鎖の男

紅林みお

鎖の男 第1話

 その日、俺はまた何の変化も無く、一日が過ぎていくのだと思っていた。


 昼まで寝て、起きたら近所のラーメン屋に行って、サークルに顔を出して適当に仲間と飲みに行って深夜帰宅。こんなふうに俺は自由だけど退屈な毎日を送っていた。


 しかし、その日は違った。携帯の着信音で俺は目を覚ました。枕についた涎をふいて寝ぼけ眼で携帯を見ると、睦美からメールが。


『今日 私の家に遊びに来る?』


 携帯電話を持つ手が思わず汗ばみ、落としそうになった。

 彼女の家に? 俺が、行っていいのか? 

 

 高まる動悸を抑え、ベッドから起き上がる。睦美は人生で二度目に出来た「彼女」だった。そして女性の家に行くというのは、俺にとって人生で初の経験だった。睦美は先月、大学の新歓コンパで出会ったばかりで、数回健全なデートをした。恥ずかしいことだが、まだ手を繋ぐこともできていない。俺が知っている彼女の情報と言えば、星座が蟹座であることくらいだ。そんな状態からいきなり家への招待が赦されるなんて……

 当り障りの無い会話を積み上げてきた甲斐があったのか、やっと彼女が自分に心を許してくれたのだ。俺は、部屋のカーテンを開け、高く昇った太陽を見上げた。素晴らしい一日が始まろうとしている。


 待ち合わせの時間を確認し、急いでシャワーを浴びた。大量の安いボディソープで身体を念入りに洗って、髭も剃った。歯磨き粉が鏡に飛び散るほど歯を磨いた。普段はいている穴の空いた靴下はやめて、新品の靴下をはき、この間おふくろがクリーニングに出して戻ってきたばかりの青いニットを着て、鏡の前でチェックした。うん、完璧だ。俺は一人で頷き、にやにやする。

 「ご飯は?」「あんたどこいくの」としつこく聞くおふくろを適当にあしらって、俺は家を出た。


 電車に乗り、池袋のデパートの食品売り場へ。この間テレビの特集でやっていた「女性に大人気!ふわふわスイーツ特集」で出ていた店が確かここにあるはずだ。買っていったら、きっと睦美が喜ぶに違いない。今時の大学生にしては、気が利く男だと。俺は、ほくそえんで財布の中身を見ると、千円札が一枚も入っていなかった。しまった、次のバイトの給料日まで全く金が無かったのを忘れていた……。仕方なく、限度額が低すぎるクレジットカードを使ってスイーツを購入する。


 俺は柔らかいチーズケーキの入ったピンクの紙袋を持って、地下鉄に乗った。チーズケーキは要冷蔵なので、俺の体温で温まって不味くならないように、極力身体から離して慎重に運んだ。10分も経つと、睦美の家の最寄り駅に到着した。


 そこは出口がひとつしかない小さな駅だった。俺は東京に生まれてかれこれ十八年暮らしているが、この駅は降りたことがない。駅名もすぐにでも忘れてしまいそうな名前だった。人のいない閑散とした改札を抜けて地上に出ると、曇り空が広がっていた。雨が降りそうだ。ああ、天気予報をチェックしてくればよかったな、と思いながら、待ち合わせの交番前に行くと、ピンクのワンピースを着た睦美が笑顔で待っていた。


「ごめん、待たせた?」


「ううん、私が早く来ちゃっただけ」


 睦美は、細い金色の腕時計を見て微笑むと、俺の右手をぎゅっと、実に自然に握った。俺の心臓は脈打ち、思わず睦美の顔を見つめてしまう。睦美はピンク色の唇を綻ばせ、


「じゃあ、行こう」


 と、緊張で固くなっている俺の手を引っ張った。


 初めて睦美に触れた。初めて彼女の手を握った。彼女が、歩いて行く中で「ここが一番安いスーパーで、あそこが一番大きなドラッグストア」だとか「あそこの家の雨戸はいつも閉まっているけど、犬はちゃんと元気に鳴いてる」とか会話していたような気がするけれど、よく覚えていない。今、俺の心の中は緊張で爆発しそうで、それどころではないのだ。


「どうしたの? 顔赤いよ」


 そう、睦美に言われて俺ははっと我に返る。いけない、いけない。ここは冷静に会話を進めなければ、手をつないだだけで有頂天になる耐性が全くついていないキモい男だと思われてしまう。


