第457話 同盟交渉➂
同時刻。
広大な庭園が見える板張りの渡り廊下。
その長い廊下を一人の青年が歩いていた。
年齢は二十歳ほど。毛先が少し赤みがかった短い黒髪に、線の細い顔立ち。眼鏡をかけている長身痩躯の青年だった。
ごく普通の大学生のように見えるが、彼は普通の人間ではない。
炎雷の一族で知られる火緋神家。その直系の引導師なのだ。
名を火緋神耀といった。
火緋神家の次男。燦の異母兄の一人だった。
そして今、彼が歩くこの屋敷は天雅楼本殿ではない。
火緋神家の本邸だった。
耀は、つい先程帰宅したばかりだった。
「…………」
無言で歩く耀。
その表情は少しばかり険しい。
それも仕方のないことだ。
昨夜の月子が行方不明になった一件では彼も捜索に奔走していた。
月子が無事に戻って来た時はホッとしたが、その疲労も抱えた上で、これから彼は報告しなければならなかった。
朗報と悲報が入り混じる途方もない内容をだ。
(……本当に参りました)
耀は小さく嘆息した。
冷静沈着で知られ、頭も弁も回る耀ではあるが、今回ばかりは果たして上手く伝えられるか自信がない。流石に不安を抱かずにはいられなかった。
(ともあれ、月子の覚醒した異能についてはまだ秘匿にすべきですね……)
歩きながら、耀はそう判断する。
昨夜、月子は時間操作の異能に目覚めたらしい。
最強と呼ばれる異能の一つだ。双姫の片割れがそんな異能に目覚めたとなると、火緋神家は力づくでも月子を奪取しようと動くだろう。
――
(それだけは避けなければ)
耀はより表情を険しくした。
火緋神家と久遠真刃の一派が衝突すること。
それは最悪の事態と言える。
勝敗云々以前に今はそんなことをしている場合ではないのだ。
なにせ、伝承に名を連ねる怪物どもが三体も襲来しているのだから。
この街にいる引導師が一丸となって対処しなければならないほどの緊急事態だった。
従って、月子のことは、燦のことも含めて真剣に考えなければならない事案だが、今は火種にしかならないため、後に強い叱責を受けるとしても秘匿にすべきことだった。
(そもそもそれ以外にも情報量が多すぎますからね)
耀は深々と嘆息した。
たった一日でどれほどの情報を得たことか。
まずは久遠真刃の素性と因縁。
次いで三千神楽。
それに備えて密かに増強されている久遠一派の戦力。
そして何よりも……。
(御前さまについてご報告しなければ)
それこそが一番頭を悩ませる案件だった。
あまりにも想定外すぎることであるからだ。
実は御前さまが存命であられたこと。
そして、そのお姿が驚嘆するほどに若々しいこともだ。
耀自身も困惑している。
こればかりは父に信じてもらえるのか疑わしかった。
自分の目で御前さま――『久遠杠葉』と名乗る彼女の別格の実力を見るまでは、耀も信じられなかったぐらいだ。恐らく言葉だけでは父を説得できないだろう。
(……困りましたね。これは……)
耀は額に指先を当てた。
一体どう説明すればいいのか。本当に悩ましい案件だった。
しかし、報告しない訳にもいかなかった。
渡り廊下を進みながら、耀が頭を悩ませていたその時だった。
「――耀さま」
不意に背後から声を掛けられた。
耀は足を止めて振り返る。
すると、そこにはいつの間にか一人の女性がいた。
年の頃は十九歳ぐらいか。耀同様に大学生のような服装の人物だ。少し青みがかった黒髪のショートに、顔の右半分を前髪で隠すように覆ったスレンダーな女性である。
「……ヒカゲさん」
彼女は耀の知り合いだった。
九重ヒカゲ。異母兄である火緋神猛の筆頭隷者だ。
「ご無事で何よりです」
ヒカゲは恭しく頭を下げた。
それから顔を上げると、どこか淡々とした眼差しで耀を見やり、
「ご連絡が取れず、猛さまもご心配されておりました」
「……そうですか」
異母兄が本当に自分を心配していたのかはともかく。
「私のスマホは壊れてしまいましたから、ご心配をお掛けしました」
礼儀として耀は、ヒカゲに会釈する。
「それとヒカゲさん」
続けて耀は告げる。
「兄と魁を父の部屋に呼んで頂けませんか。まず父たちに報告したいことがあります」
「……それは燦さまと月子さまのことでしょうか?」
ヒカゲが眉をひそめた。
「もしや、お二人に何かあったのですか?」
その声には強い不安が宿っていた。
(……ああ。そう言えば)
彼女が燦たちと親しかったことを耀は思い出した。
特に燦は彼女のことを「師匠」と呼んで懐いていた。
「いえ。ご心配なく」
耀は安堵させるように微笑んだ。
「二人とも無事ですよ。ただ別件で火急に報告しなければならないことがあります」
「……そうですか。分かりました」
ヒカゲは一瞬だけホッとした表情を見せた後、頷いた。
「では、猛さまと魁さまのお二人にはお声がけしておきます」
そう告げて、ヒカゲはすうっと自分の影の中に沈んでいった。
耀は誰もいなくなった廊下を、まじまじと見つめて、
(相変わらず見事な術だな)
内心でそう称賛する。
九重ヒカゲは引導師であると同時に忍者の末裔であることも有名だった。
ヒカゲはさほど魂力が高くない。そのため、彼女の特殊な出自を異母兄が気に入ったので強引に隷者――要は愛人にされたという噂がある。
ただ、仮にも家族である耀としてはその噂は出鱈目だと思っている。きっと、異母兄は彼女のレアな出自に関係なく、本気で惚れているのだろうなと直感で見抜いていた。
でなければ、異母兄が頑なに彼女を筆頭隷者に据えるはずもない。
一夫多妻、多夫一妻が当然の引導師の世界において、筆頭隷者とはそのまま正妻になることがほとんどなのだから。
(それはともあれ、あの影移動は私も使ってみたいですね)
と、そんなことを思う耀。
余談だが、先程の影へと沈んでいったのは彼女の忍法なのだと耀は思っていた。
実のところ、あの移動方法は彼女の系譜術であり、忍法とは全く関係ないのだが、その事実までは知らなかった。
日本の少年とは一度は忍者に憧れるものなのである。
閑話休題。
「……さて」
耀は再び歩き出す。
ここでヒカゲと出会ったのは本当に丁度良かった。
全体報告よりもまずは家族会議だった。
「まあ、それはそれで骨が折れそうですね」
微かに苦笑を浮かべる耀だった。
【第11部まで完結】骸鬼王と、幸福の花嫁たち 雨宮ソウスケ @amami789
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