中洲の子

オカワダアキナ

中洲の子

 わたしのうちは中洲にあった。川の流れに囲まれていたわけではない。高速道路の高架と国道バイパスの太く激しい流れのあいだにあり、川と川に挟まれた中洲のようだと思っていた。子どもだけで渡らないようにねと母に強くいいきかされていた。たしかに、バイパスは四車線で向こう岸ははるか遠くに見えたし、高架下はつねにうすぐらくコンクリの柱が巨大で、歩道も歩行者用の信号機もなかった。トラックが猛スピードで行き交いうなり声をあげていた。わたしは母のいいつけを守った。こわかったし、信号が変わるまでとても時間がかかるので、中洲の外に出るのはおっくうだった。学校も友だちのうちも中洲のなかでことたりた。


 母と兄とわたし、三人の住まいだった。エメラルドグリーンの古いマンションで外階段だけ青色だった。へんな色だけど、なんとなく「オズの魔法使い」みたいな色で、わたしはちょっと気に入っていた。屋上にはすすけたクリーム色の貯水タンクがあって、宇宙船から落ちてきた救命ボートみたいだと思っていた。だれか中洲に落ちてきて途方に暮れているなら、わたしは歓迎してやるつもりだった。

 父は自衛官で、そのころは遠くの山奥にいた。駐屯地とはだいたい辺鄙なところにあった。小さいころは家族みんなで引っ越したが兄が中学生になってからは別行動だった。わたしたちが住む中洲も米軍の基地と自衛隊の基地からほど近く、いつもヘリコプターや飛行機が飛んでいた。案外やかましくはなかったが、道路がうるさすぎて打ち消し合っていたのかもしれない。あるいは慣れていた。父もこっちに勤めればいいのにと言ったことがあったが、あれはべつものだよと笑われた。

 兄はわたしよりよほどまじめで母の手伝いもよくしたし、約束やきまりごとにきちょうめんなところがあったためだろうか、気がついたら、中洲どころかあまり家から出なくなってしまった。学校にもほとんど行かなくなっていた。

 母やわたしをあまり部屋に入れたがらず、ふすまをほそくあけてごはんをやりとりし、トイレに行き来していた。兄の部屋はだれも掃除できなかったためごみや服でうっそうとしていたはずだ。ちらっと覗くと汗と脂のしめったにおいがした。でもゲーム機とソフト類、CD-Rなんかはきちんと整えられていたのが見えたので、やはり兄はしっかりしていると思った。また、母やわたしがいないときは部屋から出てひとりでのびのび過ごしているようだった。洗い物とか洗濯物を畳むとか、ちょっとやってあることがあり、母はよろこんだ。あたまがいいから歴史や戦争の話に詳しく、漫画の絵を描くのだってうまい。中洲ということばを教えてくれたのだって兄だった。

 だからわたしはあんまり家にいないほうがいいのだろうなと思っていたが、難しかった。そんなにたくさん友だちもいないし学校だって毎日クラブ活動があるわけでもない、兄にすまないなあと思いつつまっすぐ帰った。わたしは外出も外遊びもへただった。中洲には小さい公園とコンビニがあったが、子どもひとりでうろうろするのは中洲の向こうへ渡るのと同じくらい危険な気がしていた。

 マンションの駐車場はわりと好きだった。となりのマンションとのすきまにあり、裏には耳鼻科のビルが背を向けているから三方をコンクリートに囲まれていた。日陰でいつもひんやりしていて、なんとなく守られている気がした。フェンスのそばにはあじさいが植えてあり、ごく小さいベンチもあった。ベンチといっても木製のかんたんなつくりで、学校の授業か何かで作ったものだったろう。マンションの誰かが、ちゃんと捨てるのがめんどうで放り出した。いつのまにかそこにあった。雨ざらしでところどころ塗装が剥げていて、そうして似たようなものも集まるものなのか、あるときからベンチのとなりにパイプいすも置かれるようになった。ベンチは通りから死角になっていたため、わたしはしばしばじっと座った。ゲームをやったり音楽をきいたりした。

