森の音と陽射しの音

 暑い季節になった。

 遠くに見える地面がゆらゆらと空気を震わせている。

陽射しは熱を持ち、校舎の周りの森が体を震わせて鳴いていた。

 前期試験の一週間前。

 学校全体が焦りと緊張に包まれて、そこかしこから鋭く固い音が雨のように降り注いでいる。

 私は校内に充満する音の不快さに耐えながら、楽器練習用の防音室に向かっていた。耳栓代わりのイヤホンは周囲のノイズを軽減するが、なまじ良すぎる耳が拾う音は通常の人間では拾えない音だ。軽くはなっても、音が完全に消えることはない。

 早く、早くと足が急く。

 私のような異能力者にとって、能力の制御とは単に「ある程度は気にならないように訓練する」ことである場合が多く、私もそうだった。そしてその場合の「ある程度」は日常生活に限られることが多く、大衆の中で混乱しないことが目的だ。だからこそ、日常のざわめきの中にさまざまな音があることには慣れていても、一つの音に支配されるような場面は苦手だったりする。

 特に、「緊張」や「焦り」のような張り詰めた、絹を裂くような甲高い音がする空間は。

 キンキンと校舎から響いてくる音。

 早足に歩く学生が発する音。

 普段は聞こえる木々の揺れる音が全く耳に入って来ないほどのすさまじい音だ。

多少の高低はあれど、一様に高く、良く響く音で、いい加減に頭が痛くなってくる。

 脛の辺りがピリリ、と痛むが無理やり歩く速度を上げた。一刻も早く防音室に入ってしまいたい。

 そして、図書館棟の横に差し掛かったときだった。

 ビリビリと空気が鳴いている。

 ワーワーという夏の声に、さっきまで気にならなかった木々の笑い声が重なった。

 それを打ち消すように鳴り響くのは、周囲の人々の感情だ。

 ザワザワと肌が粟立つ。

 背筋がスルリと冷たくなって、冷や汗すら伝い始めた。

 ガンガンとこめかみを殴られるような痛みが頭に絶えず襲いかかる。

 思わずその場にうずくまり、両手で思い切り自分の耳を押さえつけた。

 パラパラと周囲を歩いていた学生たちが、突然うずくまった私を見て、ざわつき始める。「どうしたの」「大丈夫ですか」と慌てた声がいくつもいくつも聞こえてきて、重なっては押し寄せた。

 静かにして。

 音を出さないで。

 耳が痛い。

 頭が痛い。

 音に、潰される。

 風がそんな私を嘲笑うように、校舎を包む森を揺らしては去っていく。

 暴走し鋭さを増す聴覚が、二キロも三キロも先にある踏切の音を拾った。

 防音室や校舎から漏れ出したさまざまな楽器の音が混ざり合っては溶け合って、鳴り響く。

 そこに圧倒的な質量を持った感情の音が重なって、大きく大きく波を打つ。

 楽しい音。

 悲しい音。

 大きな重い音。

 高く響く音。

 普通の音もそうでない音も、全ての音が静かなはずの森の中に響き渡り、私の耳へ、身体へと入り込んだ。

 ぐちゃぐちゃに塗り潰されるのは、なにも意識だけではない。

 感情は、伝播するのだ。

 泣いている人を見て、なぜか悲しくなるように。

 喜ぶ人を見て、なぜか嬉しくなるように。

 感情というものは、少なからず周囲にその影響を与える。

 その塊が無防備な私に押し寄せて、私の中の繊細で柔らかな部分を無造作にかき回した。

 自分の心が自分のものでないように激しく上下を繰り返す。

 楽しい。

 嬉しい。

 悲しい。

 辛い。

 聞こえる音が感情に直接入り込んで、我先にと私の持つさまざまな感情を引っ張り出そうとする。

 あまりにも激しい奔流に、だんだんと吐き気がこみ上げてきた。しかし両の手は冷たく震えながら固く両耳を塞いでいて、動かすことができない。唇をしっかりと噛み締めて、目を固く瞑った。