「む、睦美は一人暮らし始めたばかりなんだよな」


「うん。そうだよ」


「たいへんだろ、料理したり、その、家事とか」


「ぜんぜん。一人で何でもできるから、自由で楽しいよ!」


 そんなにたいへんだったら俺が一緒に手伝うよ、の運びで行こうと思ったが、案外彼女はしっかりしていた。


「いや、その生活費とか一人でやりくりしなきゃいけないんでしょ、一人暮らしって」


「私の家の家賃は二万円なの」


「そうか~、って、え? 二万?」


 実家暮らしの俺でも東京での一人暮らしの家賃の相場くらいはわかる。こんな閑散とした駅でも、主要駅から遠くない立地でそんなに安い訳が無い。俺は、首をかしげた。


「えっと……風呂が無いとか、トイレが無いとか」


「そんな訳ないじゃん! 新築でオートロック、バストイレ別だよ」


 睦美は屈託の無い笑顔でそう言った。まるで俺が常識外れなことを言っているかのように。俺は、「ははは、そうなんだ」と笑うしかなかった。


「もうすぐ着くよ」


 レンタカー屋の角を曲がって、少し狭い路地裏に入ると住宅街が見えてきた。

 すぐ奥に、汚らしいプレハブ小屋風の茶色いアパートが見える。ああ、きっと睦美はあの建物に住んでいるんだ。どうりで家賃が安いわけだ。一人暮らしって、我慢大会みたいでかわいそうだな。俺は実家に住んでいて、よかったな、と睦美に同情していると、


「ここ」

 と、睦美がプレハブ小屋に進もうとしている俺の手を、プレハブ小屋とは真逆の方向に引いた。俺は、彼女の近くに引き戻される。


 振り返ると、コンクリートで出来た立派な灰色のマンションが現れた。


「こ、ここが……?」


 俺は思わずマンションを下から見上げてしまう。さっきのプレハブ小屋とは違って、美しい建造物がそびえ立っていた。壁はピカピカで汚れは無く、新築であることを物語っていた。そのまま俺たちはマンションの入口まで進んだ。


 マンションには確かに睦美の言ったとおり、オートロックが着いていた。自動ドアは重厚な造りで、赤と青のモダンでおしゃれなデザインだ。睦美が鍵であろう一枚の磁気カードを機械にかざすと、重厚な自動ドアが重厚な音をたてて左右に開いた。俺はどぎまぎしながら、中に入った。 

 ロビーには枯れたひまわり(いやこれはドライフラワーと言うのか?)が飾ってある。


 外は立派だが、部屋はぼろぼろなのかもしれない。俺はモダンでおしゃれなマンションの共有スペースを見回しながら、睦美に言われるがまま、エレベーターに乗って、上階へと進む。エレベーターは少し狭いが、新しくやはり綺麗だ。俺んちみたいに蜘蛛の巣は張っていないし、ガムの包み紙も、ゴミも埃も髪の毛も一本も落ちていない。


 睦美の部屋の前に着いた。

「どうぞ」

 睦美が少し照れた顔をして、鍵を開ける。キイっと音がした。中に入ると、全面ぴかぴかのフローリング、おしゃれな幾何学模様の玄関マット、飾られた一輪のピンク色の花が俺を出迎えた。新築の建物のにおいがする。おそるおそる靴を脱いで、中にあがる。穴の空いた靴下をはいてこなくて本当によかった。


 そのまま進むと、清潔な1LDKの空間が広がっていた。女の子らしい白が基調の水玉のカーテンに、薄いピンク色のベッド。ベッド……俺は、思わずつばを呑み込んだ。


「すごいな……綺麗にしてるんだな」


「適当にくつろいでね」


 睦美は、キッチンに立ってお湯を沸かし始めた。そして、お洒落なジャズ音楽を部屋に流しはじめた。くるくると小動物のように動き回るその後ろ姿が愛らしい。思わず抱きしめたくなるが、必死でこみ上げる気持ちを抑える。


