花咲く夜のエレクトラ
七沢ゆきの@11月新刊発売
第1話 花咲く夜のエレクトラ
「ただいま」
めずらしく、鍵の開いたままの玄関を開けて、僕は真っ暗な廊下に向かって呼びかけた。
久しぶりに帰る実家は他人の家のようで、勝手にあがり込むのもなんだか申し訳ないような気分になる。
もういちど「ただいま」と繰り返そうとしたとき、僕はつんと鼻をつくひどい臭いに気が付いた。
生の魚の内臓と腐った卵が入り混じったような臭いだった。
急いで沓脱を上がり廊下の電気をつけて、僕は思わず息を呑む。吐き気を催しそうな臭いも、一瞬、感じなくなった。
クリーム色の壁紙に幾条もの血の筋。床のフローリングはまるで肉屋のショーケース。
そして、そこには見覚えのある眼鏡が落ちていて……。
ああ、そうか。
とうとう。
とうとう姉さんはやってしまったんだね。
姉さんはキッチンにいた。
その足元には貴之さんとその妻の死体が転がっていた。
白く濁った貴之さんの眼球も、めった刺しにされたその妻の腹部も醜くて不快で、僕はそれを視界に入らない位置まで蹴って動かす。
いつかこうなるかもしれないことはわかっていたんだ。
姉さんは貴之さんを愛していたけれど、貴之さんには妻がいた。
どこにでもある陳腐な不倫だし、当事者でなければ僕もそれを面白がっていたかもしれない。
でも僕にとって姉さんは大切な人で……どうしてこうなってしまったのか、何か手立てはなかったのか……もっと僕が努力すべきだったのに。
なのに僕は姉さんと貴之さんのことを考えるのが嫌で、大学が決まって家を出てからほとんど帰らなかった。姉さんともあまり連絡も取らなかった。
いや、僕は本当に姉さんを心配していたんだろうか?
ただ世間体だけ考えてたんじゃないだろうか?
「姉さん」
水流を最大にしている水道の音のせいで姉さんには僕の声が聞こえないようだった。
シンクに向かって洗い物をしている姉さんの横顔は、なぜだかとても幸せそうに見えた。
「姉さん、僕だよ」
肩を叩いて呼びかけると、ようやく姉さんが振り向いた。
開け放たれたキッチンの窓からは、今が盛りの桜の花びらがひらひらと舞いこんでくる。
つややかな姉さんの黒い髪に薄い桃色がまとわりつくのは本当にきれいで、僕はこんな時だというのにすこし見惚れた。
「どうして」
こんなことを、と聞く前に、姉さんがあけっぴろげな笑顔で僕に抱きついてくる。
「おかえりなさい!貴之さん!」
瞬間、僕は息ができなくなった。
姉さんの体の温かみとか柔らかさとか、そんなもの、全部どこかへ散ってしまった。
「違うよ姉さん、僕だよ、和樹だよ」
「どうしたの貴之さん、なんで和ちゃんの真似なんかしてるの?変なの」
ふふっと姉さんが笑う。軽やかで明るいその笑い方はいつもなら聞くだけで楽しいものだったけど、いまはそんな余裕はなかった。
「あのね、今日のお夕飯は貴之さんの大好きなミートソースドリアなの。もうオーブンに入ってるから焼くだけよ。それからこっちのお野菜は、貴之さんがテレビで見て食べたいって言ってたバーニャカウダ用。はじめて作ったからソースの味にあまり自信がないけど……食べてみてね」
姉さんの腕が僕の首にからみつく。
まるでキスをねだるような仕草だった。
僕を見上げている、姉さんの大きな瞳。でもそれは弟の僕を見る目ではなくて、恋する男を見る目だ。
姉さんの服には血が飛び散っている。頬にも乾いた血の跡がついている。床には二つの死体。
でもそこで幸福そうに微笑む姉さん。僕を『貴之さん』と呼ぶ姉さん。
深い息が僕の口から洩れる。
歯噛みをするのはかろうじて堪えた。
姉さんは狂ってしまった。そして、姉さんを狂わせたのは貴之さんだ。
僕がいない間にどんなきっかけがあったかわからないけれど……
妻を捨てることのできない貴之さんに姉さんが絶望したのは間違いない。
「貴之さん、どうしたの?怖い顔してる」
姉さんの眉根が悲しそうに寄せられた。
たとえ狂っていても、僕は姉さんのそんな顔は見たくなかった。
「どうもしないよ。すこし疲れただけ。年を取ると疲れやすくて困るね」
姉さんを狂わせた男を真似て無理におどけて見せながら、こぼれそうになる涙をなんとか抑える。
姉さんは、姉さんの中の『和くん』を死なせても『貴之さん』に生きていてほしかったんだね。
