を優しく握ると、教室に向かう。ララは手を引かれて歩いている間、ずっと床を見ていた。


 この施設では子供をひとりで家に帰すことはない。家族が迎えに来れればいいのだが、それができない家庭のために送迎サービスを行っている。

「みんな乗ってー」

 施設の敷地内に整列した子供たちが、それぞれの車に乗る。車は四台あり、マイクロバスが一台で残りはワゴンタイプだ。それぞれ色が違っている。

「ララちゃんはこっちね」

 緑色のワゴン車に乗る。彼女のほかにも数人乗るが、それぞれ友達と話しているので誰もララに注意を向けない。しかし、そのほうが彼女にとって嬉しい事だった。誰も自分の横に座らなかったことに安堵する。

 最後に職員の女性が二人乗った。ひとりが後部座席に、もうひとりが助手席に。

「みんな乗ったね? じゃあ出発します」

 ハンドルのある運転席は無人のまま、車は動き出す。いまの時代、自動車は全て完全自動運転になっている。人間が手動で運転すれば、道路交通法違反で捕まってしまう。

 振動はほとんどない。エンジン音も聞こえない。かすかに唸るモーターの音が聞こえる。現代ではガソリンエンジンを使用する自動車はクラシックカーのみで、ほぼ全てが電気自動車になっている。それは幼い彼女にとっては当たり前のことで、激しい振動と音と一緒に排気ガスを出す自動車は、彼女の年齢の何倍も前に廃れた技術だった。

 ララが法定速度で流れる光景を窓から見ていると、後ろの席から音楽が聞こえてきた。誰かが自分のデバイスで動画か音楽を再生している。

 わかりやすいテンポと抑揚のはっきりした歌声。ララがたまに視聴する、幼い女の子向けアニメの主題歌。前に通っていた幼稚園の友達が好きだったアニメ。

 視線を窓から前へ戻すと、ただ座席の後ろ側が見えるだけだ。

 体に慣性の法則を感じさせず、なめらかに停車する。助手席にいた職員が降車すると、後部座席のスライドドアが開く。

「ララちゃん、家に着いたよ。一緒に行きましょう」

 ララが両親と住んでいるのは高層マンションの中ほどだ。職員と手をつないでマンションの入り口へ向かう。オートロックの入り口はガラスの自動ドアで閉ざされていたが、二人が近づくと勝手に開いた。

 ララの持っているデバイスや監視カメラによる画像認識、さらには数種類のセンサーによってこのマンションの住人なのかどうか、自動で確認されるからだ。しかし今はララだけではなく、他人である職員が一緒なのになぜドアが開いたのか。『特例教育施設 はなぞの』では職員による送迎サービスがあるため、事前に全職員のデータがマンションを管理するAIに登録されているからだった。

 二人はエレベーターに乗り、自宅ある階へ。廊下に並ぶドアをいくつか通り過ぎ、ひとつのドアの前でララはデバイスを取り出す。指紋認証でデバイスのロックを外し、ドアへ近づけると鍵が外れる音がした。

 ララの両親はともに働いているため、職員が自宅まで彼女を送迎するように頼んでいた。ただし自宅に誰かがいた場合はマンション入り口に着いたところで通知され、入り口まで迎えに行くか自宅のドア前まで連れてきてもらうか選べるようになっている。

 ララにとってかなり高い位置にあるドアノブを、職員が持ってドアを開ける。それに礼も言わずに中へ入った。職員は笑顔を変えることはない。

「また明日ね。ララちゃん、バイバイ」

 笑顔で小さく手を振る職員を無言で見つめる。ゆっくりと閉まるドアは彼女の笑顔を徐々に削り、やがて消えた。


 ララが帰宅してほどなく、インターホンが鳴った。彼女は無表情で壁に設置してある端末へ向かうと、液晶画面に一人の女性の姿が表示されていた。すでに何度も見たことがある人物だ。

「……はい」

「いつもお世話になっています。家事代行サービス『ホットラック』です」

 すぐに自宅ドアが開き、画面に表示されていた女性がやってきた。両手に大きなトートバッグをぶら下げていて、かなり物が入っているようで大きく膨らんでいるが、女性は全く重くなさそうだ。バッグの横に『ホットラック』のロゴがプリントされている。

 女性がララを見つけると笑顔になる。

「こんにちはララちゃん。お腹すいてない?」

「ううん。だいじょうぶ」

「そう。それじゃあお掃除するからね」

 女性はバッグを持ってバスルームへと向かった。まずそちらから掃除をするようだ。

 ララはリビングのソファーに座ると、置いてあるテーブルに向けて手を右に二回振った。するとテーブルの上部にホログラムが浮かび上がる。手のジェスチャーで表示を切り替えた。音声で操作もできるのだがララは手で操作するのを好んだ。

 動画配信サービスを選ぶと、リビングに設置された大型ディスプレイにそれが表示された。しばらくラインナップを眺めたあと、アニメを選択した。今日帰るときに車の中で聞いた曲が主題歌のアニメだ。つい最近まで通っていた幼稚園の友達が好きだったアニメ。


 一時間ほどアニメを観ていたが飽きてしまったので、テレビ番組に変えた。しかしあまり面白くなかったので、絵本を持ってきて読む。もう何度も読んだカメレオンと男の子の話。ララは絵本の内容はそれほど面白いと思わなかったが、カラフルな表紙のカメレオンや不思議な色使いで描かれたいくつものページを眺めるのが好きだった。