 駐車場は、車がいつも同じところをとおるためアスファルトがへこんでおり、雨が降るとあちこち水がたまった。水たまりはしばしば虹色になった。アスファルトの油分が溶け出していたのだろうか。ピンクや黄色、水色のマーブル模様がにじんだ。靴の先でいじると油の虹は崩れたり広がったりした。


 母のパートはクリーニング工場で、しみぬきの職人をやっていた。職人というのは大げさだと思っていたが、じっさい、薬品の組み合わせとか微妙なさじ加減とか、経験やカンによるところが大きいらしかった。ベテランのおばあさんに教わって、ちょっとずつ一人で対応できるものが増えてきたとうれしそうだった。おばあさんのことを師匠と呼んでさえいた。

 師匠は毎週金曜日を休みにしていて、自宅で編み物教室をやっているといった。教室といっても課題や授業があるわけではない、夕方集まっておやつを食べながら編むらしい。棒針編みもかぎ針編みも教えられる、ちょっとだけ糸の染色もやると。

「やってみたい?」

 ある日、母はわたしにたずねた。わたしが学校のクラブ活動で、手芸クラブに入れなかったのをおぼえていたのだろう。定員オーバーだからしかたなかった。父が次どこの部隊に配属になるのかわからなかったり、母にまわってくるしみぬきがてごわいものだったりかんたんなものだったりするように、わたしのすることや持ち場は、わたしの希望だけでは決められないのだと知った。先生が調整し、わたしは第二希望の理科クラブに入っていた。カルメ焼きを作るとかスライムを作るとかそれはそれで楽しかったが、手芸クラブの子たちがミシンや編み棒をじょうずに使っているのは、やはりうらやましかった。

「おばさんやおばあさんが多いけど、中学生の子もひとりいるんだって」

 わからないところは教えるし、集まった人たちでアドバイスしあったりもする。仲良く交流する場でもあるのだと師匠は言ったそうだ。

 そのころわたしはひとりで編み物のまねごとをしていた。図書館で借りた手芸の本を読んでかぎ針と毛糸をいじっていたが、「立ち上がり」とか「引き抜き」とかよくわからなかった。まっすぐ編みたかったのに台形になってしまったり、がちがちに固い編み地ができて途方に暮れたりした。根気もなく、コースターでもなべ敷きでもないような何か、編み目が何段か続いた切れ端をつぎつぎ作ってはそのままになっていた。誰かに教わったら、マフラーとかバッグとか作れるだろうか。編み物の本で見たモチーフ編みにあこがれていた。ほそく淡い夏物の糸は、なんとなくピーターラビットの世界みたいでいいなと思っていた。

「ちょっと遠いけど自転車で行ってもいいし、帰りだけお母さんが迎えに行ってもいいし……」

 編み物教室は中洲の外で、学区外だ。わたしにははるか遠くに思えた。ひとりだけいるという中学生の子も、わたしがいずれ通う中学とはべつの学校だろう。知らない場所と知らない子。とても自由で素敵なことのように思えた。わたしは言った。

「考えておく」

「そうだね、もう梅雨になるから編み物って時期でもないもんね。でも夏から編んだら、冬にはマフラーとかセーターとかできるかもね」

 編み物教室や知らない中学生の女の子、いつか編むマフラーについて、わたしはさまざま想像した。 


 相変わらず兄は外に出たがらなかった。ごはんは食べたり食べなかったりした。母が師匠から教わったという、とうもろこしの入ったかきあげは兄も気に入ったのか、残さず食べた。ふかふかの衣にとうもろこしの黄色い粒がくるまれ、水玉模様のようでかわいかった。枝豆入りも好きだった。兄はひとりのとき、残りをかきあげ丼にしたようで、洗いかごにどんぶりが伏せられていた。

 わたしたちはそれなりに仲のいい家族だったが、ときどきけんかしたり母に叱られたりすることはあった。だいたい、わたしがなかなか風呂に入らないとか学校に提出するプリントをなくしたとかで、わたしがわるかった。

