第3話 また

「終わりました……」


 優太の手がとまったとき、ほとんど日が沈みかけていた。それでもかろうじて届く太陽光の中、彼は見事に描き切ってくれた。


「……着替えて下さい」


 優太はよろよろと立ち上がってこちらに背を向けた。白いシャツがくろ西日オレンジの二色に染まっている。

 私は無言で指示に従う。

 果たしてどんな出来上がりになっているのか、口からすべての内臓が飛び出しそうだった。



***



 完成した絵は、とても美しかった。


 繊細な線で描かれた女の子が、白い紙の中からまっすぐこちらを見つめてきている。尊敬と思慕、そして欲望がたっぷり詰まった瞳。今にも泣き出しそうなほどの悲哀と、今にも笑い出しそうなほどの歓喜を湛えている。

 私はこんな目をして優太を見ていたんだと初めて知った。


 小さな胸も、バスケをやめてちょっとたるんだお腹の肉も、太もものホクロも、短く整えたアンダーヘアも私そのまま。顔だってブスじゃないと思うけど、特段美人というわけでもない。


 でも――優太の目から見た私は、こんなに美しかったんだ。

 まるで女神様のよう。


 もちろん、誇張や装飾もあるだろう。でも、嫌いな相手や興味のない相手をこんなにも美麗に描いたりはしない。

 涙があふれ、嗚咽が漏れる。

 まだ泣いちゃダメだ、ちゃんとお礼を言わないと。


「……ありが、とう」

「……どういたしまして」


 優太はただそれだけ言って、再び椅子に座り込んだ。泣く私に呆れているわけじゃなくて、とても疲れているようだった。全身にすさまじい疲労感が滲んでいた。それだけ集中していたんだ。

 私はその曲がった背中を抱き締め、無防備なうなじにくちびるを乗せる。優太はぴくりと反応したあと、私の手をそっと握ってくれた。


 日の落ちた真っ暗な美術室で二人きり、それがとても心地よかった。

 心がすっきりと晴れている。

 『タイタニック』を観てから私の胸に渦巻いていた歪んだ欲望は、すっかり落ち着いてしまったようだった。だって、こんなに最高の形で発散されたのだから。


 しばらくすると、回復したらしい優太が振り向いた。


「この絵、どうしますか……? 他の人に見られたらヤバいですよね……」


 と、心の底から困ったように言う。

 映画の通りなら、金庫にしまうのがいいのかもしれない。でも、高校生の私たちには金庫なんて用意できない。


「とりあえず画材置き場の奥にしまっておこう。あんなとこ、誰も見ないでしょ」

「う~ん……。そ、そうですね……」


 優太は『本当に見つからないかな』と言わんばかりに首をひねったけれど、最終的には納得してくれて、埃をかぶっている画材とかをどかした奥にクロッキー帳ごと封印した。


 手元になくてもいい、私は紙の上に顕現した女神をしかと記憶した。優太だって、その頭の中に私のすべてを記憶してくれただろう。



***



 それから半年後、優太は転校することになった。

 両親が離婚するから、お母さんについて行くことになったんだって。


 放課後の美術室でそれを告げられ、私は咽び泣いた。

 そんな私の肩を抱いて、優太は涙の一滴もこぼすことなくただうつむいていた。それがますます悲しかった。

 もしかしたら、優太は私と離れることができて安心しているのかもしれない。もともとは、私が強引に付き合おうって言ったんだから。しかもヌードなんて描かせて……。


「あの……」


 不意に優太が言葉を発した。一体彼の口からどんな台詞が飛び出すんだろう。明確なお別れの言葉だろうか。


「母は、僕が絵を描くことを反対してないんです」

「え……」


 予想外の言葉に、腫れぼったくなった瞼を無理矢理開いて優太を見る。彼はとても柔和な表情をしていた。

 ああ、お父さんとお母さんが離婚して、優太はホッとしているんだ。私には想像もつかない、複雑な家庭の事情があるんだろう。

 だから、優太にとってはよい結果になったんだ。これからが彼の人生のスタートなんだ。

 私のことなんてすぐに忘れてしまうに違いない。


「そっか……よかったね。たくさん描いて」


 半ば投げやりにそう告げ、私は手で顔を覆った。

 彼の門出を喜ばなきゃいけないという義務感に駆られて、でもうまくそれができなくて、不細工な顔になっているだろうから。未だかつてないほどに、目から涙が噴出する。永遠に止まらないのではないかと思うほど。