 家事代行サービスの女性はすでに掃除を終えていて、今は食事の準備をしている。リビングとキッチンは仕切りが無いので音がよく聞こえた。スープが煮える音と一緒に、洗い物をしている音がしている。どうやら調理は終わったようだ。

「ただいまー」

 玄関から声がすると、ララはソファーから飛び降りるようにして駆け出した。

「ママー!」

「ただいまララー! いい子にしてた?」

 母親はララを抱きしめる。それに負けないぐらいララは母親を抱く手に力をこめた。母親の首元に顔を埋めるとかすかに香水のにおいがする。ララにはどう表現してよいにおいかわからなかったが、いい匂いだと思った。

 母親はララの頭を少し乱暴になでるとリビングへ向かう。腰にララが抱きついているので歩きにくそうだが、そんな娘の様子を見て彼女は笑顔になる。

「おかえりなさい。夕食はできていますよ」

 洗い物をしながら女性が言うと母親はララへ言う。

「お腹減った? 着替えてきたらすぐご飯にしましょ」

「では準備しますね」

 母親が自室で着替えて戻ってくると、すでにテーブルへ二人分の料理が並べられていた。洗い物も終わり、女性は両手に荷物の詰まったバッグをぶら下げている。

「それでは私はこれで」

「ええ。ありがとうね」

 女性は一度頭を下げると出ていく。それを見届けることもなく母親はすでに座っているララへ顔を向ける。

「それじゃあ食べよっか」


 時刻は二十二時をすぎたころ。ララを寝かしつけた母親がリビングへ戻ってくると、父親がそちらへ顔を向けた。ソファーへ座った彼女にビールを注いだグラスを渡す。

「ララは寝たか?」

「ええ。やっぱり人見知りするから最初は疲れたんでしょうね。明日は大丈夫だといいけど」

 母親は眉間にしわを寄せながらグラスを傾ける。思い出すと初めて幼稚園へ行ったときもそうだった。送り届けた母親が仕事へ行こうとすると大声で泣く。それが何日も続いて、やっと何事もなくなったのは一月後だった。

「今日、送迎バスに乗るときも不安そうだったし。また泣くんじゃないかってハラハラしたし」

「ララももう年長だから大丈夫だろ」

 能天気そうな夫につい怒りそうになったが、ビールを飲んで落ち着かせる。

「ララが普通に通えるようになったのは、友達ができてからから。はやく新しい友達ができればいいけど」

 ついため息がでたが、夫はビールを飲みながらテレビ番組を見るだけで視線も向けなかった。


   *****


 子供たちが青空の下、芝生の上を楽しそうに鬼ごっこをしたりボール遊びをしている。今は外遊びの時間だ。どうしても嫌なら建物のなかにいてもいいが、ララは外で遊ぶのが嫌いというわけではない。ただ、知らない人間と遊ぶのが苦手なだけだ。

 ララは砂場でひとり、プラスチックのシャベルとバケツで砂山を作っていた。それにいくつかの小さな穴をつくる。これは窓だ。彼女は砂で城を作っていた。

「いらっしゃいませー」

「ケーキひとつください」

 砂場でケーキ屋さんごっこをやっている子供たち。汚れるのもかまわず、砂を水で固めてほとんど饅頭のようなケーキを量産している。

「うわあ、おいしそうだねー」

 子供たちに混ざって遊んでいる大人がひとり。施設の職員である彼女も砂を固めたケーキを手に取る。そして食べるふりをして見せる。

「もぐもぐ、あーおいしい」

 大人が満面の笑みを見せると子供たちも笑う。

「えー、うそだ。食べてないよ」

 突然ごっこ遊びをしていた子供たちとは違うところから声がした。それはひとりの男の子で、両手にゴムボールを持っている。どうやらボール遊びをしていて、転がっていったボールを取りに砂場のほうへ来たようだった。

 突然の闖入者にも職員は笑顔を変えない。

「そんなことないよ。ちゃんと食べたよ。ほら」

 もう一度食べたふりをする。しかし男のは納得しない。

「ちがうー。食べてない」

「もう、あっちいってよー」

「私たちが先生と遊んでるんだからー」

 男の子と女の子たちが言い争いになり、それを職員の女性がなだめる。いつの間にひとりの男性職員が近くにいて、子供たちのケンカを仲裁する。

 もしこのケンカが起きないようにするなら、職員が砂のケーキを本当に食べて見せればよかった。だが人間には砂を食べることは不可能だ。しかし、この施設の職員である彼女は砂を食べることは可能だった。人間ではないからだ。

 彼女の体は全て機械でできたロボットである。さらには『特例教育施設 はなぞの』にいる職員のほぼ全てがロボットだ。これは現代ではとくに珍しいことではない。すでにこれら人間と変わらない姿をしたロボットは、世界中いたるところで稼働し、社会に溶け込んでいるそれを≪hIE≫と呼ぶ。


 二十一世紀のなかばに技術特異点を突破した超高度AIがアメリカで誕生した。その後は各国で超高度AIの開発が加速し、複数の国家が所有することになる。

 そのなかのひとつ、超高度AI≪ヒギンズ≫が作り出したのがhIEの制御言語≪AASC≫だった。これによりhIEの精度は劇的に向上し、あっという間に世界のシェアを席巻する。≪AASC≫は莫大な量の人間の振る舞いからデータを抽出し、人間へふさわしい行動を可能にした。それこそ、幼い子供のための教育機関で職員として働けるほどに。