「いまはお父さんがいないんだから、あんたももっとちゃんとして」

 ごめんなさいと言えばそれで済む話なのだが、なぜかうまくできないときがあった。わたしが黙っていると母はすぐ泣くので、うっとうしく思った。そういうとき兄の部屋のふすまはぜったいに開かず、石の壁みたいになっていて、編み物教室の中学生ならこういうときどうするのだろうと思った。すらすらとモチーフを編むだろうか。

 父はちょくちょく電話してくれて、わたしも母もそのようなことをいちいち話したわけではなかったが、そういうものだと思った。昼間、水たまりに虫が飛び込んだりからすがかすめることはあったが、飛行機やヘリコプターが映り込むことはなかったので。

 その日も母とつまらない言い合いになった。わたしは自転車に乗って中洲の外へ行ってみた。

 激しい流れをひとりで渡り、といったって信号機にしたがって横断しただけだが、すごく遠くへ来た気がした。「ゼロヨン族取り締まり路線」という看板が立っていた。ゼロヨン族のことは知らないが、たぶん暴走族のようなものだろうなと思った。

 通り雨に降られ、コンビニで雨宿りした。中洲のなかととくに変わり映えしない眺めだった。もしかしたら編み物教室の師匠や中学生がいるかもしれないと思ったがわかるはずもなかった。あまり長居していると万引きだと思われるだろうかとびくびくし、傘を持っていないんですという顔をしてガムを買った。雨があがるころにはすでに日が暮れかかっていて、バイパスのまんなかに水たまりができていた。中古車屋の明かりが映り、赤や青に揺れていた。車がはねかし、ちぎれてにじんだ。うちの駐車場にも水たまりができているだろうか。

 そうしてマンションに帰り、駐車場の濡れたアスファルトに共用廊下の明かりが映り込んでいるのを見た。ぬらぬら光っていた。エメラルドグリーンの壁は雨で少し濃い色になっているだろうが、夜だから見えなかった。水たまりの油の虹も。

 でも収穫はあった。かがみこんで水たまりに目を凝らしていたからか、ベンチの脚になにか書いてあるのが見えた。名前だ。マジックでぐしゃぐしゃに塗りつぶされていたが、水に濡れてちょっと透けていた。それは兄の名だった。一の二とクラス番号も書かれていた。兄が作り、捨てたベンチだったのか。わたしは兄のことをたのもしく思い、母と夕食を食べた。


 やがてわたしは中学生になり、母はべつのパートを始め、編み物教室には通いそびれた。駐車場でぶらぶらしていなくとも、部活が忙しく、家にいる時間はしぜんに減っていった。


 時間はどんどんながれる。

 何年か前、兄と同い年の男が、ドナウ川の中洲にリベルランドという国を建国した。ゴルニャ・シガという土地で、セルビアとクロアチアの国境地帯にありどちらの領土か決まっていない場所らしい。川と川のあいだ、約七万平方キロメートルの荒れ地だ。リベルランド自由共和国は互いに干渉せずに生きることを基本原則としていると初代大統領のイエドリッチュカ氏は話す。インターネットを通じて三十三万人が移住希望を申し込んでいるという。が、クロアチア警察によりなんびともゴルニャ・シガに入ることは許されておらず、住んでいるのは鹿やカエルばかりだという。警察のほかに軍隊もいるかもしれない。国を宣言しても、中洲は空白地帯らしかった。

 リベルランドのことはたまたまネットのニュースで知った。きっと兄も知っているだろうと思った。兄は退官した父と母と家にいる。多少の家事をしながらおとなしく過ごしている。

 わたしは中洲の外に住んでいる。

 恋人に中洲のことを話したら、博多にそういう飲み屋街があるよと教えてくれた。久留米の出身なのだ。いつか連れて行ってあげると言われた。いっしょにとうもろこしのかきあげを作った。紅しょうがを入れてもおいしいかもしれないとアイデアを出してくれた。黄色の水玉にピンクの模様はなかなかいいなと思った。そうして、最近youtubeの動画を見ながら編み物をすることだってある。動画は一時停止も巻き戻しもできるので重宝している。ついに会うことのなかった中学生の女の子のことを思い浮かべている。救命ボートはずっとマンションの屋上にあった。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

中洲の子 オカワダアキナ @Okwdznr

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