音降る世界に

宮守 遥綺

音の波と海の音

 ガツン、という衝撃。

 ガクガクと脳が揺さぶられるほどの音の波が、絶えず襲ってくる。

 つい先ほどまで何の変哲もなかった周囲のビル群や目の前の信号機が歪んで、世界が回る。

 信号の青と電光掲示板の金色に、目の前にいた女性が持っているショッパーバッグの鮮やかなピンク色が混ざった。

「……っ……!」

 思わず耳を塞いで蹲る。

 交差点のど真ん中。

 周囲の人々が驚いている。

「大丈夫ですか」という声や、駆け寄ってくる足音。曲がろうとする車のクラクション。その中に「邪魔だ」「何やってるんだよ」という声も混ざるが、気にしている余裕など微塵もなかった。

 ザワリザワリという音がさらに大きくなって、身体ごと呑まれそうだ。音に掻き消されそうな気さえする。押しつぶされてどんどんと小さくなった自分が、やがて泡のように弾けて消える映像すら見えた。

 陽射しに焼かれて痛いほどに暑いはずが、ひどく身体が震える。

 自分に何が起きたのかがわからない。

 いつもより少しだけ長引いたピアノのレッスンの帰り。途中の駅で降りて、ほど近い大きな本屋に寄って、好きな作家の新刊を買った。ついでに参考書のコーナーにふらりと立ち寄り、何冊かをパラパラと意味も無く捲って。自分も来年の今頃は、駅の裏側に立ち並ぶ予備校の群れのどこかに、足繁く通うことになるのかもしれないな、と思うとひとつ大きなため息が漏れた。

 家に帰ろう、と参考書を元の場所に戻して何気なく周囲を見回すと、必死な顔をした制服の男女が数人、これまた必死に参考書を捲っている。切羽詰まったあの顔は、恐らくこの近くの高校に通う3年の生徒だろう。「ああはなりたくないな」なんて暢気に考えながら書店を出て。丁度青に変わった信号を見て、「次の電車は、何分だっけ」と時計を見ながら歩いていた時だった。

 周囲の音が大きくなって。

 今まで聞いたこともないような大量の音がその音に重なったのだ。

 突然、爆発的に増えた耳から入る情報は、優に私の脳が処理できる情報量を超えていた。

そしてなぜか、音に呼応するように私の中の感情が明るくなったり、暗くなったりと忙しなく動く。

 処理しきれない量の情報と勝手に揺れ動く感情は、私を大いに混乱させ、かき乱す。

 信号が変わったのだろうか。

 車の発するクラクションの音が、より一層大きくなる。それに混ざって、遠くから救急車のサイレンの音が聞こえた。

 まるで、海だ。

 音の、海。

 大きくなったり、小さくなったりしながら、波打つように私を沖まで攫って行こうとする。

 その波に呑まれて、私の意識は段々と薄くなる。それが怖くて、きつくきつく目を閉じると、端から大きな雫が落ちた。

 助けて。

 誰か助けて。

 消えたくない。

 死にたくない。

 誰か。

 誰か。

 声も上げられず、ただ心の内で叫ぶ。

 鳴り止まないクラクション。慌てる人の声。重なる怒声に、駅のホームに電車が滑り込む金属音。たくさんの足音と、電光掲示板で笑う女優の声。

 そして、得体の知れない無秩序の音。

 音だった。

 激しい、音だった。

 それが波となって幾度も幾度も襲い掛かってくる。

 音の海にいきなり放り込まれて、泳ぐこともできず溺れていく。急激に意識が遠くなる。抗えない。嫌だといくら思っても、もうどうすることもできなかった。

 黒い恐怖が、すぐ足元で口を開けて待っている。

 落ちる。

 その時だった。

 落ちて行きそうな意識の中に、不意に温かいものが現れる。

それは柔らかな安心感をもって、震える身体を包み込む。

 そして背中に温かな何かが触れたかと思うと、私の意識を掻き消すかのように鳴り響いていた周囲の音の波が途端に止んだ。

「大丈夫。大丈夫だ」

 低く甘い、優しい声。

 背中の温かな何かはそのままに、その声の人は守るように私の体に両腕を回した。背中をゆっくりと叩かれて「大丈夫」を繰り返されると、恐れていた足元の黒への恐怖が和らいだ。