 子供たちが何十人も遊んでいる。その子供たちと遊ぶ職員たち。その周囲に立って見守っている複数の職員たち。彼ら彼女らは全て人間ではなく≪hIE≫だった。

 人間ではないhIEは画像や音声だけではなく、各種のセンサーで子供たちの様子を常にモニターしている。全てのhIEはクラウドによって制御されているので、この施設にいるhIEは常に同期している状況だ。たとえ一体のhIEが複数の子供を相手にしているように見えても、実際は全てのhIEによって見守られているのに等しい。人間と違い、不注意による事故といったものはありえないのだ。


 ララはまだ言い合いをしている砂場から離れる。あてもなく歩きながら周囲を見れば、設置された遊具で遊ぶ子供たちがいた。ブランコやすべり台で遊ぶ子らから視線を戻すと、鉄棒で遊ぶ子供がいた。

 鉄棒で遊んでいるのは七、八歳ほどの男の子。小学校に通っているはずの年齢なのに、なぜここにいるのか。なぜならこの施設は保育幼稚園と一緒に、小学生のための施設もあるからだった。

 敷地内には大小の建物が二つあり、大きいほうがララが通う幼稚園と保育園がある。小さいほうが小学生のためのものだ。

 だが小学校というわけではない。不登校などで学校に通えない子供のための支援施設である。なので人数は少なく十数人しか小学生はいない。ただし一年生から六年生まで対応しているので、年齢の幅は広かった。

 ララから見ると七、八歳でもかなり年上に感じて少し怖い。近づかないように離れた場所を歩いていると花壇を見つけた。名前はわからないが何種類もの花が咲いている。

 その花壇を座って見れる位置に木製のベンチが置いてあった。ララはそこに座ると花壇を何となく見ていた。

「お花が好き?」

 急に話しかけられて驚いたララは、声も出せず硬直する。顔も動かせないでいると、ゆっくりと近づいてきた足音が隣で止まり、そのままベンチへ座った。少しでも動けば手が触れてしまいそうな近さに緊張がさらに高まる。

「こんにちは。お話するのははじめて、かな? 私は宜野座ウララ。あなたのお名前は?」

 そう言って少女はまだ固まったままでいるララの顔を覗きこんだ。少女のほうが背が高いので、どうしても姿勢が窮屈そうになる。

 急に目の前へ顔がでてきたので驚いたのはもちろんだが、それ以上にその顔の美しさに言葉を無くした。ララがこれまで見た誰よりそのほほ笑みは綺麗だと感じる。

 年齢は十一か十二歳ほど。ララのおよそ二倍になる。さらりと風に揺れる長い髪の毛は見るからに柔らかく、太陽の光で美しい光沢を帯びていた。何より印象的なのは、子供とは思えない独特の雰囲気を持つ瞳だ。それを見てララは彼女を見たことがあるのを思い出す。

「あ、あの……図書、室で……」

 ララが絞り出したかすかな声に、ウララは笑顔を深める。

「よかった覚えていてくれた。あの時ってひとりで絵本読んでたでしょ。だから私のこと知らないかもって心配だったから。ねえ、お名前は?」

「二若、ララです……」

「ララちゃん! 私はウララだからすっごく似てるね。そうだ、ララちゃんはお花好き?」

 ララは小さくうなずく。するとウララは彼女の手を取ると立ち上がった。そのまま引っ張られてとある花壇の前へ連れてこられた。そこには二種類の花が咲いていた。

「きれいでしょ。これライラックとランタナっていう花なの。ララちゃんとウララ。ちょっと名前が似てるでしょ?」

 一文字しか合っていないが、とても楽しそうなウララの笑顔を見ていると、自然にララの顔にも笑みが浮かんだ。


 その日もララがマンションへ帰ると一人きりだった。しばらくしていつもと同じ家事代行サービスの女性がやってくる。

「こんにちはララちゃん」

 いつもはそこで何も言わないララだが、今日は違った。

「あのね、おともだちができたの……」

 恥ずかしそうにうつむいているララに、女性は笑顔を浮かべる。

「そのお友達の名前は?」

「ウララちゃん」

「そう。お母さんとお父さんにも教えてあげましょうね」


   *****


 雲は多いが天気予報によると降水確率は十パーセント。太陽も見えているのでまず雨は降らないだろう。

 街路樹が植えられた歩道を多くの子供たちと十人ほどの大人が歩いている。そのなかにララの姿もあった。

 ララたちはこれから近所にある公園まで歩いていく。週に何度かある散歩の時間だからだ。これは以前通っていた幼稚園でも行われていた。

 子供たちは列をつくり、その前後と中央にそれぞれ大人の職員が引率をしている。

「ララちゃんはあの公園に行ったことなかったよね。楽しみでしょ」

「うん」

 ララは隣で手をつないで歩いているウララを見上げ、笑顔でうなずいた。

 普段は幼稚園の子供たちだけで行っている散歩に、なぜウララがいるのかといえば、ララが彼女と一緒に行きたいと職員に頼んだからだ。

 これは特別な出来事ではない。施設に通う小学生の多くは不登校など問題を抱えている。幼い子供たちと接することで改善に向かうこともあるので、定期的にこのような事は行われていた。