すがられたままだった姉さんの腕をそっと引き離し、「早くドリアを焼いてよ」と頼んだら、姉さんは嬉しそうに大きくうなずいて僕から離れた。
それを汐に、僕はざーざーとうるさい水音を立てていた水道を止めようとする。
「やめて!」
きつい声。
姉さんは僕が見たこともないような表情をして立っていた。
「お水を止めないで!」
細い指が僕の前に翳される。
かわいそうに、その手は擦りすぎたように真っ赤になっていた。
「手がね、汚れが取れないの。お魚をさばいたみたいな臭いがとれないの。どうしよう。さっきからずっと洗ってるのよ。こんな手じゃ貴之さんにお夕飯を作れないから」
僕を突き飛ばすようにして姉さんがまたシンクの前に立つ。
そのとき僕は気づいた。
僕が帰ってきたとき、姉さんはシンクで洗い物をしていたわけじゃなかったんだ。
ただずっと、手を洗っていたんだ。
「どうしよう、どうしよう、とれないの。汚いの。石鹸もたくさんつけてるのよ。いつもならこれできれいになるのに。どうしよう、どうしよう……」
最後は半ば独り言のようだった。
シンクの中では勢いよく水流と石鹸の泡が渦巻いている。そこに窓から舞い込む桜の花びらがまるで作り物か何かのようにひらひらと流れていく。
「どうしたらいいの……」
涙声になってしまった姉さんが痛々しくてたまらなくて、僕は思わずその肩を抱いた。
それが貴之さんの代わりでも良かった。姉さんが喜んでくれるなら。
「泣かないで。俺がいるから。ここにいるから。大丈夫。好きだよ、華奈」
僕は必死で貴之さんの真似をした。嘘をついた。自分のことを俺と言って、姉さんのことを華奈と呼び捨てにして。
「本当に?」
姉さんが振り向く。姉さんは目を潤ませながらも笑ってくれていて、僕は自分がついた嘘に後悔しないで済んだ。
「本当だよ」
「愛してる?」
「もちろんだよ、愛してる。華奈」
姉さんの体を正面から柔らかく抱きしめる。これで少しでも姉さんが救われるなら、僕は……和樹は姉さんから消えてしまってもいい。
「嘘じゃない?」
「嘘じゃない。愛してる。この世で一番華奈が大切だ」
姉さんの目が大きく見開かれた。唇から洩れる、ヒッと悲鳴のような音。
「嘘つき!!!!!」
そして、絶叫ともに、僕の腹部には鈍い痛み。
「愛してるなんて嘘!」
なんなんだろう、これは。
僕は自分の下半身を見下ろす。そこには深々と文化包丁が刺さっていた。さっきまで野菜を切っていただろうそれ。たぶん、貴之さんとその妻も刺したそれ。
「貴之さんが……貴之さんが……パパがママを選んだから、私のおなかのパパの子供はママに殺されてしまったわ!」
ざっとはなびらの舞う音がして、姉さんの上に雪のように桜が降る。
両のこぶしを握り締めて、射抜くように僕を見つめて、でも、こんなときでも姉さんはとてもきれいだった。
「パパなんか大っ嫌い!」
顔を覆った姉さんがその場にしゃがみ込む。そして、ゆっくりとおなかのあたりを撫でた。
「嫌いよ……愛してたのに……ここにはパパの子供がいたのよ……」
僕も、腹部の痛みに耐えながら這いずるように姉さんに近寄った。
「姉さん……」
床に突っ伏す姉さんの肩に僕は手をかける。
なんと言っていいかわからなかった。
僕がこの家から逃げたせいなんだろうか。
貴之さん___実の娘に手を出す男を父さんだなんて呼びたくない___を殴ってでも止めればよかったんだろうか。
それでも、僕は自分にそんなことができないことはわかっていた。
僕は姉さんが大好きで、姉さんが貴之さんといることで幸せなのなら、なんとかこの不均衡な平和が続いてほしいとも思っていたんだ。
泣きじゃくっていた姉さんが顔を上げる。それから、とても不思議そうに僕の名を呼んだ。
「和くん……?」
「え、姉さん?僕がわかるの?」
「何言ってるの。和くんは私の弟で……」
しょ、と続けたかったのだろう姉さんの言葉は宙に吸い込まれた。
「パパ!ママ!」
姉さんが二人の死体に近づく。
「和くん、パパが、ママが!和くんもどうしたの?何があったの?!」
それは唐突な正気の回復だった。
何がきっかけとか、そういうことはもうどうでもよかった。
こうなれば、僕は姉さんの役に立てるということだけが大切だった。
「僕がやったんだ」
姉さんが大きく息を呑む。
それにはかまわずに僕はもう一度繰り返した。
