白蛇の憂鬱
碧 合歓
短編
青々とした木々からの木漏れ日が清らかに流れる川を照らす。それを眺めながら、白蛇神社に住まう土地神、白露は白薄橙色の瓜実顔に憂いを滲ませ溜息を一つ、朱色の瞳が見つめるのは川沿いに建てられた自身の居住である小さな祠。
もう数十年の間手入れされてこなかったそれは瓦に苔が生し、御神体である石像ですら苔に覆われ始めている。
祠周辺は日々掃除をしているため比較的綺麗で雑草一つない。そのまま祠自体も自ら掃除をすればいいのだろうが一応神である。いくら成り上がりの神、それも小さな神といえども自身の御神体を自分で掃除するのは屈辱だった。
しかし、このまま掃除をしなければ緩やかに風化し自身も消滅してしまうのも事実。そうすれば高天原へと導かれるか、神から一転邪の気に侵された獣に堕ちるかの二択しかない。そこら中にいる小さな土地神の一柱である私は後者の可能性が高い。それは勘弁してほしいのだが、現状延命するための術がない。
このジレンマによって、美しい顔は現在、美女がしてはいけない一歩手前の苦悩の表情へ歪んでいる。
何日目かの自問自答にうんざりして、白露はおもむろに着物の帯を緩め始めた。
衣服すべてを祠の前に畳んで置くと川の中に身を沈める。
「まこと良い心地だ。もう悩むのにも疲れた」
清らかな水で体を洗い清める。もともとシミの一つもない体を透明な水が伝う。その水が先ほどまでの心のくすみも流してゆく。
すると色白だった白露の肌にポツリポツリと純白の鱗が現れ始めた。それは両腕と肩、太腿を覆う。
雨の神の僕である彼女は蛇の姿を持つ、そのため気が緩むと蛇である神格が身体に現れるのだ。しかし、力を失ったいま彼女にはこの姿が限界であった。
その半端な我が身を眺め顔にはまた暗い影が差す。
瞬間、祠の方から枝を折る音が響いた。いつも現れる森の獣かと思い振り返ると、幾年ぶりに見る懐かしい姿が瞳に映った。
祠の陰で怯えながらこちらを伺うのは白露の三分の二程度の身の丈の童だった。
人の子が祠へと近づくのはいつ振りか、先ほどまで驚いていた表情は懐かしさと愛おしさに緩む。
「童よ、何用でここへ来た」
はじめは怯えた様子だった童は祠の陰から小声で話し出した。
「友達と遊びに来たら森の中で迷って……、お姉さんはどうしてここに」
「私はここに住まう神だ、おぬしが隠れている祠は私のだ」
それを聞いた童は祠から離れて白露の前に飛び出た。
「ご、ごめんなさい。ここが、か、神様のお家だなんて思わなくて」
怯えから一転、童は全身を緊張にこわばらせて立っていた。久方ぶりにあった人間は欲求不満な白露の嗜虐心をくすぐる行為ばかりする。
それに神への畏怖も忘れていない殊勝な童だ。これは使えると白露は考えた。
「そう畏まらずともよい、私は寛大ゆえな。それで童よ、一つ御用を聞いてはくれぬか」
「はい、か、神様の頼み事なら喜んで」
童は白露から視線を逸らしつつ首を縦に振る。
「うむ、ありがたい。では早速、私の祠を掃除してくれぬか」
それから一時間程、白露の頼みを聞いた童が掃除した祠は見違えるほどに綺麗になっていた。
傷んでいるところはどうしようもないが、御神体と瓦は苔が綺麗に削がれ緑色から灰色へと戻っている。
それを眺め白露は体の内に力が少し戻ったのを感じる。
「神様、祠の掃除終わりました」
少し息を切らせた童が川の中で立つ白露の元へとやってきた。
「ご苦労、良い働きだった。何か欲しいものはあるか」
「そんな! 神様から物はもらえません。それに、僕は神様のは、裸を……」
童の声が尻すぼみに小さくなっていく。何事かと頭を回すがわからない。
「どうした童よ、そのように恥ずかしがって」
恥ずかしがる、そう童は恥ずかしがっているのだ。何に対してかと考えると一瞬で思いあたった。
それは白露の姿だ。白露は未だに水浴びの最中、裸のままだった。
理解した白露は蛇のように細く先端が二又に分かれている舌で唇を撫でる。
その顔に浮かぶのは、獲物を見つけた肉食獣のそれだった。
「お主、私の裸を見るのが恥ずかしいのか?」
ニヤリと白露が問う。
途端に童は動揺して視線を彷徨わせる、時折白露を見ながら。
「何を恥ずかしがる必要がある。私は神だぞ、その裸を恥ずかしいものだとお主は申すのか?」
その言葉を聞いて童は氷のように固まる。