 先頭を歩く職員が道を曲がると、子供たちもそれに続く。すると誰かが声を上げた。

「あれー? 道が違うよ?」

 一人がそう言うと他の子供たちも「道が違う」と言い出した。そのうち声を出すのが面白くなったのか「違う違う」の大合唱になっていく。

 ララは公園へ行くのは初めてなので道がいつものと違うかどうかわからないので、まわりから聞こえる大声に身を縮ませていた。するとウララが優しく頭をなでてくれる。

「大丈夫だよ」

 職員たちがなんとか子供たちを落ち着かせたところでひとりが話はじめる。

「みんな、いつもと道が違うのは、あっちに警察のひとがいるからだよ」

「なんでー?」

「それはね、ちょっと怖い人がいたから。でも大丈夫。もう怖い人は警察が捕まえて連れていったから。だけどまだ警察のひとがいろいろ調べていて、道が通れないの。だから今日はこっちから公園へ行きます。わかったかな?」

 hIEである職員は、常にデータを受け取っている。クラウドからの制御データだけではなく、周辺の地理状況や警察からの事件状況などもだ。警察からの情報があることで現場検証で公園までのルートを変更しなければいけないことが分かり、事件が解決していなければ公園への散歩を中止することが可能だ。

 そしてもしも児童に危険が及ぶことになりそうならば、それにhIEは対処しなければならない。hIEは人間の社会と生活を豊かにするためのツールであるからだ。

 不安そうにしているララの肩をウララは優しく抱きしめる。

「ララちゃん大丈夫だよ。私がいるから」


   *****


 七月となれば完全に夏だ。太陽は容赦なく地上を照り付け、今日も気温は三十度を超えている。しかしララは汗をかくどころか少し涼しいほどだ。

 ここは屋内プールでエアコンも完備されている。プールは二種類あり、水深の浅い幼稚園生と小学生低学年用のものと、水深の深い二十五メートルプールがあった。浅いプールでは多くの子供たちが泳いでいるが、二十五メートルプールでは誰も泳いでいない。今の時間は誰も小学生はプールを使用していないかというと、ひとりだけいた。

「ほら、泳ごうよララちゃん」

 ウララだ。プールサイドに膝を抱えて座っているララをプールの中から誘う。長い髪の毛はスイムキャップに収められている。

「……ウララちゃんは足がつくから」

 明らかに周囲の子供たちと体格が違うウララは、浅いプールの底に立っても体が水の上に出ている。泳げないララにとって足が届かないプールは恐怖の対象で、足が届くウララは羨ましい限りだった。

 何度誘っても動かないララに、少しだけ悲しそうにしながらウララはプールから上がると隣に座る。

「ねえ、ララちゃん。もうすぐ小学校でしょ? 小学校でもプールの授業はあるし、その時も泳げなくていいの?」

 ララは無言で首を横に振る。

 二十二世紀の現在、多くの学校は入学時期が九月になっている。これは欧米への留学が一般的になったため、それに合わせるよう強い要望が出たからだった。公立学校の多くは九月から入学になっているが、私立では今も四月入学のところもあった。

 ララは公立の小学校へ入学するので、あと二ヶ月後には小学生になる。その準備で両親は忙しそうだったが、ララとしては嬉しいことではなかった。

「……ウララちゃんも同じ小学校だったらいいのに……」

 ララの言葉にウララは眉を下げる。

「ごめんね……でもここに遊びに来れば私はいつでもいるから。さあ、泳ぐ練習しよう」

「うん」

 ララが頷くとウララは笑顔を浮かべて手をとり、優しく立ちあがらせた。


 マンションの前でララと母親が送迎バスを待っている。母親はしゃがんで娘と目線を合わせると、口を開いた。

「いい、ララ? 昨日も言ったけど、今日はお父さんもお母さんも帰るのが遅くなるからね。晩御飯はいつものひとが作ってくれるからひとりで食べて。お風呂はお母さんが帰ってから入る。絶対にひとりでは入らないこと。危ないから。わかった」

「うん」

 これが今日の朝に二人がした会話だった。いつもは家事代行サービスの女性が食事を作り終えて洗い物も終わったころに母親は帰ってくるが、まだ帰ってこない。父親の帰りが遅いのはいつもの事だった。

 なのでララは今日はひとりで夕食を食べている。その様子を同じテーブルについた家事代行サービスの女性が見ていた。ララの食事を終えるまでが今日の彼女の仕事だった。ララだけが食事をしていて、彼女は何も食べてはいない。

「ごちそうさまでした」

 ララが小さな手を合わせて言うと、女性が食べ終わった食器を片付ける。子供一人分の食器なのですぐに洗い終わった。

「では、私は帰ります」

 両手にバッグを下げて玄関へ向かうとララもついていく。いつもとは違う行動に、女性が少し不思議そうにすると、ためらいがちにララが言う。

「……下までいっしょに行く」

 自分ひとりだけで部屋に残るのが寂しかったのだろう。少しでもひとりになるのを後回しにしようとララはそう言った。その様子を見て女性は笑顔を見せる。

「それじゃあ一緒に行きましょうか」

 マンションの入り口であるオートロックのガラスドアが開く。女性はララの髪の毛をやさしく手でなでる。

「ララちゃん、また明日」

 女性はマンションからゆっくりと歩いて出て行く。マンションの前は階段とスロープがあり、女性は横に背の低い植物が植えられた階段を下りていく。その背中をじっと見送り、女性が階段を下りきりったところで、急に物陰から男が飛び出した。