 いっそ、脱水症状で死んだっていい。

 そんなふうに厭世的な心境になりかけていたときだった。


「――だから、またいつかあなたの絵を描かせて下さい」


 私の耳の届いたその一言に、ぴたりと涙が止まった。


 その言葉は、この場しのぎの安い慰めじゃないってわかったから。

 確実に『また』があると思っているから、優太は泣かないんだ。


 再度優太を見ると、眼鏡の奥の黒い瞳がまっすぐ私を捉えていた。その名前を体現するかのような、優しさのたっぷり詰まった目。暖かい春の日差しのような、とても彼らしい目。

 絵を描いているときの研ぎ澄まされた刃のような顔も好きだけど、今の表情も大好きだ。


「東京と愛知なんて新幹線であっという間です。夜行バスもあります。バイトもするし、お年玉貯金もあるから、すぐに会えます」


 口数少ない優太がこんなにも饒舌に話すのは、初めてかもしれない。


「ほ、ほんと?」


 彼が嘘なんてつくはずがないと知っていながら、尋ねずにいられなかった。それがワガママだとしても、得られる限りの言質げんちが欲しかった。


 優太は震える私の手をぎゅっと握ってくれた。


「僕、あなたに会えてよかったって思ってます」


 情熱的な言葉に、私の脳がゆだる。


「あなたがいなかったら、僕は絵を描くのをとっくに辞めていたと思います。誰にも理解されず、薄暗い美術室で孤独に耐えられなくて、きっと鉛筆と画帳を捨てていました。でもあなたが側にいて、僕の絵を見て、褒めてくれて。とても嬉しかった」


 薄暗い美術室の中なのに、優太の目はキラキラと輝いているようだった。


「ヌードを描かせてもらったときも、すごく嬉しかった。僕の絵だけじゃなく、僕自身のことも心から信じて、認めてくれているんだって」


 私は優太の気持ちを初めて耳にした。いつも私が一方的に喋っていたから。

 胸がいっぱいになって、なにも言えない私に、優太は額を寄せた。おでことおでこがコツンとくっつく。

 これは、優太なりの『キス』だってわかった。シャイな彼の精一杯の愛情表現。


「だから、あなたは僕の大切な人です。絶対にこれっきりなんて言いません」


 引っ込んでいた涙が再び湧き出す。彼らしくない、力強い言葉がとても嬉しかった。私はこくりと頷いた。


「うん、また会おう。……そしたら、また描いて」

「はい」


 優太は小指を掲げてみせた。差し出された誓約の証に、私はきつくきつく己の指を絡めた。


 今度はもっと大人になった私の身体を描いてもらおう。その日のために、もっときれいになろう。

 それから――そのときには、もっと大人の付き合いをしないかって提案してみよう。


***



 私のヌードが描かれたクロッキー帳は、あれからずっと美術室に置いてある。画材置き場の奥の方で埃をかぶっていたから、間違いなく誰にも発見されていない。


 卒業式の日、そのことを確認した私は、そっと美術室を後にした。

 映画『タイタニック』のように、数年後、数十年後、見知らぬ誰かが発見してくれたらいいって思ったから。

 発見した人が、この絵の描かれた経緯とかをあれこれ想像して、悩んで、テレビ番組とかに『この絵の作者とモデルを探してくれ』なんて依頼しちゃったりして。

 そうなったら面白いな。


 スマホの電源を入れると、優太からメッセージが入っていた。


『卒業おめでとうございます。春休み、会うのを楽しみにしています』



【了】

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