鎖の男 第5話
「睦美じゃないよなおまえ?」
俺は思わず女に聞いたが、女は怯えて座り込んでしまい、動けないようだ。
がくがくと膝と唇を震わせて、俺を見上げている。
「ごめんなさい」
女はなぜか俺に謝った。
今まですりガラスから見えていたのは、睦美ではなくこの女だというのか?
俺の「違和感」が瞬く間に脳内に広がっていく。
そうだ。あのすり硝子からは確かに顔まではっきり見えなかった・・・・・・俺は、思わず後ろを振り返った。アキレス腱を切られて苦しんでいる男の顔も、よく見ると野蛮人の顔ではない。野蛮人の顔は、もっと積み重なった苦痛と怒りに満ちていたはずだ。
「おまえは誰だ。この男は何だ」
「ごめんなさい、やっぱり私にはできない」
「なにが?」
「扉を閉めることなんてできない! そんな残酷なこと私には……無理」
俺は思った。この女は誰かに脅されている。
とすると、やはりあの時睦美は脅されていたんだ。だから俺はここに鎖で繋がれていたのだ。そして、扉を閉めることが何かの見返りの条件だったのだ。
”私が来る前からここにいたんだよね。この人”
睦美が、あの日言った言葉が蘇った。
女は、瞼に涙をためていた。
「あなたは何も知らないでしょう? 逃げて」
知らない。俺は何も切らない。なぜこの女が睦美の部屋にいるのか、そしてあの包丁を振り回していた男が誰なのか。
でもこれだけはわかる。俺が来る以前に繋がれていた男でないのがわかる。新しく鎖に繋がれるために連れてこられた別の男だ。そして、この女はその男を連れてくるためにいる女だ。
俺はその事実が理解できた時、怒りとも悲しみともいえない、行き場のない感情がこみあげてきた。
「睦美はどこだ」
怯える女に怒声を浴びせた。
「ごめんなさい」
女は俺を怖がっていた。俺も女が怖かったから更に大声を出した。
「どこにいったと聞いているんだ」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
女は壊れていた。永遠とこの会話が繰り返されるのかと思うと、俺は嫌気がさしてきた。謝り続ける女を黙らせるために、俺は大声を出して女を殴った。生まれてきてから今まで、自分よりも弱い女を殴るのは初めてだった。それがいけないことだともわかっていたが、それ以上に俺は目の前で起きていることに関して、誰も信用することができなかった。
睦美のふりをしてきたこの女を見ていると、無性に腹がたった。
いつまたこの女もしくは男に鎖に繋がれるか、殺されるかわからない。やられる前にやらなけれらばならない。女を殴ったら、女の服のポケットから、鍵が出てきた。鍵は俺の首にとりつけられている首輪の鍵穴にぴったりはまった。
そういうことか。
俺は朦朧とする意識の中で、男が自分に鎖をつけたのではなく、睦美によってこの鎖がとりつけられたのだと理解した。そして、俺を残して扉を閉めていなくなったのだ。
鎖をはずし、気絶している男に首輪をつけかえ、鍵をかけた。服をはぎとって裸にした。俺ははぎとった青いTシャツと黒いパンツ、玄関に無造作に置いてあったスニーカーをはいて、部屋から飛び出した。
マンションから出ると、じりじりと照りつける日差しが俺の頭に降り注いだ。
把握しきれないほど大量の蝉の鳴き声が、熱されたアスファルトに跳ね返って耳に飛び込んでくる。道路沿いに並ぶ街路樹は果てしなく深い緑だった。
夏になっていたのか。俺が睦美の家に来たときは確か春だった。そして鎖に繋がれたのは秋頃だった。あれから数ヵ月も……いや、もしかしたら何年も経っているのかもしれない。
駅の名前も覚えていない、太陽に照りつけられた寂しい街を俺はさ迷った。
目が半分無いので、遠近感覚が麻痺していて真っ直ぐ進むのにも苦労した。自分が果たしてどこに行こうとしているのかわからなかった。元の自分の家に帰ろうとしているのか、大学に行こうとしているのか、空腹を満たすために飲食店に行こうとしているのかわからなかった。
睦美がいないのがショックで、彼女に会えないのが辛くて俺は泣いた。今度は血液ではなくて本当の涙だった。俺はまだこの後に及んで、彼女が好きだったのだ。
繁華街のようなところまで出ると、交番があった。
俺は交番に駆け込み、「鈴木睦美はどこですか」と叫びだしたい衝動に駆られた。
しかし交番の中を覗くと、先客がいた。道に迷ったらしい老人が警察官に道を尋ねていた。街の地図を広げた警察官は、指で示しながら、老人に親切に道を教えている。俺にも教えてほしい。どこに行けばいいのか教えてほしい。
とてつもない倦怠感が身体中に蔓延している。交番に入ったところであのマンションのことを説明したらどうなる? 睦美が俺のことを監禁していたと知ったら・・・・・・警察は睦美を・・・・・・睦美が逮捕されてしまうかもしれない。
俺は交番から離れて、また別の道を歩き始めた。いったいなぜ俺はここにいるんだ。なぜこうなってしまったんだ。
限りなく不安だった。携帯電話も財布も何ひとつ身分を証明できるものを持っていない。誰かと連絡をとることが出来ない。現状確認ができないのだ。
汗があとからあとから吹き出して止まらない。顔の汗をふくと、数ヵ月間こびりついていた黒い垢も一緒にとれた。痛みを感じなくなった左の眼窩のぬるりとした感覚と共に。
何もできない俺は、またあのマンションに戻っていた。
青と赤の重厚なドアが待ち構えていた。俺はふと壁面に並ぶポストを見た。睦美の部屋は606号室だ。しかし、606号室はマジックで「佐藤」という名前が書いてある。「佐藤」とは誰だ。睦美の名前ではない。あの女の名前か?
そう考えていた時、頭上でわんわん鳴く蝉の声が、突然ぴたりと聞こえなくなった。
背後にとてつもない殺気を感じたのだ。それは一度経験したことがあるものだった。
振り向くと、黒い服を着た男が立っていた。
男の右手首は不自然に曲がっていた。それは忘れもしない、あの日鎖に繋がれていた野蛮人だった。俺は一瞬身構えたが、野蛮人は特に何の攻撃もせず、静かにそこに立ち尽くしているだけだった。
「おまえもか」
かつての鎖の男は俺に聞いた。彼の右手は枯れたひまわりのように、だらんと曲がってぶらさがっていた。俺は恐ろしくて、何も言葉を発することができなかった。
「おまえも戻ってきたんだろう? そうだろう? でも無駄だ。諦めろ。扉は開かない」
こいつは何を言っているんだ? 鼓動がみるみるうちに速くなった。額から脂汗が滲み出る。
俺は、一番気になっていたことを聞くのが精一杯だった。
「睦美はどこに行ったか知ってるか」
しかし、男はそれを聞くと力なくため息をついて、ゆらりと逃げた。死にかけの蝶のように、ふらふらと走り出したように見えた。
カンカンカンカンと電車の警告音が鳴っていた。
「おい待てよ!」
男は何の躊躇もせずに、遮断機を潜る。そして、真っ暗な瞳でこちらを見つめて言った。
「そんな女はいない」
電車が轟音を立てて目の前を走り抜けた。
(続く)
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