 男は帽子を目深にかぶって顔も大きなマスクで隠している。しかしそれよりもララの目を引いたのは、両手に持つ長い野球バットだった。それを男は体を捻り、全身の力で女性の頭に向けて振った。

 ほぼ地面に水平に振られたバットは女性の頭部を的確に打撃し、低い音とともにその体ごと吹き飛ばす。女性の体はアスファルトに倒れこみ、両手に持っていたバッグから中身がばらまかれる。それと同時に何の変哲もないミニバンが停車し、スライドドアが開く。そこから二人、同じように顔を隠した男が出てくる。

「キャアアアアアー!」

 ララの口から大きな悲鳴が飛び出た。静かな夜を切り裂くような声に、男たちは驚いた様子で彼女を見る。

「おい! 抗体ネットワークだといつもこいつ一体だけで出てくるって!」

「知るかよ! いいから逃げるぞ!」

 動かない女性の体を、三人で車の中に担ぎ込むと、ドアを閉めるまえに急発進した。

「どうしましたか!」

 ララの悲鳴を聞いて、マンションの警備員室から男性が飛び出してきた。しかしララにそちらを気にする余裕は無い。

 悲鳴を上げながら地面へまき散らされたバッグの中身と、バットで殴られたときに削り取られた人工皮膚と、それに接着されている人工毛髪の一束を見つめ続けることしかできなかった。


 すでに退社して帰宅の途中であった両親は、事件を知らされると急いでタクシーに乗って自宅へ向かった。両親が自宅へ駆け込むと、ララはリビングのソファーで女性警官と一緒に座っていた。

「よかった無事か」

 父親が胸をなでおろすと、母親は涙を浮かべてララを抱きしめた。ララも必死に両手を伸ばし、母親を強く抱きしめる。

 警察が全員いなくなり、家族三人は同じソファーで身を寄せ合っていた。中心がララで、彼女はすでに眠っている様子だ。その肩を母親が抱いている。

「またhIE襲撃事件か」

「あの事件から増えたとは知ってるけど、まさかこんな近くで……」

 最近起こった超高度AIとhIEに関連する大きな事件後、これまでもあった人間によるhIE襲撃事件の数が急激に上昇した。それは今も沈静化していない。hIEによって仕事を奪われた人間たちによる事件だが、解決策はまだ無かった。

 しばらく言葉もなく黙り込む。

「俺たち二人ともしばらく忙しくて、帰るのが遅くなるだろ? どうするかなあ」

「私かあなたの親にしばらく来てもらうっていう手はあるけど、二人とも実家が遠いし無理よね……」

 良い考えが浮かばずため息をついていると、不意にララが喋る。

「……ウララちゃんといっしょにいる」

「えっ? ウララちゃんって、幼稚園の?」

「でもあれは……」

「ウララちゃんといっしょがいい!」

 ララは母親の胸に顔をうずめると、静かに泣き始めた。hIEとはいえよく知っている女性が目の前で襲われて、幼い子供がショックを受けないはずはない。さらには引っ越しで環境の変化に慣れていなくて、かなりストレスもあっただろう。

 両親は顔を見合わせる。

「……一度、向こうと話し合ってみるか」

「そうね……」


 数日後の休日、ララは両親と一緒にウララの自宅へ行くことになった。移動している車内で、ララはいつになく上機嫌だ。

 自動運転車から降りてその家を見たララは目を大きく見開く。

「大きい」

 実際は家の外見は見えていない。ララたちが立っているのはウララの自宅の入り口である。そこには高く厚い壁と、こちらも大きな見事な蔓草の装飾がなされた鉄製の門だ。それだけでララを驚かせるには十分だった。両親にとっても。

「ララちゃん、いらっしゃい。私の家に遊びに来てくれて嬉しい」

 インターホンを鳴らす必要もなく、ウララの声が聞こえると門が音もなく開き始めた。見えたのはまっすぐ伸びる二車線ほどの緩い登り坂で、綺麗にレンガで舗装されている。その周囲は大小の木々や生け垣が美しく整備されていて、まさに富豪の邸宅といった趣だ。

「ウララちゃん!」

 ララは満面の笑顔でウララに飛びつくと腰に抱きつく。ウララも笑顔で髪の毛をなでる。視線をララから入り口でまだ立っている両親へ向けると、笑顔で小さく会釈した。

「ララちゃんのお父さんとお母さん、はじめまして。宜野座ウララです。ようこそいらっしゃいました」

 まだ家の雰囲気に飲み込まれたままの両親は、曖昧な表情で頭を下げるだけだ。

「ウララちゃん、行こっ」

 ララはウララと手をつなぐと駆け出した。小さく笑いながらウララは同行する。身長差があるのでララが走っていても彼女にとっては早歩きほどだ。

 両親がそれいくらか遅れて歩き出すと、開いた時と同じく無音で門が閉じた。


 ウララの自宅は、敷地面積だけならララの暮らすマンションと同じほど広い。ララには映画やドラマでしか見たことのない家で、壁一面が巨大なガラス製、真っ白な外壁は汚れひとつない。有名なデザイナーが設計したであろうことは、素人でもわかる。