 周囲の人垣が厚みを増す。

 それに伴って混ざる音も増えていく。

 意識が遠ざかる感覚に、ふと、あの夏の日を思い出した。

 同じように目を瞑って耳を押さえ、横断歩道の真ん中でうずくまった日。

 異能力者という存在はその当時も知っていたし、中学や高校でも何人か見たことがあった。テレビの特集や芸能人として活躍している姿を見たこともあった。

 「すごいな」と思いながら、遠くから見ているだけだったそれ。

 自分には関係がなかったはずのものが、急に現実味を持ってあの日、私の身に降りかかった。

 今まで普通に生きていた世界が、急に私に牙を剥いたように感じた。

 それが余りにも怖くて、怖くて。

 そんな時に「大丈夫」と言ってくれたのは。

「……太陽さん」

 固まってしまった右手を何とか動かして、ポケットの携帯を探り出す。指紋認証で開けた携帯の画面に置いてある黒いアプリケーションを開き、出て来た赤色のボタンを押した。

「たすけて……」

 このアプリケーションは、私の所属する組織が作った専用のアプリケーション。能力の制御が利かなくなり、動けなくなった場合にボタンを押せば、GPSが自動的にONになり、所属地に緊急事態を知らせることができる。今頃、私がボタンを押したという情報は太陽さんたちの所に届いているはずだ。

 何とか緊急ボタンを押せたことで安心したのだろう。意識がゆっくりと薄くなり始める。あの時の「大丈夫」という太陽さんの声がかき混ぜられる心の中で反響する。それがまるで毛布のように温かく、柔らかく、全身を包む。

 まだ音は鳴り響いていて。

 相変わらず感情はぐちゃぐちゃで。

 どうしようもなく頭は痛んでいるのに。

 それでも、あの日聞いた彼の声を思い出すだけで、恐怖の底から救われる。

 大丈夫なんだ、と無条件に思うことができる。

 大丈夫。太陽さんたちは必ず来てくれる。

 もう少し。もう少しの辛抱だ。

 そんなことを考えながらもう一度強く耳を押さえた時だった。

「……由乃?」

 他のあらゆる音にかき消されることも無く、やけにはっきりと聞こえた声。

 その声を聞いた途端、ぐちゃぐちゃになっていた感情が鳴りを潜め、一様に暗く、凍り付いたように冷たくなる。

 なんて、最悪なタイミングなんだろう。

 どうして、よりによって彼女が来てしまったんだろう。

 ゆっくりとこちらに向かってくる足音がする。

 来ないで。来ないで。

 私はあなたを失いたくない。

 しかしそんな願いも虚しく、すぐに背中に少し冷たい、細い手が触れる。

 その瞬間。

 私を苛んでいた世界のあらゆる音が、急に小さく萎んだ。

「……由乃」

 そこに降ってくる彼女の声だけがやけに鮮明で。

「……真尋、」

 耳を塞いでいた手を離し、顔を上げた。

 悲しい、音がする。

「……由乃も、異能力者だったんだね」

 見つめた彼女の目が冷たい。

 その中にありありと見える悲しみの色が、私の心を濡らした。

 冷たい雫が目の前を歪ませて、流れ落ちる。

 再びゆるゆると堕ち始める意識を必死に繋ぎ留めながら、私は真尋を見つめ返した、

「……ごめん」

 そんな言葉しか出ない。

「ごめんね、真尋」

 黙っていて、隠していて、ごめん。

 歪んだ視界は戻らない。

 伝う雫はあまりにも冷たくて。

 余計に心を冷やしていく。

 ごめん。真尋。

 あなたには、知られたくなかった。

 あなたにだけは、知られたくなかった。

 そして、知りたくなかった。

 だって、あなたも―――。

 ゆっくりと暗闇が迫ってくる。もう、耐えられない。

「由乃ちゃん!」

 遠くから微かに、太陽さんの声がした気がした。


 目が覚めて、そのままベッドにうずくまった。

 むやみに感覚を刺激しないよう考えられた部屋は薄暗く、そして異常なほどに音がしない。光も音も匂いも。五感を刺激するありとあらゆるものが極端に抑えられた部屋は、安心感があり、居心地が悪い。

 壁に身体を預けて小さくなって。ゆるりと目を閉じた。

 穏やかな冷たさが胸に広がる。

 じわりじわりとそこから水がしみ出して、やがて堰き止めていたものが決壊する。

 神様というものは、存外残酷だと思う。

 今までだって神様という存在が無条件に何かを与えてくれるだなんて思ったことはなかったけれど、こんな風に何かをただ奪っていく存在だと思ったこともなかった。何も与えることなく、こんなに気まぐれに大切なものを奪っていく存在だなど。

 冷たい炎が燃え上がるのがわかる。

 心が、泣く。

 もしも。

 もしも神様が私にこの能力を「与えた」のだと思っているのなら。その代わりに大切な友人が奪われたのなら。

「こんな能力なんて、いらなかった……!」

 これは偽る必要のない私の本音だった。

 涙に邪魔をされて息苦しい。

 音に邪魔をされて生き苦しい。

 わかっている。

 この異能力がなければ、出会わなかった人もたくさんいる。太陽さんや、進さんや、夕弥さんや……もしかしたら、真尋にだって。その人たちと会いたくなかったわけでは決してない。しかしこうして、大切にしたいと思ったものを、守ろうとしていたものを奪われる苦しみを味わうくらいなら。