「僕がやったんだ。僕が父さんと母さんを殺した。何度も刺した」
「どうして?パパもママもとっても優しかったじゃない!なんで?どうして?パパ!ママ!救急車!」
「無駄だよ、もう死んでる」
せっかく泣きやんだ姉さんが、また泣き出しそうな目で僕を見ている。
いっそ、怒りや軽蔑の表情で見られた方がましだと思う。
「和くんも怪我してる!やっぱり救急車!」
「ありがとう、姉さん、でも僕はもういいから。父さんと母さんを殺せただけで満足だから。返り討ちに会って自分もこんなことになったけどね」
「なんでそんなこと言うのよ!どうしてなのよ!どうして殺したりしたのよ!」
とうとうほろほろと姉さんの両目から涙がこぼれ落ちた。
それでも姉さんは僕をまっすぐに見つめていた。
ただきれいなだけじゃなくて、そんな勁いところも僕は姉さんが好きだった。
「ほかにできることなかったの?!だいたい和くんは家にだって全然帰って来なかったでしょ?なのに……なのに……こんなのひどいよ……」
「憎かったんだ。ずっと」
息が苦しくなってきた。傷口から血が流れていくのがよくわかる。もうすぐ僕は話せなくなるだろう。でもその前にこれだけはやっておかなければいけない。
「どうしようもないよ。二人とも憎かったし、嫌いだったんだ。理由なんかありすぎて話しきれないくらいで、もうこうするしかなかった。殺せてよかった。傷は痛いけど……僕は幸せだよ」
信じられないものを見るような目で姉さんが僕を見た。今度こそそこに怒りが浮かんでいるのを見て僕は安堵する。
姉さんの記憶が蘇らないように、少しでも強く植え付けておかないといけないんだ。
父さんと母さんを殺したのは僕で、そしてそれはよくある意味での殺人だということ。
親が嫌いだとか、邪魔だとか、そんな簡単な理由で子供が親を殺す、これはそんなどこにでもある犯罪だ。
けして、姉さんが父さんと愛しあってしまったせいじゃない。
うまく動かなくなってきた手で腹部に突き立ったままの包丁の柄をシャツの裾で拭く。そしてまたその柄を何度も握る。僕の指紋だけが検出されるように。
もう、姉さんを守れるのは僕だけなんだから。
視界が薄れてきた。何かを言わなきゃいけない気がするけどわからない。
「ねえ……さん……」
「救急車を呼んだから!和くん、死なないで!私を一人ぼっちにしないで!」
最後に聞こえたのは姉さんの叫び声だった。
僕はそれに応えられないのがたとえようもなく悲しかった。
※※※
あれからしばらく時間がたった。
ぼくの家の事件ははじめは少しだけセンセーションに報道されたようだけど、結局はただの家族の軋轢の末の殺人ということで、あっという間に世間の話題から薄れていった。
それが僕の望んだことだった。
僕はいま拘置所にいて、裁判が始まるのを待っている。
姉さんは評判のいい私選弁護人をつけてくれようとしたけど、僕は拒否した。
罪を軽くなんかしたくない。
裁判でも、仕送りの少ないのが不満だったとか身勝手極まりない殺人の理由を述べようと思う。
行きたい大学より就職に強い大学に進むよう勧めた母が憎くてたまらなかったから、特にひどく刺したとも。本当はきっと、おなかの子供を殺された姉さんが仕返しにしたことだろうけど。
僕は死刑になりたい。
たとえば僕が有期刑になり出所したら、姉さんは何くれとなく世話を焼いてくれようとするだろう。今だって、殺人犯の姉だと言われながら僕のために走り回ってくれてるんだ。
『苦しんでいたのをわかってあげられなくてごめんね』と言いながら。
でも僕が死刑になれば、死んでしまえば、姉さんは少しずつ僕を忘れてくれる。
姉さんが自分のしたことを思い出す可能性も減る。
それが僕にとって一番大事なことだ。
姉さんは父親とは愛し合っていない。そのせいで母親とも憎み合っていない。父親の子供がおなかにいたこともない。
僕は正しい歴史を作ることができる。
ひらり。
鉄格子の隙間から桜の花びらが落ちてきた。
あの日の姉さんに降り注いでいたものとよく似た色をしていた。
姉さん、姉さんは僕に何度も「どうして」と聞いたね。
あのときはどうしても言えなかった。この答えだけは絶対に言ってはいけないと思ったんだ。
「だって、僕も愛してるんだよ、姉さん」
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