鎖の男 第2話
この女は狂っている。俺はそう思った。
結局この日は、何かと理由をつけて早めに帰った。
「どうしてそんな早く帰るの?」
「何かこの後用事があるの?」
睦美に聞かれたが俺は苦笑いしか出来なかった。
それから、俺は睦美と会わなくなった。あんな不気味な男がいても平気で暮らしている睦美が信じられなかったし顔を合わせられる気がしなかった。一時は、睦美の連絡先さえ消してしまおうかと思うほど、あの男の存在は俺にとって脅威だった。
でも、俺は連絡先を消すことが出来なかった。
大学で睦美を見かけて、その無邪気な笑顔を見る度に
「何か訳があるのではないか」
「あの男に弱みを握られているのではないか」
「睦美を助けられるのは自分しかいないのではないか」と、気が気でいられなくなった。
だから俺はついに話しかけてしまったんだ。睦美に。
たどたどしく会話する俺を、彼女はあの日と全く変わらぬ笑顔で快く受け入れた。そしてまた俺達は週に一、二回デートをするようになった。しかし、あの男のことはお互い一切口に出さなかった。俺は、睦美の家に行きたいとか、睦美の一人暮らしのことを話題にするのを一切止めた。
気になることはたくさんあった。あの男の正体はもちろん、あのマンションの構造がどうなっているのか。誰が何の目的で、どうやってあの空間を作り出したのか。近所の住民は音に気がつかないのか。そして、一体何のためにあの野蛮人は鎖に繋がれているのか。誰が鎖に繋いだのか。誰が……睦美が繋いだとしたら、なぜなのか。いや、彼女があの男を鎖に繋げるはずなど無い。体力的に無理だ。
考え出せばきりがない。しかし、その答えを導き出すのは糸も簡単だ。睦美にたった一言聞けばいいだけなのだ。「あの男は何だ」と。そうすればいいだけのことなのに、俺は出来なかった。俺が質問をしたところで一体何がどうなるというのだろう? 睦美はあの男がいる前提で俺を部屋に呼んだのだ。男のことを俺に見られてもいいと思っている。あの男の存在を認めてしまったら、俺は睦美との間に亀裂が生じてしまう気がして怖かった。
俺は、極力普通の生活を続けるように心がけた。昼まで寝て、近所のラーメン屋に行って、大学に行って、サークルの仲間とふざけあって、たまに睦美と外でデートして。あの日のことを忘れるために、俺は何度も嘘の笑い声をあげた。
そんな状態が数ヶ月続いた。睦美はというと、彼女もやはり自分の家のことや、あの野蛮人のことを口にしなかった。あの男に傷つけられた様子も無く、睦美の顔や皮膚は美しいままだったし、精神的に追い詰められている様子もなかった。俺はそれでいいのかもしれないと思うようになった。何のいさかいもなく、日常が続くのなら、俺は黙って睦美のそばにいればそれでいいのかもしれないと。
しかし、それは続かなかった。
俺と睦美は、ある日飲食店で酒を大量に呑んだ。バイトの給料日で俺の財布が潤ったから、彼女が前から行きたがっていたイタリアンの店に行ってみたのだ。二人で慣れないスパークリングワインを頼んで、それがまた凄く美味しくて、何杯も呑んだ。そのうち、俺と睦美は意味もなくお互いを見つめ合うようになって、徐々に会話が途切れ、沈黙が生まれた。
俺は睦美の手を握って店を出た。出た瞬間、彼女の唇にキスをした。睦美は少し驚いていたが、拒絶はしなかった。
俺は気が付くと、青と赤の重厚な自動ドアの前にいた。睦美の家だ。隣には、酔っぱらった睦美が。酔っていたからか、青と赤の模様が歪んで渦巻きに見えた。そう、俺は酔っていたんだ。だから恐怖が薄れて睦美の家に……―――
俺たちは、もつれあうようにして部屋に入り込み、玄関でやっと靴を脱いで、ピンクの布団の上になだれ込んだ。肺と鼻から息を吸ったり吐いたりしながら、睦美の唇から首筋にかけて何箇所もキスをした。睦美が気持ちよさそうな喘ぎ声を出し始めた。この声がずっと聞きたかった。ずっと彼女とこうして抱き合ってみたかった。俺は、睦美の胸を両手で包み込むように触った。どう触っていいのかわからなかったが、柔らかくて温かくてずっと触れていたい、もっと中に入ってみたいと思った。彼女の心臓めがけて。胸の間に顔をうずめていると、
ガンガンガンガンガンガンガンガン
「うあああああああああああああああ! うあああああああああああああああああ!」
“あいつ”の声が、風呂場から聞こえた。
畜生。睦美との最高のムードをぶちこわしにしやがって。
風呂場のほうを見ると、窓硝子に、黒くて丸い物体が、ガンガン当たっている。人間の頭部。やつが頭から窓に体当たりしているのだ。そして、もの凄い勢いで窓硝子を爪のない指でガリガリガリガリ引っ掻いている。ガリガリガリガリガリガリガリガリ一体いつまで? いつまでおまえは俺達の邪魔をするのだ?
