最終話 青い蝶の夢
目覚めると見慣れない白い花が描かれた天井。ここは白月宮の寝室だ。
「あれ? カズハ?」
一緒に過ごしていたカズハの姿が消えている。
畳まれていた上着を羽織り、狭い白月宮の隅々まで歩いてみても誰もいない。侍女すらいない。
居間の円卓の上には、青い蝶の簪と木で出来た扇が布の上に置かれていた。
「これは……」
昔、カズハに贈った手巾だ。布を手に取ると簪と扇が転がる。
青い簪の蝶が羽ばたいた。ふわりと飛び立った蝶は、部屋の中をふわふわと舞っている。捕まえたいと手を伸ばしてみても、手が届かない。
そのうち、青い蝶は光に包まれて消えてしまった。
簪に目を向けると青かった簪は紫色になっていた。驚いて手に取ると砂のようにぱらぱらと崩れて消えた。
僕の血の気が引いて行く。この簪は僕が皇帝であることの証拠だ。簪が壊れて無くなったことは、絶対に知られてはならない。
手巾を懐に突っ込み、迎えの華舟に乗り込んで王宮の寝所へと戻ると宰相セイランが待っていた。朝の挨拶に訪れたのだろう。これまでは左大臣の役割だった。
「セイラン、カズハが消えた」
僕の問い掛けに、ゆっくりと上げた金茶色の瞳は冷たい。
「離縁されたと聞いておりますが」
「馬鹿な!? 僕は離縁なんてしていない!」
叫んだ瞬間、胸元の隠しに入れた腕輪の硬い感触に気が付いた。……そうだ。皇帝は婚姻の腕輪を月妃から受け取った時点で離縁が成立する。
「理解して頂けましたか?」
「カズハは異世界人だ。この国で独りで生きていける訳がない」
イーミンは僕を裏切って逃げたけれど、カズハは絶対に逃げられない。そう思って安心していたのに。
「独りではありません。ご心配なく」
「誰と出て行ったんだ? あの侍女か?」
兵隊長レイシンと互角で戦っていた赤銅色の長い髪の女を思い出す。僕よりも背が高く、女としては不器量だった。
「どこにも逃げられないから、何をしてもいいと思っていたのではありませんか?」
セイランの指摘に僕は答えることができなかった。
月妃たちは美人ばかりで一緒にいると愚痴も言えずに気疲れしてしまうけど、カズハとなら気楽に過ごせる。これからは日替わりで月妃を楽しんでカズハの所で休む。そんな風に考えていた。
「カズハを探しに行く」
今朝出掛けたのなら、そんなに遠くには行っていないだろう。一緒に村に帰ればいい。
「皇帝をお辞めになるおつもりですか?」
「そうだ。僕には皇帝なんて無理だったんだよ。誰か他を探してくれ」
左大臣たちやイーミンが毎日優しくしてくれたから僕は皇帝を続けてきた。カズハも王宮からいなくなったのに、僕だけ残されるのは嫌だ。
「お辞めになるのなら、貴方が使ったお金を返済して頂きます」
紙に書かれた数字を見ても僕は理解できなかった。
「左大臣が皇帝には使う権利があるって言ってたから……」
「本当にわからなかったのですか? 仕事もせずに酒ばかり飲んで遊び続けていれば、どうなるか知らないのですか?」
セイランの冷たい口調は、僕の言う事をすべて聞いてくれた優しい左大臣とは全く違う。
「だって……左大臣が酒を飲んで楽しむのも皇帝の仕事だって……」
「本当にそう思っていたのですか? 毎日畑を耕し、布を織り、籠を編み、働く人々の姿を貴方は知っているでしょう? 皇帝だから貴族だからと税を集めるだけで遊んでいるだけだとしたら、どう思いますか? 皇帝も貴族も、それぞれの仕事や役割があるのです」
王宮に来た当初、たしかに仕事が沢山あった。早朝から夜までの皇帝の職務は、村で畑を耕す方が楽だと思う程だった。
疲弊していく僕を見かねて、左大臣が職務を減らしてくれた。どうやったのかはわからなかったけど、僕は難しい字が並ぶ書類に皇帝の印を捺しただけだ。
「ここに書かれた金額は民が納める税の十年分です。それを貴方はたった一年で使い果たした」
目の前が真っ白になった気がした。十年分と聞いて恐ろしく沢山のお金を使ってしまったのだと理解できた。
「皇帝の勤めを果たされて、この金額を補填できたら辞めて頂いて構いません」
「……何年掛かるんだ?」
「それはわかりません。この国が栄え安定し、民が富むようになれば納められる税の金額も増えます。逆に民が困窮すれば、納められる税の金額は減る」
「次の皇帝候補がすでに王宮入りしておりますので、全額返済して頂ければいつでも辞めて頂けます」
数日後、皇帝の血を持っているという地方貴族の少年が皇子の位についた。本が好きだと言うリキョウは僕よりも勉強熱心で、いつも本を抱えている。作法も立ち居振る舞いも僕と違って完璧だ。
貴族の娘が誰も青月妃になりたがらないので、リキョウが青月妃の替わりに皇子として行事や祭祀に参加するようになった。
