雨を飲む

風都

第1話 雨を飲む


 空から降るものは汚いから食べてはいけない。


 幼稚園の先生が言い放った言葉は、当時空から降る雨を喜んで口に受け、雪を食べ漁っていた僕らには、まさに青天の霹靂であった。あれから僕は、隣でむしゃむしゃと雪を食むヤツがいても、雨を飲み雪を食べる気にはなれなかったのだった。





 部活が早く終わったので、気分が良かった。さっさと着替えてさっさと家に帰ろう。そして、さっさと寝ようと思っていたが、玄関を出てすぐシトシトと雨が降っているのに気がついて、一気に気分が萎えた。


 駅まで歩いて20分。

 走れば10分。

 まぁ、次の電車は1時間後。


 部活で疲れているのに、竹刀やら道着やらを担いで走ってられるか。ゆっくりと、僕は鞄に入れていた折り畳み傘を取り出す。パッと音がして、モスグリーンの空が出現した。

 竹刀、道着、リュック、傘。

 高校生は、荷物が多くて大変だ。


 疲れた、腹減った。疲れた。


 トボトボと歩いていれば、目の前に同じ制服を着たクラスメイトがぽつんと立っていた。高校入学を機に久しぶりに再会した、同じ幼稚園のヤツだ。古い記憶では長い三つ編みを背に垂らして、おまけに鼻も垂らしていたような子供だったのに、制服を纏い髪を後ろでひとつに束ねれば、別人のように大人に見えた。ヤツは僕のことをやけに“大人になった”と、まるで親戚のおばちゃんのように嬉しそうに見ていたが、僕の成長だってヤツには敵わなかった。

 メガネに水滴がついていようと、その後ろ姿は曇り空の下ではっきりと見えていた。それは単に、赤い信号機がヤツを赤く縁取っていたからだ。

 少し息を整えてから、ヤツの隣に立つ。


「何してんの?」

「うわっ!びっくりしたーー!たっちゃんか……」


 ヤツは、僕を見ると目をまん丸くしたものの、すぐさまヘラヘラと笑った。

 不愉快なことにヤツは、僕のことを未だに“たっちゃん”と呼ぶ。それは幼稚園の頃の呼び名で、もうその呼び名で僕を呼ぶ奴は、ヤツしかいない。今は、クラスメイトの前では注意して呼ばせないようにしているが、いつ口を滑らすか気が気でない。

 それでも、たっちゃんと呼ばれたら気恥ずかしさと懐かしさでぐちゃぐちゃになっている、僕の気持ちなど、ヤツは御構い無しなのだ。余裕そうな笑みが悔しい。


「だから、何してるんだよ」

「え?ま、まぁ……五月雨じゃ、濡れていこう……的な?」

「何それ」

「ハハ、傘忘れただけなんだけどさ〜」


 信号が青に変わると、僕らは歩き出した。ヤツはすでに全身濡れていた。ベストを着ているものの、夏服なのだ。シャツが肌に張り付いて、ヤツの細い腕をくっきりと浮かび上がらせている。ひとつに束ねてある黒髪は一層艶を増して、まるで平安時代とかの歌に出てくる姫を連想させた。

 馬鹿野郎、と自分に喝を入れたくなった。


「傘、入るか」


 ヤツの身を慮っているのもあるが、それは自衛のためでもあった。しかし、ヤツは眉毛を八の字にさせてふるりと首を振った。


「駄目。ありがたいけど、それは無理なんだ。ああ、そんな顔しないで。でも、たっちゃんの優しさは冷え切ったこの身に染み渡るようだよ!缶コーヒー飲んだ時みたいに」

「そうか」


 傘をさしている僕と、雨を纏うヤツは2人でテクテクと歩いた。

 ヤツは僕に一緒に帰ろうと言った。初めてのことだった。ヤツの家は、駅の近くにあるらしい。水たまりを踏んで歩いた僕のスニーカーは、もう水を含んでベショベショだったが、気にはならなかった。