 リビングへ案内されると、ウララの両親が待っていた。年齢は二人とも五十歳代。穏やかな雰囲気を持っていて、緊張していた両親を自然に安心させる。

 テーブルを挟んで対面にそれぞれが座る。ララはウララと離れるのを嫌がったが、両親とウララに優しく言われてソファーへ座る。その感触は明らかに彼女がマンションでいつも使っているソファーとは違っていた。

 hIEがお茶と菓子をテーブルに並べると、大人たちの当たり障りない会話が交わされ、そのうちにララはお茶と菓子を食べ終わり退屈になってきた。ソファーに座って床につかない足をブラブラ揺らしていると、ウララが言った。

「ララちゃん、私の部屋で遊びましょう。ねえ、いいでしょ?」

 ウララが両親に眉を下げて訴えると、父親が顔を向けて笑顔で了承した。

「ああ、もちろんいいよ。これから大人だけでちょっとお話があるからね」

 ララが勢いよく両親へ顔を向けると、こちらも笑顔で頷いた。

「ええ。いってらっしゃい」

「仲良く遊んできなさい」

「うん!」

 ララはソファーから飛び降りると、ウララのもとへ駆け寄る。

「行こう、ララちゃん」

 ウララの部屋は二階あった。まるで絵本にでてくるお城のような、緩く曲がる白い階段を上っている最中、ララはまるでお姫様になったかのような気分だった。天井には大きなシャンデリアまであるので、余計に気分は高まる。

「ここが私の部屋よ」

「うわあ!」

 ウララの部屋はマンションのリビングより広い。天蓋つきの大きなベッドや、統一されたデザインの大きなクローゼットに勉強用らしい机。飾り棚にはウララと両親の写真が多数あった。

「すごーい!」

 歓声をあげてララは広い室内をあちこち駆けまわる。ベッドの柔らかさを確かめたり、クローゼットを開けて中の服を見たりしても、ウララは笑顔で見ているだけだった。

「あ、これ」

 ララはベッドの下から箱を見つけた。それを引きずりだしてみると、中にはいくつもの人形が入っていた。次々と人形を取り出していると、ひとつ気になるものがあった。

 紫色で腰よりも長い髪の毛、フリルが多いドレスのような服、片手には大きな宝石がついたスティックを持っている。ララがよく見ているアニメの主人公である、魔法使いの少女だ。しかし彼女が知っているのは、髪の毛が赤い少女だった。

「うわあ、なつかしいな。それ、私がララちゃんと同じぐらいのころ好きだったアニメのやつだよ。ねえララちゃん、お人形遊びしようか?」

「うん! やりたい!」

 ララは箱の中から遊びに使う人形を探そうと、次々と取り出していく。ウララはそれをとても楽しそうに見ていた。


 大人たちの話し合いの結果、ララは両親が仕事で遅くなるときは、ウララの家で預かってもらうことになった。

 ララの幼稚園の時間が終わるとウララの家の車が迎えに来て、それに乗って一緒に帰る。ウララは小学生なので幼稚園が終わる時間は、本当ならまだ学校の授業が残っているはずだ。しかし『はなぞの』は学習支援施設なので、早退しても問題ではない。

 両親の帰りが遅くないときでも、ララはウララの家によく行くようになった。遊ぶだけではなく勉強を教えてもらったり、ウララの家にはプールもあったので水泳を教えてもらい泳げるようにもなった。


   *****


「人がいっぱいだ。はぐれないように、ちゃんと手をはなさないで」

「うん。わかった」

 ララはつないでいる小さな手に力をこめる。ウララはそれに笑みを深める。

「私のても離さないでね」

 もう片方の手は母親が握っている。実際、そうしないとすぐにはぐれてしまいそうなほど人が多い。ララとその母親、そしてウララは夏祭りに来ていた。

 お盆は過ぎているが暑さはまったく陰りを見せない。太陽はすでに沈んでいるのに、気温は三十度を超えているのではないだろうか。ララも母親も、着ている浴衣の下はかなり汗ばんでいる。同じく浴衣を着ているウララといえば、汗をかいているようには見えず快適そうに微笑んでいた。

「花火に間に合えばいいけど」

 母親がそう愚痴るほど、人々の歩みは遅い。両側にビルが並んだ通りは人で埋め尽くされている。ビルの一階には様々な店舗が入っていて、普段からこの通りは人通りが多い。そのため通りの幅も広くて快適なはずなのだが、今日ばかりは許容範囲を超えた人数が押し寄せてしまっている。この先にある川で花火大会があるため、そこへ行こうと誰もが歩いているからだ。

「ララちゃん、大丈夫?」

「うん。へいき」

 なぜこんな思いまでして花火を見ようとしているかというと、ララの思い出づくりのためだった。もうすぐ九月となり、ララは小学校へ通うようになる。そうするとなかなかウララと会うこともできないので、その前に最後に思い出をという訳だった。