「眠っていいよ。大丈夫だから」

 今度は違う声だった。しかしその声も、温かな響きを纏っている。

 不思議と強張っていた身体から力が抜けて、ギリギリで保っていた意識が一気に遠くなる。


「……君も、『選ばれた』のか」


 どこか悲しげなその声を最後に、私の意識は落ちて行く。




「おーい、由乃ゆのー?」

 ゆらゆらと揺すられて、急激に意識が浮上する。

 ザワザワという周りの音が少しずつ鼓膜を揺らし始めて、やがて笑い声や話す声が聞こえた。

 大講義室の机に突っ伏していた身体を起こし、思い切り伸びをすると、パキリと腰が鳴った。よく寝たな、と思いながら周りを見ると、多くの人は友人と楽しげに話しながら教科書やノートを仕舞っている。楽器と大きな荷物を持って講義室から出て行こうとする人もいる。どうやら、講義はとうに終わっていたらしい。教壇に目をやるが、そこは既に空っぽだった。

 時計はもう昼休みの時刻を指している。通りですっきりするわけだ。

「よく寝てたねー」

「昨日練習室に籠ってたら、いつの間にか一時過ぎてて」

 結局開かれもしなかった教科書とノートを仕舞いながらそう返すと、友人の真尋まひろが「え、一時? バカじゃないの?」と呆れた声を出した。

「まだ試験まで二か月はあるし、コンクールが近いわけでもないのに、何してたの?」

「いや、特に理由があるわけじゃないんだけど、弾きたくなったから」

 言うと、真尋は特に気にした様子もなく「あるよねー、そういうこと」と笑った。

 時折、食べるのも眠るのも忘れて自らの相棒と気が済むまで語らいたくなるのは、音楽という道を究めようとする者の性なのか、「バカじゃないの」と笑いながら、この大学の学生ならば誰もが経験している。好きなことをしているときには時間を忘れる、は誰にでもあることなのだ。

 真尋は荷物を詰め終えるとこちらを見て、「食堂行く?」と笑った。それに頷いて私も鞄を肩に掛ける。

 昼の陽射しがキラキラと淡く笑っている。

 その陰に隠れるように、涙を誘うか細い音が聞こえた気がした。

 あんな夢を見たからだろうか。

 今日はなんだか、悲しい音がたくさん聞こえる。


「え、由乃ちゃん、隠してるの?」

 薄暗い部屋の中でパソコンの画面に向かっていた太陽たいようさんが、置いてあったおにぎりの包みを開けながら、驚いた声を上げた。

「別に隠す必要ないでしょ。今じゃ異能力も広く認知されるようになったし、そこそこには受け入れられるようになってる。誰も気味悪がったりしないよ」

 「あ、由乃ちゃんもおにぎり食べる?」と言って彼がもう一つあるおにぎりを差し出すのを片手を上げて断ってから、私はゆっくりと首を振った。

「それでもまだ、異能力を受け入れられない人もいるんですよ」

 私の一番の友人、小野田真尋おのだまひろのそのうちの一人だ。彼女は昔、異能力者の暴走で父を失っている。以来、「異能力者は怖い」と刷り込まれてしまったらしく、キャンパスで出会う異能力者たちからも極力距離をとるようにしている節があった。

 そんな彼女に私は、自分も異能力を持つ者の一人だと告げる勇気はなかった。

 せっかくできた友人だ。

 それも一番仲のいい友人だ。

 失うくらいなら、能力なんて隠した方がいい。

 幸い、私の能力は見た目にはわからないし、奇妙な行動をさせるものでもない。

「……嫌われたくない?」

 さっきまでおにぎりを持っていた手で頭を撫でられて、思わず太陽さんを睨みつけた。彼は「ああ、ごめんごめん」なんて笑いながら手を引っ込める。そして僅かに目を眇めながら、こちらを覗き込んだ。少しの間、何かを観察するようにそのままで私を見ていた彼の口元が、柔らかく笑む。

「いいと思うよ。手に入れたものを失うのは、誰だって怖いからね。いいんだよ、それが由乃ちゃんの出した結論なら」

 そう言って、ぽん、とまた私の頭に手を乗せた。だから手を拭いてからにしてよ、と思いながらも、今度はその手の心地よさに抗うことができなかった。

 彼の音は言っていた。

 「大丈夫、大丈夫」と。

 あの時と同じように。

 それは低く、柔らかく、甘い音。

 無条件に私を包み、安心させてくれる音だ。

 そしてなにより。

 彼の手はいつだって、温かいのだ。

 それはそれは温かいのだ。

「ただね、無理だけはしちゃいけない。何度も言うけれど、僕たちのようにもともと備わっている五感が異常に発達した異能力者は、他の能力者よりも繊細だ。他人の感情に直接影響を受ける人が多いからね。そして何より、」

太陽さんはそこで一度言葉を切る。

 私の頭に乗せていた手をゆっくりと下ろすと、今度は至って真面目な顔で再び私の目を覗き込んだ。彼の少し茶色がかった大きな目が、私を捕らえる。

「忘れちゃいけないのは、僕たちの異能力は他の能力よりも、持っている人間にとってのリスクが大きいということ。他のものとは違って、暴走しても他人に迷惑をかけることは少ない。だけどその分、僕たちの能力は、自分を傷つける」