今、童は究極の二択を強いられている。女性の体を直視するという男にあるまじき行為をするか、見ずに神様の裸を愚弄するか。
答えは決まっている、神様を愚弄するなら見るべきだ。
白露はその時を待ちながら、顔が緩まぬように冷静に務めた。
幾年も人の子を見かけていない白露は人に飢えている。
要するに。
チヤホヤされたかったのである。
しかし、そんな感情は次の瞬間に裏切られることとなった。
目の前で顔を真っ赤にした童が。
「ごめんなさい‼」
脱兎のごとく森の中へと走っていった。
その場には、呆けた顔の全裸の神様が残された。
***
涼は来た道を覚えているままに走った。
頭の中は沸騰しそうなほどに熱い。
考えることは一つ、「どうしよう」だ。
神様の前から逃げ出した涼はきっと
それが怖い、しかしこうする以外に涼はどうすることもできなかった。
神様の裸を見るなど恐れ多く、まだ十一歳の少年には刺激が強すぎる。
そんな理性とは裏腹に涼の脳裏には祠の陰から見た神様の裸が鮮明に焼き付いていた。
雪の様に白い髪、涼の母よりも大きな胸、体を所々覆う髪よりも白い鱗に……。
「うあぁぁぁぁぁぁ!」
無意識のうちに再生された描写を消そうと涼は叫んだ。
叫び声をあげたまま涼は森を走っていく。
森を抜け家に着くころには空は薄暗く地平線に赤みを残すのみとなっていた。
帰りが遅くなり母に叱られた涼は、罰が当たる恐怖と母に怒られた悲しさの板挟みで枕を濡らしながら一夜を過ごした。
それを白露が知るのはまだ先の事。
次の日の学校の帰り道、森をそって続く通学路を歩いていると昨日森に迷い込んだ場所で立ち止まった。
今日一日、罰が当たる事はなかった。それでも、やはり神様に昨日逃げ出したことを謝ろうと涼は森の中へと入って行く。
三度目になる森の道を迷うことなく祠のある川沿いに進む、そこには祠の陰でじっとしている一匹の白蛇がいた。
その白蛇に涼は話しかける。
「あのー、神様ですか?」
白蛇は涼を視界に収めると、ほのかに光ると昨日と同じ女性の姿になった。
「おぉ、童よまた来たのか」
「はい、昨日は逃げてしまってごめんなさい」
そういって涼は頭を下げる。
下げた頭に神様の手が優しく置かれた。
「良い、頭をあげよ。謝るのは私の方だ、少し悪戯が過ぎてっしまった」
それを聞いて涼は呆けた。
「私の御用を聞いてもらったにもかかわらず大人気のないことをした、すなない」
そう言って神様が頭を下げる。それを見て涼がまた慌てる。
「わぁっぁ、神様、頭をあげてください!」
「そうか、ならば昨日の褒美をやらなばな」
神様は祠の中から小さな袋を取り出して涼の手に握らせた。
「これは、何ですか?」
「お守りだ、私の鱗が入っている。お主に幸を運んでくるだろう」
涼はぎょっとした。手の内の中には目の前の神様の鱗が入っていると。涼は年の割に大人びており物欲も少ない少年だった。だからかそんな代物を受け取るわけにはいかないと考えた。
「そんなっ、神様の鱗だなんて受け取れません」
「良い、お主はそれを受け取るに足りる働きをしたのだ。神が褒美をやると言っているありがたく受け取るのが人の子というものであろう」
「あっ、ごめんなさい」
涼は白露に渡されたお守りを握りしめる。
「素直でよろしい、童よお主の名を聞いてよいか」
「喜んで。神木涼です」
「神林涼か、よい名だな。して涼よ、また御用を聞いてほしいのだが」
神様が先ほどより柔らかい雰囲気をまとい目線を涼と合わせると。
「私の祠は見ての通り人の子が来ずに掃除がされぬ。たまにでよい祠の掃除をしてはくれぬか」
涼の至近距離に神様の顔があった。その顔と声、雰囲気に何を感じ取ったのかその時の涼には言い表せぬ感情が芽生えていた。
ただ、漠然とあった気持ちは「この神様を放っておけない」、そんな感情だった。
「わかりました、たまにとは言わずに毎日来ます」
「ありがとう、私は善き人の子に出会えたようだ。私の名は白露、これからよろしく頼むぞ、涼よ」
***
それから涼は毎日、白露の元を訪れるようになった。
***
「ふふっ、お主と出会ってもう六十年になるな」
白露は涼と出会ったころを思い返して頬を緩める。
六十年前と変わらぬ姿のままの白露が涼の手に自身の左手を重ねる。涼の手には幾重にも皺が刻まれ時の流れとともに存在の違いを主張する。
