鎖の男 第6話

 気がつくと俺は病院のベッドの上にいた。


 俺の帰りを心配していたおふくろや親父に見守られながら一日眠っていたようだ。


 極度の栄養失調に陥っていた俺の身体からは、覚醒剤に似た成分の薬物が体内から検出された。おそらく排水溝から流されていた残飯に含まれていた何かだろう。しかし、それは法的に禁止されていない薬物であるために何も問いただされることはなかった。


 警察にこの数ヶ月間どこにいたのか、何度も聞かれた。俺が突然いなくなったことや、潰れた左目について事件性があるのかどうかを確かめているのだろう。だけど俺は何も肝心なことは答えなかった。


 「自分でたぶんやりました」


 それ以外面倒くさくて答える気がしなかった。答えたところで俺の潰れた左目は戻ってこない。


 睦美のことも、自殺したであろう男のことも、自分が殴った女や半殺しにした男のことも・・・・・・口に出したくなかった。忘れたかった。疲れた。何も見たくないし、聞かれたくない。これ以上、彼らに関わる気力が無かったのだ。


 何ヵ月かぶりにまともな食事が与えられ、好きな時に水が飲めるようになった。衣服が与えられ、快適に体温調節が出来るようになった。清潔な空間で何にも怯えずに眠ることが出来るようになった。やがて大学にも通うことが出来るようになった。また近所のラーメン屋に行くことができるようになった。


 俺のもとに、元の平凡な生活が戻ってきた。


 しかし身体は元に戻っても、脳にはしっかりとあの日の記憶が刻まれたままだった。

 平穏な環境下でも、過去の酷い生活を何度も繰り返し夢に見たり、ふとした瞬間に怒濤のように記憶が鮮やかに蘇ったりするのだ。当然、そこには睦美がいた。



 大学の名簿で、鈴木睦美を探したがいなかった。

 彼女のことを紹介してくれた友人に尋ねると、ずいぶん前に大学を辞めたらしい。そして、彼女が複数の男性から金を借りていたことも知った。その上で、彼女がどこに今住んでいるのか、その後の情報を詳しく知る者はいなかった。


 そもそも彼女の個人情報を知る者などいなかった。睦美には、友達など一人もいなかったのだ。

 俺が知っている彼女の情報と言えば・・・・・・星座ぐらいしかない。

 出身がどこなのか、どこの高校に通い、どんなふうに過去から今までを生きてきたなんて、何も知らない。


 俺は退院してから、あのマンションに行ってみたことがある。

 606の表札は、「佐藤」から「田村」に代わっていた。赤と青の重厚な扉は、オートロックなので住人が磁気カードをあてなければ開けることは出来ない。

 俺は考えた。


 そもそもここに睦美は本当に住んでいたのだろうか?


 本当は別のところに居所があって、借金を返すために脅かされて、言われるがままに男を連れ込んでいたのではないか。彼女も見えない鎖に繋がれていたのではないか。

 ここは・・・・・・このマンションはそういう奴らが集合している場所なのかもしれない。


 そう思った時、俺の後ろを仲良さげなカップルが手を繋いで通りすぎ、マンションに入っていった。あの女も、隣にいる男をこれから鎖に繋ぐのだろうか。男の腕を握った女は、屈託の無い笑みを浮かべている。それを見ると俺は震えが止まらなくなり、そのマンションを後にした。


 鈴木睦美は、恐ろしいほど簡単に皆から忘れられていった。

 あれから一年経ち、大学で彼女の名前を口にする者はもういない。俺も彼女の記憶を塗りつぶすために、新しい彼女を作った。手も繋いだし、その先もあったし、新しい彼女は睦美のように俺に心配をかけたりしなかった。


 俺の平和な日常は続いた。


 それは本当に平穏で、安らかで、しかし恐ろしく退屈な日々だった。


 退屈の向こう側に「不安」という2文字がちらついた。それは、このまま「無」の日常が続いていくことへの恐れだった。


 俺は潰れた片眼の眼窩を指でなぞった。



 からっぽ。



 こんな顔じゃ就活も厳しいかな?

 いや、そもそも俺は何がしたいんだ?


 鎖に繋がれていたとき、俺は裸で何も出来なくて無力で何のプライドも無いと思っていた。しかし、鎖に繋がれていなくても・・・・・・最初から俺にプライドなどなかったのだ。


 こうしたいああしたい、未来のことや数年後の自分の姿、明日食べる食事や会うはずの人。一体なんのために?


  俺は未来のことについて、想像することが出来なくなっていた。価値が全く感じられなかった。ただ息を吸って吐いてを繰り返すこの毎日が。こうすべきああすべきと具体的な指示もなく、淡々と時間が過ぎる、自由すぎるこの世界が。

 どこまでいっても終わりの無い、俺の薄っぺらい日常が。


 その時、俺の脳裏に恐ろしい考えがよぎった。


 "また鎖に繋がれたい"


 鎖に繋がれている時、俺は憎しみや怒りに支配されていた。この鎖を外して、睦美を絶対に救い出すという使命に燃えていた。それが生きる原動力だった。しかし、自由になった今、睦美はもうどこにもいないし、俺に使命など無い。


 気がつくと俺は、誰もいない夜中の終電に乗っていた。

 

 池袋駅から、あの忘れそうな名前の駅へ。もう窓の外は真っ暗で、街灯しか見えない。その光の一粒一粒を見つめて、俺はひたすらこう思っていた。睦美に会いたい。睦美に会いたい。睦美に繋がれていたい。もう一度鎖に繋がれたい。