「あっ、おまわりさん」

「押さないでください。走らないでください」

 制服と制帽を身に着けた警察官が二人、通行人に注意を促している。よく観察してみると、群衆の中に一定間隔で警察官が配置されていた。

「警察が多いわね。やっぱりこの前のテロのせい?」

 母親が不安そうに警官を見る。数日前にこの地域から数キロ離れた場所でhIE排斥派によるテロがあった。被害は小規模で死者はいなかったが、負傷者が十数人でてしまった。

 hIE排斥派によるテロは数を増やしていて、規模の大小を問わず毎週のように各地で発生している。そのため街角に立つ警察の姿は珍しい事ではない。

「ララちゃん、飲む?」

 ウララはストローがささったカップを差し出す。両手をウララと母親に塞がれているため、そのままストローをくわえた。

 その瞬間、背後から音が聞こえた。場所は遠いようでかすかに聞こえた程度だったが、人々の多くは足を止めて振り返っている。

「花火かな?」

「でも、場所違うだろ?」

 周囲が騒がしくなっている。繋いだ手に、ララは思わず力が入った。

 急に遠くで悲鳴が聞こえた。誰かがつまずいて転倒しただけのようだが、人々に緊張が走る。ささやき声が大きくなり、それは喧騒の一歩手前まですぐ高まった。

「なに? なに?」「どうした」「やばくない?」「聞こえた?」

 何百もの声は、真夏に叫ぶ蝉の声に等しい。意味をなさない混沌は、周囲に伝播して不安を煽る。そして、先ほどより大きな悲鳴。

「何あれ?」「煙?」「事故か?」「火事だって?」

 不穏な雰囲気が漂い始め、ララもそれに反応して小さく肩を縮める。彼女をなだめるようにウララが体を寄せた。

「ウララちゃん……」

 安心させようと彼女が口を開こうとする前に、決定的なひと言が発せられた。

「テロだ!」

 人々が走り出す。真偽などわからないまま、安全を求めてとにかく走る。男が子供を抱えた女を押しのけ、誰かが地面に落ちたタコ焼きを容器ごと踏みつぶし、誰かが倒れればそれに足をとられた誰かが倒れて連鎖した。

 その濁流に飲まれたのはララたちも例外ではなかった。一瞬でつないでいた手は引き離され、母親の姿は群衆の中へ消えてしまう。

「ママ!」

 片手が痛いほど引っ張られたと思ったら、ウララに強く肩を抱かれていた。

「ララちゃん! こっち!」

「ママが、ママが!」

「大丈夫、すぐに会えるから!」

 ウララは小さな体をしっかり抱いて、人間の濁流を耐え忍ぶ。警察が大声で注意しているが、その程度でパニックが沈静化するはずがない。それどころか混乱は加速するばかりだった。目的地が無いまま群衆はひたすら進む。

 荒れる大河に翻弄される木の葉のように、ララとウララは人々に流されるだけだ。子供二人ではどうすることもできない。しかし奇跡のように二人はビルの側へ流れついた。

「こっち!」

 ウララは細いララの手首を強くつかみ、ビルとビルの隙間にある大人ならばすれ違えないような狭い路地へ逃げ込む。そのまましばらく走ったが、少し広い路地と合流する三差路まできたところでララの限界が来た。足を止めてしゃがみこんでしまう。

「うごけない……」

「ララちゃん、もう大丈夫だから。すぐにお母さんとも……危ない!」

 ウララは急にララの体を抱きしめる。自分の体で彼女を守るために。

 空から何かが高速で落ちてきた。そのままビルの壁を斜めに削りながらアスファルトへ激突する。ビルから削り取られた壁材が落下し、ララは悲鳴をあげる。

「クソが……最近の抗体ネットワークはどうなってんだ。失敗ばかりじゃねえか……」

 男性の声で悪態をつくのは、落下してきた何かだった。立ち上がると人間と同じシルエットをしている。顔はフルフェイスのヘルメットを装着しているので見えない。体にフィットしたレザースーツのようなものを着ているので、体格は中肉中背だとわかる。しかし両手と両足が異様だった。人体とは違う直線で構成された手足と球形の関節部。ところどころにあるスリットからは緑色の光を放つ。男の両手足は機械でできていた。

 男が手足の調子を確かめていると、不意に頭が二人のほうへ向く。ヘルメットで見えないが、ララはその両目に睨まれたように感じてウララの胸元に顔を埋めた。

「ガキが二人、いや片方は……」

 男が急に向きを変えて、頭上を睨む。

「もう追いついてきたか! チッ、こうなりゃガキを人質にでも」

 再び視線をララたちへ向けた瞬間、ウララから表情が抜けた。能面のように無表情となった彼女の瞳が不自然なまでに見開かれ、体が背後へと跳ねた。向かうのは手足が機械でできた男へと。

 子供ではありえないような速度で飛んできたウララに、男は驚く様子もなく右手を突き出す。広げた手が向けられ、腕のスリットが一瞬強い光を放つと、彼女の体は吹き飛ばされた。

 ウララは信じられない速度でビルへ激突し、地面へ崩れ落ちる。ビルの壁には大きなひび割れがあり、その衝撃の強さを明示していた。

「ウララ、ちゃん……」

 ララの呼びかけにも答えない。手足は力なく投げ出されたまま動かない。

 空から再び何かが落ちてくる。高速でほぼ垂直に落下し、地面に激突するかと思われた瞬間、速度を落とすことなく地面と平行へ移動方向を変化させた。進行方向にはヘルメット姿の男。そのまま通り過ぎながら、自分の身長よりも長いブレードを一閃させた。

 振るうブレードの速度は移動で巻き起こる風を凌駕し、叩き割る。それに巻き込まれた男は両腕ごと体を二つに分断された。切断面からは血も臓物もこぼれない。見えるのは金属と電子部品の詰まった体内だ。