 紫陽花が露を乗せて輝いている。


「寒くないか。ジャージ、貸してやるけど」


 2度目の交差点に差し掛かった時、僕は脳裏にリュックの中身を描きながら、ヤツに聞いた。道着は臭くて無理だが、ジャージの上なら貸してやれるかもしれない。

 まぁ、断られるのがオチなのだが。


「ごめんね」


 やっぱり。言わなければ良かった。

 後悔が身に押し寄せて来る。暗くなりそうな僕を、ヤツはそっと掌で掬い上げた。


「飴でもたべる?」


 昔からある、金色の包み紙の飴を僕に差し出し、自分も頬に含んでいる。

 ヤツの頬っぺたは、昔から桃色で柔らかそうで、ふっくらしている。はるか昔の記憶は、ヤツが年下にいじめられて泣いていた記憶、花を摘んで嬉しそうにしていた記憶、笑う顔。全く、見た目だけは随分と大人になったようだ。

 変わらないものだけを見つめていることは、できそうにないらしい。


 じゃあ家こっちだから、と言って帰ろうとするヤツの後ろ姿に、僕はもう一度勇気を出した。


「……やっぱり、貸してやるよ」

「何を?」

「傘」

「悪いよ。たっちゃんが濡れて風邪を引いたら、申し訳ないもの」

「だったら、ジャージでも羽織れよ」

「……なんで?」

「な、なんでって、お前」

「私は風邪なんか引かないよ。馬鹿だもの」

「俺よりは馬鹿じゃないだろ」

「どうだろうね」


 体を冷やすな。

 そう言いたかっただけなのに、何故か沈黙してしまった。ヤツの頬に、雨粒が当たる。



「ッ……あぁ、もう!あーちゃん!」


 昔の呼び名は、口にするのに時間がかかった。でも、ヤツはちゃんと覚えていて、むすっとした顔で振り向いた。


「……何?」

「風邪を引いて欲しくないのは、俺だって同じなんだ!相合傘じゃなきゃいいんだろ?じゃあ黙って受け取れよ!この馬鹿!じゃあな!」


 モスグリーンの傘を押し付けて、僕はアイツの顔を見ずに、駅への道をスタスタと歩いた。



 僕にはまだわからなかった。あの子が慕う先輩、雨に濡れるのを嫌がってあの子に会おうとしない先輩のどこが良いのか。

 でも、あの子は先輩を選んだのだろう。

 一途で、賢くて、人を傷つけられない心根の優しいあの子が選んだ人なのだ。嫌な人ではなかろう。

 いや、ないと信じたい。

 でないと、僕は。


 ずぶ濡れのまま電車に乗り込めば、向かいに座ったおばさんはしかめ面をしていた。

 そんなの構わず、僕は暗くなりゆく車窓に肩頬をつけて、雨粒の伝う姿をぼんやり眺めていた。どっと疲れが出てきて、そのまま眠ってしまいそうだ。


 あの子を突き放してもなお、あの子がこれ以上雨に濡れずに帰れたかを心配せずにはいられなかった。雨に濡れて震えるあの子を考えて、交差点で1人佇む姿を思い出して、出したくもないため息が漏れる。


 窓を叩く雨が、車内の電灯の光を受けて輝くのを見て、僕はそっと昔のことを思い出した。


 幼稚園の時、雪が食べられないものだと知った。

 小学生の時、雨には体に悪い物や汚いものが多く含まれているのだと知った。

 中学生の時、雨は海の水が空に登り、山へと降りてきて川を流れ、やがてまた海へと還るのだと知った。


 雨雪がおいしく感じられたのは、いつまでだったか。

 隣で馬鹿みたいに口に雪を詰め込んでヘラヘラと笑っていたのは、誰だったか。


 あの子が流してきた涙も、やがて海に帰るのだろうか。そして再び、きっと大地へと降り注ぐのだろう。


 濡れたワイシャツの袖にそっと口付けてみた。何の味もしない。恥ずかしくなってそっと目を閉じた。

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