鎖の男 第3話


「殺してやる」


 こいつ、喋れたのか? と思っていると、また男の拳が、顔面に飛んできて、俺の視界は虹色になったかと思うと、その後は、身体が殴られて骨が折れる音が永遠と続いた。


 それからどれくらい時がたったのか。

 俺はずっとその風呂場にいた。何回の朝と夜が訪れたかは、わからない。

 目を覚まして辺りを見渡すと、いつの間にか鎖につながれていた男がいなくなっていた。ひゅうひゅうと、換気扇から乾いた風が風呂場内を循環していた。


 俺はずっしりとした冷たいものが、首を圧迫しているのに気がついた。これは? 殴られてクリームパンのように腫れ上がった両手で触れると、それが金属の首輪でちゃんと鎖がついていることに気がついた。


 あの野蛮人、俺が気絶している間に俺に鎖を付け替えて脱走したな!


 風呂場には、無数の血痕が固まって付着していた。俺の血なのか奴の血なのか、もう見分けはつかない。身体に力が入らない。恐ろしく頭が重く、身体中の節節が痛む。でも、行かなければ。早く行かなければ、あの野蛮人に睦美が殺されてしまう。


 俺は、這いつくばって閉められた扉まで向かった。膝と手の平に冷たいタイルの感触と錆のじゃりじゃりした感触が同時に伝わってきておぞましかった。扉のドアノブを何度も回したが、開かなかった。俺は扉に体当たりしてみた。俺の身体に電流のような激痛が走ったのに、扉はびくともしなかった。


「睦美いいいいいいいい! 睦美いいいいいい!」

 俺は叫び続けた。

 しかし、すり硝子から見える部屋には誰もいないようだった。明かりもついていない。


 俺は何時間か体当たりし続けて、やがて疲れて眠った。

 眠っている間、夢を見た。

 睦美とデートしている夢だ。遊園地に行ったり、映画館に行ったり、カフェに行ったりしている。そして、全てのデートの時間帯が揃って夕方だった。夕焼けの中で手をつないだり睦美と抱き合ったりしていた。そして、俺は夢の中で何度も何度も睦美に「いなくならないでくれ」と懇願していた。その度に睦美は、少し困った顔をする。俺、そんなに困ったこと聞いたかな? と俺は夢の中で思う。夕焼けが強くなってきた。睦美は下を向いて黙ってしまった。そして、俺と睦美との間の物理的な距離がどんどん遠くなっていっていった。空間が伸びて、小さくなっていく睦美。嫌だ。行かないでくれ。俺をおいて行かないでくれ。夕焼けに手を伸ばした。


 目を覚ますと、視界が赤かった。


 俺は瞬きを何回かして、ようやくそれが自分の血だとわかった。ぼーっと、手の平で血を拭うと、顔の左半分に激痛が走った。その痛みのことを深く考える前に、外から人の話し声が聞こえた。俺は息を潜めた。風呂場の壁を伝って、扉のすり硝子から、部屋の様子をうかがう。よく見えないが、ピンク色の服を着た女に続いて、青い服を着た男が部屋に入ってきた。何か話をしているようだ。ピンク色の服の女性は………睦美だ。


「あああああああああああああああ!」


 俺は自分でも驚く程、反射的に大声を出してしまった。なぜなら、その男は、もしかしたらあの鎖につながれていた男かもしれないのだ! いや、そうでなくても俺にはわかる。あいつが睦美をどうかしようと思っているのが、同じ男だからわかる。睦美に危険が迫っていることが俺にはわかるんだ。


 すり硝子だから、男の顔は詳細まではっきりとは見えないが、俺が声を出したのを察知してこちらを見たのはわかった。男性は首をかしげて、俺のほうを指差し、何か睦美に話しかけている。この野郎。動物園の猿を見るかのような、軽蔑した目つきで俺を見ていやがる。俺は構わず、大声を出し続けた。


「睦美! 逃げろ! そいつは危ないんだ!」


 風呂の扉を未だ腫れている両手でバンバン叩いて、奴を威嚇する。俺は他にもいろんな罵詈雑言を男に向かって浴びせ続けた。が、そのひとつも男には全く響いていないようで、睦美から離れようとせず、俺を無視し続けるのだ。


 男は、やがて睦美と手を握ると、戸惑う睦美の顔に無理矢理自分の顔を重ねた。細かいところまでは見えなかったが、俺はそいつが睦美に何をしているかわかった。


「うぎゃああああああああああああああ!」


 俺の頭に血が最高潮にたまっていく。何をしているんだ、あの男は。睦美が嫌がっているじゃないか! 

 睦美が俺のほうを見ているのがわかる。白い顔につぶらな黒い点が二つ、赤いの唇が何かパクパク動いている。俺に助けを求めているんだ。男の首が睦美の顔から首筋、胸元まで伝っていく。やがて男は、睦美のピンクのワンピースの裾に手を入れ始めた。そして、睦美を押し倒して服を無理矢理はぎとり始めた。睦美の二本の細い脚がバタバタ動くのがわかった。


「やめろおおおお! やめてくれええええ!」


 俺は気が狂いそうだった。この鎖さえ外れれば、この鎖さえ外れれば、睦美を助けにいけるのに。俺はあまりの怒りに十本の指の爪を全部つかって窓や壁をガリガリ引っかき始めた。


「ああああああああ! あああああああああああ! うぎゃああああああああ!」


 俺は一番見たくないものを見てしまった。しばらく経つと、男はゆっくりと全裸のまま、俺のほうに向かってきて、すり硝子に一発蹴りを入れた。そして、何かを呟いて、去っていった。

 俺の人差し指と小指の爪が、貝殻のように折れて剥がれていった。赦せない。俺はあの男を絶対赦さない。俺はその時心に誓った。


「絶対おまえを殺してやる」




(続く)

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