 「だから、我慢しすぎてはいけないよ」と太陽さんは言った。聞こえてくるのは、優しい音だ。海のように優しくて、大きい、広い音だ。彼はいつも、心から私を案じてくれる。

「大丈夫ですよ。そこまで、無理はしないです」

 私がこの能力に目覚めたのは二年前。高校二年の夏だった。突然目覚め、暴走した能力に呑まれそうになっていた私を助けてくれたのが、安住進あずみしんさんという男の人と、ここにいる太陽さんだ。太陽さんは混乱する私に「大丈夫だ」と声を掛け続け、進さんは彼の能力を使い、鋭くなり過ぎていた私の感覚を宥めてくれた。

 彼らは、「大丈夫だよ。制御の方法さえ覚えれば、異能力はそんなに悪いものじゃない。僕たちはそれを君に教えてあげられる」、「どうだい。一緒に来ないか。僕たちは君を歓迎するよ」と言って、私をここに連れて来た。

 ここには私と同じように『人間が本来持つ五感が、異常に発達した異能力者』が集まっていて、互いに支え合い、守り合っている。

 ここに来て以来、私はたくさんの異能力者に出会ってきた。

 ここの仲間は勿論、違う人にも。

 そしてその中には、暴走した自分の能力に呑まれて一般の人を殺した人も、逆に自分の能力に殺されてしまった人もいる。

「うん。それだけは絶対に約束して。君はかなり広い範囲の実際の音、そして人の感情を聞く。それは、普通の人では集められない情報を集めることができるということ。だけど同時に、人間が一度に受け入れられる情報の量を遥かに超えた量の情報を集めてしまう、ということでもあるんだ」

 太陽さんのその言葉にゆっくりと頷く。

 私は知っていた。

 だからこそ、能力は他に比べて暴走しやすく、さらに暴走した能力が私たちにとってはとても危険であるということを。

夕弥ゆうやのこと、忘れたわけじゃないだろう?」

 そう言われて頭に浮かんだのは、いつもニコニコと笑っていた、茶髪の男だった。

 犬のような、人懐こい人だった。

 男にしては小さい身長に、どんぐりのような大きな目。楽しいことが好きで、おしゃべりが好きで。パフェやクレープが好きで、辛いものが嫌いだった。

 ときどき調子に乗って怒られるけれど、年下には優しかったし、年上の人たちや友人にも好かれていたように思う。

 人の中心でキラキラと笑って。

 夕方の物寂しさよりも夏の太陽が似合う。

 そんな人だった。

 私は密かに、太陽さんと夕弥さんは名前を交換した方が良いのではないかと思っていた。それくらい、太陽が似合う人だったのだ。

 彼はいつも、笑っていた。

『俺は、この能力を持ってよかったと思ってるよ。人の気持ちが色で見えたら、本当に悲しんでいる人をすぐに見つけられるだろう?』

 そうすれば、笑っていても本当は悲しんでいる人を元気にすることができる。

 そう言って彼は笑っていたのだ。

 しかし、彼は死んだ。

 おそらく本人すらも知らないうちに心の底に溜まっていた澱が、彼の能力を暴走させて。

 許容量を超えた情報は脳を破壊し、彼の精神を破壊した。

 そして何もわからない状態になった彼は、見張りの目を盗んで病院を抜け出し、近くの跨線橋から飛び降りて。電車に轢かれて、死んだのだ。

「夕弥は自分の能力に殺された。知らず知らずのうちに溜めていたストレスが、夕弥の能力を暴走させるきっかけになってしまったんだ」

 その一件以来、私が所属するこの組織では、ストレス管理が徹底的に行われている。それを主に担っているのが、太陽さんだ。

 彼は触れた人の深層に沈む言葉を探り出すことができる。単にストレスの度合いのみを測るのではなく、その原因すらも見抜くのだ。

「俺が今、少し由乃ちゃんに触れてみただけで、由乃ちゃんの心が『苦しい』って言っているのがわかったよ。本当の自分を受け入れてもらえないのは悲しい、って」

 太陽さんの手が私の手を甲から包むように握った。大きな手だ。そして温かい。この人に触れられるのは嫌いじゃない。たとえそれが、心を全てさらけ出すことと同義であったとしても。

「それでも、友だちでいたいから」

「そっか」

 ちいさくそれだけ言って、太陽さんは目を閉じた。私もつられて目を閉じる。

 音がする。

 それは優しくて、柔らかくて、どこまでも広い。

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