「思ったより手間取っちゃったねー。このレッドボックスどこで製造したんだか」

 ブレードの先端で切断した腕を突き刺し、しげしげと観察する。

 男を両断したのは、まだ若い少女とも言える外見をしていた。ただし顔以外は普通ではない。両手の長さは明らかにバランスがおかしい。肘から先が異様に長く、そのまま下に垂らせば地面へ触れそうなほどもある。手指の長さも常人をはるかに超える長さで、それを使って自分の身長よりも長大な金属製のブレードを持っている。

 この少女も両手足が機械化されていた。肩から肘、肘から手首、股関節から膝、膝から足首、それぞれの部分が直角三角形の金属でできた手足が、少女の胴体に繋がっているのはどこかグロテスクに見えた。

 少女であろう存在は、地面へ座り込んだまま動けないララへ視線を向ける。

「ごめんね巻き込んじゃって。怖かっただろうけど、怪我もないし許してよね」

 場違いなほど明るい声。視線を一切動きの無いウララへと向ける。

「あっちはまあ、しょうがなかったから。間に合ったかもしれないけど、人間が人質にされちゃったらまずかったし。AASCに介入して動かしたけど、アレも本望でしょ。このために製造されたんだからさ」

 少女は歯を見せて笑う。


「私たち≪hIE≫は人間の社会のためのツールなんだから」


 ウララは吹き飛ばされたときに、浴衣の前面はほとんど裂けしまっていた。布が無くなり見える部分に肌は見えず、その下に隠されていた白い特殊プラスチックも破壊され、金属と電子部品が見えている。壁に激突した際に左肩が破壊され、分離した腕は薄く地面へ広がる浴衣の袖のそばに転がっていた。


   *****


「それで……ララちゃんと、ウララのことについてでしたね」

「はい。あの、その……ウララちゃんがhIEだと聞いて……」

 ララの両親は気まずそうに中年夫婦をから目をそらす。

 二人はそんな様子に慣れているかのように、悠然と笑みを絶やさない。夫が一口お茶を飲むと口を開く。

「ウララと……亡くなった娘を模したhIEと暮らすようになって、もう十年以上になります。私たちの娘は、ちょうどララちゃんと同じ年ごろで亡くなりました」

 最初は娘と同じ姿をしたhIEと一緒にいるだけで、夫婦の傷は癒された。しかし一年が経過すると、成長しないということにどうしても悲しさと、やりきれなさが募った。

 なので夫婦はAIによって『ウララが順調に成長した姿』を予測させ、hIEの外見をそれに変更した。成長するということは、生活も変化する。幼稚園を卒園すれば、次は小学校だ。だから夫婦はあの施設へウララを通わせた。あそこならば、不登校などの問題がある児童のためのケア要員として、ウララを通わせることが可能だった。一年ごとに体を成長させながら。

「……お二人は、ララちゃんがウララと、hIEとの友人関係に依存してしまわないかというのが不安なのでしょう?」

「そ、それは……」

「ウララはこれまで何人もの人間と、友人関係をつくってきました。幼いころから大人になっても続く友情というのは素晴らしいことです。ですが、そういうことは珍しい」

 ララの両親は話の行方がわからず混乱ぎみだ。

「お二人も子供を育てているのだから理解できると思いますが、子供の成長はとても早い。ついこの前までミルクを飲んでいたと思ったら、喋るようになり歩き走り、泳ぐようにすら。それほどまでに子供の時間というのは瞬く間に変化していく。それは、過去が押し流されていくのと同じことでもあります」

 夫は視線を横に向ける。その先には大きなガラス扉があり、外に広いテラスがある。そこでかつて幼い娘と一緒に時間を過ごした。目を細め、戻らない過去を思う。

「これまでウララと友人になった子供たち、みんなそうです。環境が変わり、会わなくなって一年もすれば記憶が薄れ、二年もすれば何も思い出さない。幼い子供ほどそうです」

 かつて夫婦とウララで出かけたとき、数年前に友達だった少女と街中で再開した。その少女は数人の友達と歩いていて、一瞬ウララへ目を向けた。しかし気にする様子もなく、友人との会話へ戻った。

 ウララはもちろん覚えている。クラウドの中に少女の外見や会話した際のデータが残っているからだ。しかし、もう少女にその記憶は存在しない。

「ララちゃんも、小学校へ入学して一年もすれば記憶が薄れ、二年経過するころには何も思い出さないでしょう。これまでもそうでした」

「そうですか……」

 ララの両親は前例があることで安心した様子だった。

「実は……ウララを、近々手放そうと考えていたのです」

「それは、なぜ?」

「娘が亡くなったのは幼いころで、その成長が楽しみでした。それができないかわりにhIEを成長させることで、悲しみを紛らわせていました。ですが、もう想像できないのです。娘の、成長を」

 妻が夫の肩へ手を置き、それに手を重ねる。

「幼稚園から小学校へ、そこまでは想像できました。ですが思春期をむかえて中学高校、そして大人へ……幼いころ、生まれたばかりのころまで明確に思い出せます。ですが未来となると、そうはいかないのです。ですからウララが今の姿になって、すでに二年です」

 夫婦は肩を寄せ合う。そこには長年にわたって娘を亡くした悲しさと寂しさと、それを共に耐えてきたからこその絆が感じられた。

「かつて娘の思い出は喪失の痛みと悲しみでしかありませんでした。ですが今は、温かくかけがえのない思い出になりました。ララちゃんはウララとの思い出を忘れてしまうでしょう。ですがそれまでは、きっと大切な宝物になるはずです」

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Imitation or Substitute 山本アヒコ @lostoman916

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