そうして僕はお飾りの皇帝になってしまった。
着せられる装束が重くなり、走ることも出来ず歩くのがやっとだ。毎日、決められた仕事を淡々とこなす。左大臣たちに凄いと言われていたことは、皇帝にとって当たり前にこなすべきことばかりで、誰も褒めてはくれない。
毎朝祭祀を行い、朝議に出て、書類を決裁し、学者の講義を受ける。食事中でも貴族たちと政治の話を交わさなければならない。知らないこと、わからないことだらけで、セイランや貴族たち、官吏に教えてもらうことばかりだ。夜は日替わりで美しい月妃たちを抱いて寂しさを紛らわせる。
そんな日々を繰り返す中、僕は気が付いた。
僕を慕ってくれている月妃たちも、よくよく見れば平民だった僕を嘲っている。月妃たちの言葉や態度はイーミンと同じで、すべて演技だと気が付いて月宮へ行くのも億劫になってきた。
貴族たちも僕が十年分の税を使い果たした愚かな皇帝だと心の中では笑っているのかもしれない。
多くの人々に傅かれていても、僕は独りだ。
寂しくて寂しくて、どうしようもない。
せめてカズハがいてくれたらと思い、探すようにと命じると、連れ戻すのは容易ではないとセイランも新しい兵隊長も答えた。
カズハは僕が遊んでいた間に青月妃として国中に奇跡を起こしていた。皇帝の替わりに地脈を癒し、豊かな実りを実現させていた。
おそらくは皇帝以上の神力を持つカズハが自分の意思で出て行ったのなら、この国の誰も止めることはできないとセイランは言う。
後宮に入ってからのカズハについて、知らなかったことが多すぎた。僕はイーミンの演技で騙されて、イーミンのことばかり考えていた。
「貴方はカズハ様を蔑ろにしていた。貴方が先にカズハ様を捨てたのです」
セイランの指摘が胸に刺さる。連れ戻す資格があるのかと無言で問われているような気がする。
カズハを捨てたつもりはなかった。ただイーミンに夢中になって、忘れていただけで。……そうか。だから僕は捨てられたのか。
季節は流れ秋になり、去年に続いて豊かな実りがこの国全てを覆いつくした。
皇帝の執務室には、民からの感謝の言葉が書かれた竹簡や手紙が届けられている。本来は宰相が選別して皇帝にまとめて報告すると聞いていたけど、僕は全部を手にとってみたいと願った。
少し疲れて手を止めると、セイランが疲労に効くという花茶を淹れてくれた。
「カズハは今、どこにいるのだろうか」
「楽しく旅を続けているようですよ」
「……それは良かった」
カズハと共にいる侍女はセイランに手紙を送ってくるらしい。詳しいことまでは教えてくれない。
僕はどこで間違ってしまったのだろうか。イーミンの演技に惑わされず、カズハだけを妻だとしていれば、独りになることは無かった。
忘れていてごめんと一言だけでも直接伝えたい。カズハに謝ることができないことが、これ程苦しいとは思わなかった。僕は一生、この気持ちを抱えていくのだろう。
「僕がこの国の為に出来る事はあるか?」
カズハが暮らすこの国を良くしていくことしか、カズハに何も返せない。
「はい。御座います。途絶えてしまった祭祀の復活と正しい祭祀を行うことで、この国を護ることができます」
「その祭祀はどうすれば復活できる?」
「初代皇帝が記された巻物に書かれています」
「そうか」
僕は毎日、時間ができれば初代皇帝の巻物を開くようになった。難しい箇所はセイランに教えを乞い、読み解いていく。
神が存在しなかったこの国へ神を招聘した理由と意味、初代皇帝の思いが少しずつ伝わってくる。神は存在している。巻物を読めば読む程、疑いは消えて確信へと変わり、神への感謝の思いが心の底から湧き出てくるようになった。
僕の血には、初代皇帝の想いが長い時間をかけて受け継がれている。この国を護り、民が平穏無事に暮らせるように力を尽くすこと。それが皇帝の役目だ。決して贅沢をするために存在している訳じゃなかった。
窓から見える青い空には赤い月と緑の月が輝く。カズハも同じ空を見ているかもしれないと思うと、胸が温かくなる。
『悲しい時も笑顔を作って前を向く! そうしたら、きっといいことがあるのよ!』
村にいる時、カズハは口癖のように繰り返していた。それはきっと、カズハ自身が悲しみに沈まないように自分を奮い立たせる言葉だった。カズハが笑いながら言うから、僕は全然その隠された意味に気が付かなかった。
僕も前を向こう。作り笑顔もいつか本物の笑顔になるとカズハのように信じよう。
完璧な皇帝にはなれないと思うけど、僕は僕なりに頑張ってみるよ。
だから、カズハ。どうか幸せに。
後宮青月妃伝 ―IF― ヴィルヘルミナ @Wilhelmina
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