 誰もいない駅の改札をくぐりくけ、睦美が住んでいたマンションに向っていた。

 自然と胸が高鳴っているのがわかった。あの場所へ行けば、あそこで睦美を待っていれば、もう一度俺を部屋に入れてくれるかもしれない。

 鎖にしっかりと繋いで、密閉された風呂場の中に閉じ込めてくれるかもしれない。

 どんな男が来ようと俺は負けない。どんなやつが来てもぶん殴って殺してやるのだ。切り刻んでぐちゃぐちゃのバラバラにして排水溝に流してやるのだ。


 ああ、なんて懐かしいのだろう。脱出した時はあんなに怖くて仕方のなかった街並みが、愛しく感じられた。夜空に、見えるはずのない星達が、星座を作って輝いている。雨戸の閉まった家の犬が楽しそうに吠えている。俺はスキップをしていた。

 もうすぐ。もうすぐだ!

 レンタカー屋の角を曲がり、路地裏に入ればもうすぐそこは……―――


「え……」


 俺は立ち尽くした。


 睦美のマンションがあったはずの場所は更地になっていた。


 心にぽっかりと穴が空いた。あの風呂場にいたときのように、ひゅうひゅうと心に風が吹いている。確かにここにマンションがあったのに、綺麗に取り壊されて、土地が売られていた。元いた道を戻ったり地図で確認したりしたが、やはり睦美がいたマンションは解体されていた。


 俺は、もう睦美に会えないし、自分のことを鎖に繋いでくれないことを悟った。そして、逃げたはずの野蛮人が、あの日なぜここにいたのかも同時に理解した。


 そうだな。おまえの言うとおりだよ。睦美なんてもういないんだな。あいつもきっと、自分を繋いでた大切な人を探してここまで来て、いないということを悟ったんだよな。


 そして、俺と同じようにここで絶望をかみしめたんだ。


 ***


 あれから何年たっただろう。


 俺はサラリーマンになり、人並みの給料で人並みの仕事をし、毎日を順調に送っている。何人かの女性と付き合っては別れることを繰り返して、今の妻と結婚し、子供も生まれた。今は都心から少し離れた郊外の賃貸マンションに住んでいる。来年には家を買ってもう一人子供が生まれる予定だ。


「パパ、お誕生日おめでとう」


 今日は俺の誕生日。仕事から帰ると、笑顔の妻と子供がいて、俺のためにケーキを作って待ってくれていた。

「ありがとう!!」

 俺は3歳になる長男をだっこして、ケーキを口に運ぶ。ケーキはお寿司の後でしょう! と妻が笑いながら俺に注意する。俺は子供たちと笑いながらご馳走を食べて、記念写真をとり、SNSにアップする。その様子に、仲の良い同僚がすぐに反応し、「幸せな家庭」「おめでとう」「楽しそう」などとコメントをする。

 俺は「ありがとう!とても今幸せです!」とコメントを返す。  


 子供たちを風呂に入れて、妻と二人でビールを飲み、談笑する。やがて、子供たちと妻が眠る時間になり、俺は二人に「おやすみ、愛してるよ」と言ってキスをし、子供の背中をとんとん叩いて寝かしつけた。



 自室に戻った俺は、深いため息をついた。


「つかれた」


 鞄の中から、残った仕事の書類を取出して片付け始めた。薄いノートパソコンを開き、かたかたと無言でキーボードを叩く。俺は、パソコンの画面を無言で見つめていた。吸い込まれるように青い画面を凝視していると、一瞬ピンク色の服の女が見えた気がした。仕事が一段落した頃、時計を見ると2時になっていた。


 そろそろ大丈夫だろう。


 俺はポケットに入れてあった「残飯」を取り出した。柔らかい、ラップで包んである、ねっとりとした物質を指ですくい、べちゃべちゃと舐め始めた。

 そして、机の引き出しからもう何年も使っている金属の大型犬用の太い鎖を取り出した。それを自分の首に何重にも巻き付け、端をドアノブにくくりつけて、おもいっきり体重をかけた。自分の体重が首に集中して、頭に血がのぼる。視界が霞んで、耳がキーンと遠くなり、脳がぶるぶると震えて危険信号を発しているのがわかる。


 もう何度この行為を繰り返しているか定かではない。睦美がいなくなってしまってから、俺を繋いでくれる人はもう誰もいないので、自分で自分を鎖に繋ぐしかなかった。

 そうしないと、まともな頭で生きていけなかった。


 でもだからといって、睦美のことを俺はもう探さない。探したら、また彼女は見えない闇に繋がれてしまうだろうから。そして俺には、平凡だけど大切な家族がいるから。俺をとりまく人々が常にいるから。


 俺は一人で笑っている。

 真っ暗な部屋で自分を鎖に繋ぎ、残飯を舐めて笑ってるのだ。

 窓の外を見ると、真夜中なのに虹が見えた。

 それでいいと思った。









 今日も俺は鎖に繋がれています

 知ってますか

 今日も明日も

 またその次の日も

 ずっと永遠に

 鎖に繋がれているんですよ


 この重くて冷たくて

 いつまでも絶ちきることが出来ない鎖に

 俺は今も繋がれています


 でも死にません

 俺は絶対に自分で死ぬことはないでしょう

 なぜだかわかりますか?

 わかりますよね、あなたなら。


 知ってますか

 俺は今日も鎖に

 繋がれています


 今日も明日も

 またその次の日も

 ずっと永遠に

 繋がれています


 死ぬまでそれを繰り返します



【END】


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

鎖の男 紅林みお @miokurebayashi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