「っるせえんだよ!!!」
俺は、頭に血がのぼっていたせいか、大声を出して奴を威嚇した。
しかし、奴は体当たりも叫び声も、ガリガリもやめなかった。それどころか、以前来た時よりも、はるかに凶暴さを増している気がする。
「うぎゃあああああ! ああああああ! うぎゃああああ!」
もう何十回も磨りガラスに頭を叩きつけているので、ついに血のようなものが見えた。血は最初点だったが、奴の頭髪が筆のように磨りガラス一面に赤を広げた。
「もう、我慢できねえ……」
俺は、睦美から身体を離した。体温が一瞬にして奪われる。無表情の睦美に布団をかけると、俺はベランダに出て、太くて丈夫なステンレスの物干し竿を手にして、また部屋に戻る。
「ねえ、やめたほうがいいよ?」
と、止める睦美の声も聞き入れず、俺は物干し竿を片手に、一直線に奴が叫んでいる風呂場まで向かった。
「殺してやる」
ステンレスのドアノブをひねり、扉を開ける。
予想通り、男が両手を広げて飛び出してきた。俺は、すかさず物干し竿で男の両手を叩いた。
「うぎゃあああああああああ!」
男は目も鼻の穴も口も全て全開にして、俺を睨んだ。口の中の歯が腐って溶けて、歯茎が青黒くなっていた。俺はその時思った。
「いつから、こいつはここにいたんだ?」
酩酊状態の中、ぼんやりと考えながら、風呂場の奥に逃げた男を捕まえようと、風呂場に足を踏み入れた。男が、浴槽の隅に縮こまっていた。抑えている右手は、変な方向に曲がっている。俺がさっき、渾身の力を込めて物干し竿で殴打したところだ。ああ、きっと骨折したのだ。
俺は、また物干し竿を振りかざして、男めがけてさっきよりも強い力で振り下ろした。頭にじわっと汗が浮かび上がり、アドレナリンが放出された。
「ミリ」という変な音がして、男の身体にすんなりと当たった。男は必死で抵抗しようとまた手足をばたつかせるが、鎖に繋がれているので、うまく俺に襲いかかってこれないようだ。
だから、俺は容赦なく男を成敗し続けた。物干し竿で打たれるたびに男は悲痛の叫び声をあげた。まるで弱い生き物、裸の芋虫を棒で叩き続けているような。うん。こんな感じならこいつの息の根を止めるのは簡単かもしれない。
そうだ、俺は高校生の頃まで、空手もボクシングもしていたんだ。馬鹿だな、ずっと悩んでいたのが。最初からこうしていればよかったんだ。睦美に正々堂々と聞けばよかったんだ。いや、こう宣言すればよかったのだ。「俺があいつを殺して睦美を守るよ」と。
そう思ったとき、ガチャっと音がした。見ると、風呂場の隅から伸びている男の鎖がはずれている。男が激しく動き回ったのか、鎖のつなぎ目がタイルごと剥がれてしまっていたのだ。男はそれにすぐ気が付いたようで、とっさに俺に襲いかかってきた。
俺は、しまったと思い、物干し竿を振り回したが、男は曲がった右手とまっすぐな左手で物干し竿を巧みにキャッチした。そして、そのまま俺のほうに襲いかかってきた。それは今までにない怪力、一瞬の出来事だった。
口元に電流のような衝撃が走った。あれ? と思っていると、大量の涎が口からあふれた。いや、これは涎ではない。血だ。男の拳と、左右に飛び散った白い歯を見て、俺はやっと理解した。ぐわあああん、と脳みそがそれごと振動し、視界が歪む。そのまま倒れるかと思ったら、また違う方向から男の鉄のように固い拳が、もう一度俺の口元に飛んできた。俺の顎はゴキっと音をたててコメカミからまるごとはずれた。顔が軽くなった。倒れることができずに宙に浮いた俺の身体を男が抱え、斜めに雑巾を絞るようにぎゅっとねじった。腕の関節がはずれる乾いた音が耳元でして、力が入らなくなった。
「睦……美」
俺は首を斜め後ろに傾けてをそう言うのが精一杯だった。逆さまになった睦美が扉の前で無表情でこちらを見ていた。俺が風呂場の内部から扉のほうを見たのは初めてだった。風呂場の内部に、あの日池袋で買った、チーズケーキのピンクの紙袋が落ちていた。
「?!」
なぜ、睦美に買ってきたはずのプレゼントがここに? 俺は睦美の顔を思わず見た。睦美は無表情を崩さなかった。こんなに俺が殴られているのに。こんなに俺が殴られているのに。こんなに……俺の心に黒いもやがかかり始めた。
「睦美? そこを閉めるなよ?」
俺は、目の力だけで睦美に全力で伝えた。
“このドア、一回閉めると絶対中から開かないから”
睦美のかわいらしい笑顔とあの日の言葉が、反芻された。しかし、今、睦美は扉に手をかけている。
「嘘だろ? 待てよ! 俺、こいつ倒すから! ちゃんと殺すから!」
俺の瞼に涙が貯まり始めた。いや、これは涙じゃないのかもしれない。さっきから髪の毛を無理矢理ぶちぶちむしられている、頭から垂れてくる温かい自分の……
「睦美! 閉めないでくれええ!」
俺の言葉を無視して、睦美は勢いよく扉を閉めた。そう。あの日と同じように、この鎖の男がどんなに外に出ようと扉の縁に手をかけても、冷酷に扉を締めることを、彼女は徹底して実行したのだ。
もはや平和な空間への逃げ道は閉ざされてしまった。
俺はおそるおそる上を見上げた。自分の血だらけの伸びた頭の皮膚が見える。こんなに人間の皮膚は伸びるのか。その先に髪の毛を掴んだ男も見えた。白目に赤い血管を浮かべながら、俺を地獄の業火のような目つきで睨んでいた。そして、低い声で、こう言った
「殺してやる」
(続く)
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