 昂った気持ちを落ち着かせるために、手洗いでもしようかと部屋をうろついていると、俺は奇妙なことに気がついた。


 玄関から入って、すぐのところに風呂場と手洗い場があったはずだ。そして、キッチン、リビングと、ここまで来た。


 しかし、リビングの奥に更に扉がある。


 この扉は何だ? クローゼットかと一瞬思ったが、違う。すりガラスが取り付けられたステンレスの銀色の扉。なんだか、やけにここだけ……空気が重い。


 「睦美、ここは……」


 そう聞いたが、彼女はジャズの音で俺の声が聞こえていないようだ。

 俺は、何も考えずに銀色のドアノブを握り、扉を開けた。


 そこに広がる光景に、俺は自分の目を疑った。


 タイル張りのピンク色の空間が広がっていた。錆びたタイルがぎっちりと敷き詰められ、中央に浴槽みたいな大きな穴がある。タイルは剥がれてるものや黒ずんでいるものもある。よく見ると、短い髪の毛や乾いた血みたいなものがついている。古いラブホテルの風呂場のようだ。なぜ、こんな場所が彼女の部屋に?

 どこからか流れてきた冷たい風が俺の頬を撫でた。風呂場の奥のほうでジャラジャラと金属がこすれ合う音がした。何の音だ? そう思ったと同時に、目の前に黒い塊が勢いよく飛び出してきた。


「うぎゃああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」


 獣のような雄叫びを上げる、裸の男。浮浪者みたいな風貌だ。髪が伸び放題で、肌は垢で黒ずんでいる。


「うわああああああ!」


 俺は反射的に大声を出し、両手で身を保護した。男は、飛びかかってくるかと思ったら俺の目と鼻の先で止まった。何かに引っ張られているかのように、男が一瞬後ろにバウンドし、「げええっ」と喉の奥から声を出した。よく見ると男の首には太い首輪が装着してあった。


 男の口から吐き出される荒く臭い息が、俺の顔にふりかかる。男は一本の太い鎖で繋がれていた。鎖の長さは、風呂場の扉にぎりぎり届かないところで止まるように調整されている。


 俺はしばらく無言で腰を抜かしていた。男は両手を上下左右に振り回して俺に危害を加えようとしている。明らかな殺意を感じる。ぶんぶんと空中に舞う男の汚い手。指の爪は全て剥がれ落ち、ところどころ血が出て腐っていた。


「あ、大丈夫だった?」


 湯気が立ち上るマグカップを口に近づけて、優雅にお茶を飲んでいる睦美。


「大丈夫なわけないだろ!」


 俺の声は裏返っていた。がくがくする膝を抑えながら、必死に睦美に向き直る。


「何なんだよ! こいつは! 何でこんなやつ……!」


「ドア閉めて」


「こんな男、いたら危ないじゃないか!」


「ドアを閉めてって言ってるのに」


 脂汗を流しながら、必死で状況を把握しようとしている俺の横をすり抜け、暴れる男に近づく睦美。


「睦美! 危ない! 近づいちゃダメだ!」


 彼女を止めようととっさに手をのばす。が、腰が抜けたままなので届かない。睦美は暴れている男の周りを避けて、扉側にまわると、ものすごい勢いでドアを閉めた。一瞬男の指がドアに挟まったが、睦美が手加減せずにドアをガンガン閉め続けたので、やがて男の身体は全てドアの向こうに押し込められた。


「大丈夫。このドア、一回閉めると絶対中から開かないから」


 睦美が泣いている小さな子供に語りかけるように、ゆっくりと俺にそう言った。

 閉めてもなお、男の雄叫びが聞こえている。


「ああああああ! あああああああ!」と人間が出しうる限り、最大の叫び声を上げて、風呂場内でどたんばたん暴れまわっている。男は口がきけないのか、言葉と呼べるものは発さず、ただひたすら叫んでいるだけだ。


「ね、開かないでしょう?」


「そういう問題じゃないだろ! この男何だよ、何で睦美の部屋にこいつが住んでるんだよ?」


 睦美は、紅茶の置いてあるテーブルの近くに戻り、クッキーを食べながら言った。

「私が来る前からここにいたんだよね。この人」


「はあ? だって、ここは睦美の家だろ?」


「そうだけど、前からいたんだからしかたないじゃない」


 俺の頭の中がさらに混乱してくる。睦美の横に置いたチーズケーキの箱が温まって、外側に水滴がついている。


「だって、ドア閉めてればあの人、何も危害を加えないんだから大丈夫だよ」


「睦美、とりあえず今日は俺と一緒にどこか違うところに避難しよう?」


「なぜ?」


「なぜって……こんなやつがいたら、おまえいつか殺されるかもしれないよ」


「平気だよ。だって、あの人鎖に繋がれてるんだから」


 この女は狂っている。俺はそう思った。


(続く)

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