鎖の男 第4話
俺はしばらく鎖に繋がれながら、男に復讐することばかり考えていた。
どう男を殺害して、睦美を助け出すか。幸いなことに、俺が威嚇をしてから男は睦美の部屋に来なくなったようだ。しかし、油断は出来ない。いつ男が睦美を狙ってまた部屋に乗り込んでくるかわからないからだ。俺は同じ男だからわかるのだ。次に奴が来た時は、必ず殺さなければ俺のプライドが赦さない。
プライド? 今の俺にプライドなんてあるだろうか。
裸で全身垢だらけで、髭もそっていないし、歯もざらざらしている。脚の爪が伸びて黒くなっている。長期間乾燥した風呂場にいたせいか、皮膚がかさかさになって、心なしか産毛が濃くなった。俺の身体から猛毒ガスのような酷い臭いが漂っている。
俺は蛇口から垂れる水と、睦美がたまに排水溝から流してくれる残飯みたいなものを食べて生きていた。風呂場の排水溝の蓋を外しては、残飯を垢だらけの手ですくってひび割れた唇に、無我夢中で押しつけた。
“俺は彼女に騙されたのではないか?”
残飯を咀嚼していると冷たい風呂場の窓から、たまに虹が見えた。
わからなかった。睦美が何を考えているのかさっぱり俺にはわからなかった。
なぜあの時、俺が殺されそうなのに彼女が扉を閉めたのか、何度も考えた。
あそこで扉を閉めていなければ睦美が鎖の男に殺されていた。どちらにしても、この扉は閉められなければならなかったんだ。そうだ。そうに決まっている。睦美は優しいが、臆病な子なんだ。そうやって自分に言い聞かせた。
すり硝子から見ていると、睦美は何も喋らずに毎日テレビばかり見て過ごしているようだ。何回か優しく呼びかけたことがあるが、決して応えようとはしない。きっとあの野蛮人に脅されているのだ。そうに違いない。そんな思い込みが、生きていくための唯一の理由だった。俺はこのままでは終われない。この鎖を何とかしてはずさなければ。
そんな堂々巡りの思考を繰り返している俺は、暇さえあれば風呂場のタイルに体当たりしていた。首の皮膚と鎖がこすれて豆が出来て潰れて血が出るほどに。
それしかやることが無かった。俺はとてつもなく苦しかった。
ここは……この風呂場は最悪の環境だ。
昼間は太陽が照って汗が噴き出すほど暑くなり、逆に夜になると気温が下がって意識が朦朧とするほど寒くなる。人間にとって急激な気温の変化がこんなにストレスになるなんて、きっと就活しても社会人になってもわからないだろうな。下痢はするし、たまに空腹で気持ち悪くなって吐いた。胃液が正常に分泌されていないのだ。睦美が作った残飯が、そのまま口から出てきた。
待ってろよ、睦美。絶対俺がおまえを助けに行くからな。
やがて鎖に亀裂が入り始めた。
その頃には、俺の片目は繁殖した雑菌で完全に失明していた。
最初ここに来た時に、野蛮人に殴られて、左の眼球が潰されていたらしい。当初は、痛みよりも鎖に繋がれたショックのほうが大きかったので気がつかなかったのだ。じゅくじゅくと膿んで眠れないほどの激しい痛みは、やがて鈍痛に代り、今はある程度まで鎮静した。
だけど、もう見えない。俺は一生のうちで見るはずの光を半分失った。
その分、憎しみは増した。それが何に対する憎しみなのか、考える余裕はなかった。
睦美はその日も朝から晩まで、一言も喋らずにテレビを観ていた。
翌日、鎖がタイルからまるごとはずれた。
しかし、そのことに俺は大して喜びはしなかった。
この鎖がはずれたとしても、中から扉は絶対空かないからだ。そう。外側から扉を開けさせる必要があった。そのためには睦美以外の第三者の力が必要だった。その第三者を動かすためには、それなりの理由がなければならない。
「あの男を殺して黙らせたい」
俺はそんな理由で、あの日この扉を開け、地獄に自ら脚を踏み入れた。チャンスはそこしかなかった。俺は鎖に繋がれているのに、今なら何でも出来る気がした。
やがてその時はふいに訪れた。
あの時の男が、睦美の部屋に訪れたのだ。
俺は僅かに残った体力を振り絞って、壁に体当たりした。
ガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガン
男が何か大声を出してこちらを見た。隣に睦美もいた。黒い四つの点が俺を見つめていた。やがて目論み通り、怒り狂った男がこちらに近づいてきた。俺はかまわず体当たりを続けた。執拗なほど壁を引っ掻いて、血や涎をまき散らせた。
俺はその時、何かを叫んでいたのは覚えているが、言葉にはなっていなかった。
そもそも言葉など必要無いのだ。注意を引きつける。それだけで扉を開けさせる理由は十分だからだ。
怒りに支配された男が、何か銀色のものを持って風呂場に近づいてくるのがわかった。俺は、鎖のはずれた先端を隠しつつ、その時を待った。やがて扉が空き
「てめええええええええええ!!!ぶっ殺してやる!」
と男が入ってきた。それは俺にとって想定内の台詞だった。
男は、家庭用の包丁を持っていた。その銀色の鈍い光を放った刃先が俺の頬に向かって振り下ろされた。おそらく傷がついて血が出ただろう。でも、俺は空手もボクシングも習っていたし、この数ヶ月間壁に体当たりを繰り返していたので多少の痛みを感じなくなっていた。
身体の痛みなど大したことではないのだ。
それよりも、もっと痛いものがあることを俺はこの数ヶ月間で知った。
最初は弱いふりをして、どんどん男を風呂場の中へ誘導した。
俺は男が風呂場の中心に踏み込んできたところで、外れた鎖を振り回して男のすねに直撃させた。
男は「いっ」と悲鳴をあげ、持っていた包丁を床に落とした。俺はすかさずその包丁を拾って、屈むと男のアキレス腱を切断した。アキレス腱は思ったとおり白かった。白いものが見えると、そこから血液と男の悲鳴が瞬く間に広がった。
苦痛に歪む男の顔を見ていると清々する。と同時に何かとてつもない違和感がした。
俺は、違和感を抱いたまま風呂場の外へ飛び出した。
「睦美!」
俺は部屋の中にいる彼女に話しかけた。
睦美は怯えていた。俺は片目だけで、彼女の顔をまじまじと見て思った。
「・・・・・・誰だ?」
ベッドで布団を巻いて震えている彼女は……睦美ではなかった。ピンク色のワンピースを着ているが、髪型と肌の色と背丈が似ているだけで、睦美とは顔のパーツが似ても似つかない女がそこにいた。
「睦美じゃないよなおまえ?」
(続く)
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