「そうですね白露様、貴女は初めて出会ったころと変わらずに美しい」
「それに比べてお主は年をとった」
空いている右手で涼の頬を撫でる。その体がかすかに震えているのがわかる。
寿命だ、彼は人として十分に生きた。もう、一年と経ずに寿命で息を引き取るだろう。神である白露には何となくだが理解できた。
そして、それを涼自身も理解している。それでもなお、そばにいるのだ。
「お主は見かけによらず頑固だな」
「頑固とは失礼な、一途だと言ってほしいものです」
冗談を言える元気に不思議と白露は安堵していた。
「残念だが、私は神だ。お主とは共に生きてゆけぬ」
「そうでしょうとも、私は人の身。どうしようと僕が夢見た一生は過ごせませんでした、でもそれ以上に幸福な生を送れて、僕は幸せですよ」
これ以上、白露とともに生きることができないことを心底悔しがり死を恐怖しながらも涼の顔には満ち足りた笑顔があふれていた。
それを見て白露は何度目かの自問自答をする。
もう、認めてもいいのではないだろうか、と。彼は十分に私に尽くしてくれた。私も神の身として十分我慢したのではないか。
それに、ここまで色々な事があった。
ある夏に、涼が持ってきた花火セットでボヤを起こしかけた。しかし、人と見る花火には言い難い綺麗さがあって。
ある秋に、涼と食べた焼き芋があった。熱さで涙が出たが優しい味がして。
ある冬に、涼とともに祠の雪かきをした。木から落ちてくる雪で涼が危うく死にかけて。
思い返すと、いつごろからの白露の思い出には常に涼がいた。
涼の顔を見ていると胸が苦しくなる、じきに彼の顔が、声が、体温が、優しさが私のもとから離れて行ってしまう。
苦しい、辛い、悲しい、あえなくなった後、だんだんと水に溺れる記憶が怖い。
消えゆく記憶の恐怖と孤独の寒さを思い出した瞬間、白露の誇りという壁が崩れ去った。
病気のために細くなった涼の体を力いっぱいに抱きしめる。抱きしめて涼をこの身全てで感じる。
「すまぬな涼よ、お主の気持ちに、私は惚れてしまったようだ」
涼の方は現状を飲み込めずに硬直していた。ただ、とても幸せな、一生で一番聞きたかった言葉を聞いたのだけはわかった。
「白露様、どうして今……、やっと、ですか」
つぶやく涼の声が湿り気を帯びる。自分の空いている両手をどうしていいかわからない。
「あぁ、やっと、やっとだ。お主の気持ちが私の神としての意思を崩した。お主の一生が、毎日が、私に捧げたお主の愛が。私の中の女の部分が人の温かさを思い出してしまった、もう我慢できぬのだ。また一人になるのが怖いのだ。……失いたくないのだ」
自然と涼の腕が白露を抱いていた。涼の瞳からは涙があふれ白露の着物を濡らす。
「もう、その言葉が聞けただけで生きていて幸せでした。そう言ってくれた白露様がそばにいてくれるだけで私の人生は幸福だったと自慢できます」
「そうだな、たしかにお主の人生はもうすぐ終わってしまう。だが、それが今の私にとってはうれしくもある。のぉ、涼よ、私と永遠を添い遂げると誓うか。私は誓おう、お主の気持ちにこれからの私の
涼は白露から体を離し、白露の朱色の瞳をまっすぐと見据えた。
「誓います。私の一生は貴女に捧げてきました。私はとうに貴女のものです」
「そうか」
白露は一言つぶやいて。
涼の胸に、自らが隠し持っていた短刀を突き刺した。白露の瞳と同じ真っ赤な血が短刀を伝い純白の鱗を赤く染めていく。
「涼、これでお主は永遠に私とともにある」
「えぇ、白露様の腕の中で死ねる。こんな幸せなことはありません」
涼はこわばる体をそっと預けた。それを白露は愛おしそうに抱き留める。
「一年だ。一年の辛抱だ。来年の夏、お主を迎えに行く」
それを心地よい微睡の中で聞き届けた涼は、静寂が覆う闇に温かく飲まれていった。
「涼、次に目が覚めるときは。私はお主の隣だ」
右手を濡らす血で紅を引く。
これは数百年我慢した、白露のわがまま。
先にいただいてもきっと涼は苦笑いとともに許してくれるだろう。
夕焼けの中、白露は愛する人に身を重ねた。
白蛇の憂鬱 碧 合歓 @yukarimidori
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