「由乃ちゃん、そんなこと言わないで」

 カチャリと小さな音がして、静かに入って来たのは太陽さんだった。その後ろには、真尋もいる。俯き加減の彼女の表情はよく見えないが、聞こえる音は決して明るくはない。

 複雑に絡み合った音。それを紐解けば、見えてくるのは感情だ。

 悲しみや戸惑いの中に混ざる、微かな怒り。その中に『どうして』という微かな声が聞こえた。

 何を言ったらいいのだろう。

 何を、言えるのだろう。

 口を開いても、結局言葉が出ない。

 最後に別れの言葉を聞くくらいなら、お互いに何も言わずに、曖昧に何もかもが溶け合った、今のままでいたい。

 零れる雫を拭うこともできずに、私はまた口を閉ざす。

「由乃ちゃん、泣かないで。大丈夫だから」

 太陽さんの手が、私の頭を撫でる。

 そして彼は反対の手を徐に持ち上げると、そっと真尋の肩を抱いて引き寄せた。

「真尋ちゃんも、顔を上げて。じゃないと由乃ちゃんが泣き止んでくれない」

 おどけたように、困ったように言う太陽さんの言葉で、真尋がおずおずと顔を上げた。

 大きな戸惑いの中に少しだけ怒りを混ぜた彼女の顔。その両の目は赤く、うるんでいた。その目はまるで、泣いた後のよう。

少しの間、私たちは互いにただ見つめ合っていた。

お互い、相手に掛ける言葉を探していたのかもしれない。

 そんなぎこちない沈黙が、そこにはあった。

「……由乃」

 先に口を開いたのは、真尋だった。

 見せかけのように薄い怒りを乗せた声だった。

「なんで、言ってくれなかったの。私が能力者を怖がっているから? だから由乃は自分が異能力を持っているって言ってくれなかったの?」

 真尋がこちらを真っ直ぐに見る。

 私は、何も言えなかった。

 何を言っても真尋を傷つける気がして、言えなかった。

「確かに、怖かった。お父さんの事件があってから、私は異能力って怖いものなんだと思ってたから。だけど!」

 悲しい音が、満ちる。

 部屋いっぱいに満ちて、溢れて。

 海の底にいるような。そんな感覚になる。

「だけど、友だちがそうなんだって知ったら、私だってちゃんと向き合うよ。怖がったりしない、とは言えないけど。だけど、ちゃんとどういう能力なのか理解して、怖がらないように努力するよ」

 真尋の手が、こちらに伸びてきて、膝を抱えていた私の手に重なった。

「……ごめんね、由乃。苦しい思いさせて。気づいていなくて」

 少し冷たい彼女の手を、握り返す。

 口を開くと、貼りついていた喉が少しだけひりついた。

「真尋のせいじゃないよ。私が勝手に黙っていただけ」

「でも、黙っていた理由は、私でしょ?」

 そう言われてしまったら、「違う」とは言えず。真尋はそんな私を見てようやく表情を和らげた。

「ありがとう。……由乃、これからもよろしくね」

 その言葉で、冷たくなっていた心が一気に熱を持つ。溢れる雫も温かくなって、ほんのりと頬が熱を持ったのがわかった。

「あーあ、由乃ちゃんまた泣いちゃった」

 「よしよし」と言いながら、太陽さんが私の頭を撫でまわす。

「まあ、これからは真尋ちゃんも仲間だしね。同じ異能力者同士、仲良くやろうよ」

 太陽さんがそう言って笑う。その言葉に、私は「ああ、やっぱり」と思った。少しだけ、気持ちが沈む。

「由乃」

 呼ばれて顔を上げると、真尋が笑っていた。満面の笑み、という訳ではない。戸惑いを隠せない、複雑な笑みだ。

「私も、異能力者だった。私は、触れた人の五感を弱めることができるんだって」

「うん。真尋ちゃんの能力は進と同じ能力。暴走しかかっている能力者を助けるのには最適な能力だし、自身が暴走する危険もない」

 真尋はそれを聞いて、やっと安心したように笑った。いつもの、真尋の笑顔だ。

 彼女の音が、柔らかく穏やかな、春の陽射しのような音に変わる。

 心地のいい音だ。

「由乃のこと、私、助けてあげられる」

 真尋の手に力が籠る。

 花がほころぶような笑顔が、薄暗い部屋の中に咲いた。

 私も彼女の細い手を強く握り返す。

 太陽さんがそんな私たちを見て、笑っていた。


「ほら、大丈夫だった」



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音降る世界に 宮守 遥綺 @Haruki_Miyamori

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