埋葬

阿瀬みち

埋葬

 妻が妊娠した。ざっと試算してみたけど、出産費用に莫大な金がかかることが分かった。ひとひとり生まれるだけでこんな大金が必要なのか? 転職サイトのブクマを消して、あらためて、いまの仕事を続けると心に誓う。しがみついてでも、くらいついてでも、生きてゆかねば。特殊清掃。俺がやっているのは、要は独居老人とか、孤独死した人、変死した人がでた部屋を、綺麗に片づけること。年を取ると片付ける気力がなくなるのだろう、大量の物に囲まれた年寄りとか、死んでから時間がたってしまった人間の残したものを片付ける。大家が再び部屋を使えるようにと依頼してくることもあれば、遺族が遺品の整理を含めて依頼してくることもあった。

 生まれてくる赤ん坊と、目の前の穢れ、不浄。というか穢れている自分自身の対比が鮮やかで、ふとこの手では生まれてくる命に触れることすら叶わないのではないか? という思いが首をもたげてくる。


 この仕事に就いてずいぶん長くなるのに、死臭にはいつまで経っても慣れない。家に帰るたびに、何度もシャワーを浴びて体に染みついた匂いを落とそうとする。それでもふとした瞬間、臭う気がするのだ。妻は気のせいだという。俺にはそうは思えない。どこかが確実に臭っている。俺の服や皮膚や髪の毛に臭いが染みついている。



 辞めたいと思い始めたきっかけは、夢だった。人に話すと笑われそうで、この話は誰にもしていない。特殊清掃の仕事を始めて以来、俺はずっと同じような悪夢に悩まされていた。

 夜中に何度も、死の予感に脅かされて目が覚める。それは目も鼻も口もなく、音もたてず忍び寄る。誰に言われるまでもなく、俺は予感で知っている。そいつに掴まったら最後。本当に最後だ。あいつは死そのものだった。いつもそいつに掴まる一歩手前で目を覚ました。布団はもちろん、全身が冷や汗で濡れている。

 もうずっとこうだ。心地の良い夢など何年も見たことがない。


 ある夜いつもと少しだけ違う夢を見た。そいつが手を伸ばしたのは、俺ではなく妻だった。「やめろ!」俺は叫んだが、喉の奥まで真綿を押し込められたように、声が出ない。そいつは寝ている妻の腹の上に飛び乗った! 振り払おうとするが、体が硬直して言うことを聞かない。口も目もないはずのそいつが、確かに嗤ったのを見た。


「あなた、そろそろお酒やめにしない? いざというときに、運転。お願いしたいし」


 臨月の妻が言う。俺はどきりとした。夢を見ないために、アルコールなしでは寝られなくなっていた。しらふで寝入るのが怖い。そんなことは妻には言えなかったから、俺は不機嫌そうになんで? と言うことしかできなかった。妻はそれきり黙った。すっかり薄くなった電話帳で、地元のタクシー会社を調べてスマホに登録する妻。俺も黙って、静かに晩酌をする。


 ときどき、同業者の夢にあいつが出張しているんじゃないかと思える日がある。そんな日は酒がなくても静かに眠れた。誰でもいいから、同じ仕事をしている人間に、あいつの夢を見たことがあるか? と尋ねてみたかった。けれども俺はあいつの名前を知らない。なんて呼べばいいのかわからない。

 後輩に山際という男がいた。山際は若いのに図太い男で、何を見ても全く動じなかった。山際の夢にはまだあいつが出張したことがないのかもしれない。最近では俺は昼間からそんなことを考えていた。白昼夢を見ているのと同じようなものだ。

 昼飯を食いに行った先の定食屋で、山際が聞いた。

「奥さんどうすか」

「どうって」

「予定日そろそろでしょ」

「ああ」

 山際は変なところが記憶力がいい。見た目はそのまま、まるでバカみたいな最近の若者だが、細かいところに気がついた。俺なら、一度聞いた他人の子供の予定日なんか、翌日には綺麗さっぱり忘れているだろう。

「あんま嬉しくなさそうすね。待望の第一子なのに」

「いや、そら嬉しいよ。でも俺らの仕事ってさ、死を、」

 頻繁に見る夢のイメージと、穢れという概念をどう山際に伝えたらいいものかわからず、俺は口ごもった。

「山際、お前、夢とか見るほう?」

「いや、見ないっすね。ガキの頃はよく見てましたけど。最近は全然。疲れてると夢なんか見ないんじゃないっすか」

 そうか、と俺は茶をすすった。山際みたいな男のところには、あいつは現れないらしい。

 そのとき携帯が鳴った。妻の母親からだった。

「カナタさん今どこ? 美月が破水して、今から病院に行くところ」

「破水?」

 俺は思わず席を立った。行った方がいいっすよ。と山際が言う。こういうとこちゃんとしてねーと、あとあとうるせーらしいですよ。経験したことがあるみたいに言うものだと、俺は思った。



 慌てて病院に駆けつけたものの、なかなか生まれず、陣痛促進剤を使う同意書みたいなものを書かされた。薬剤で無理やり子宮を収縮させるらしい。よくわからない。それで生まれるのなら。お義母さんにも一応同意を取って、書類にサインをした。

「ご家族の方には出てもらってもいいですか」

 看護師が言う。

「ダメですか。立ち合いたいんですが」

「すみません」

 どうやら立ち合いどころではないらしかった。俺は病室に戻って義母さんと顔を見合わせた。

「やばいんですかね」

「大丈夫でしょ」

 義母さんは力なく笑った。看護師、助産師、医師が入れ替わり立ち代わりやってくる。義母さんの手を見ると、膝の上でぎゅっと固く握りしめられていた。


 思ったよりもずっと時間がかかった。3時間ほど待たされただろうか。看護師が出てきて、その表情で俺は何かを悟る。やけに静かだった。泣き声一つしない。

「死産です」

 看護師が言った。何を言っているのかわからなかった。

「美月は? 美月は無事なんですか!」

 義母さんが詰め寄る。

「奥様は無事です」

 義母さんは美月の方へ走って行った。俺はその場で立ち尽くしていて、看護師に促されてようやく美月のところへ向かった。


+++++++++++


 赤ん坊の棺は質素だ。豪華にしてはいけないものらしい。白い箱の中に入った、生まれたての赤ん坊の肌はつるんとして、あまりにうつくしかった。今にも目を開けて泣き出しそうに見える。死んでいるなんて、信じられない。けれども鼻の奥に確かに嗅ぎ慣れたにおいを感じる。脂が分解されて染み出したにおい。こんなに瑞々しい死があるものだろうか。あっていいものなのだろうか。

 美月は出産の疲れでぐったりしている。涙を流す余裕すらないようで、乾いた両の目がかえって痛ましかった。なにか言葉をかけたかった。けれども口を開けば俺は、またあの夢のことを口走ってしまいそうで、なにも言えない。


 せめて一度だけでも赤ん坊の名前を呼んでやりたくて、かねてから考えていた名前を口の中で呟く。美月の月の字をもらって、葉月。女の子なら葉月、男の子なら、鼎にしよう。寝る前にふたりで横になって話していたことを思い出す。その時の時間の流れから“今”が切り離されて分断されてしまったみたいに感じる。あの幸せな時間とこの瞬間が地続きだなんてとても信じられない。

「葉月」

 俺は棺の中の赤ん坊に呼び掛けた。もちろん返事はない。赤ん坊は相変わらず穏やかな表情で眠っている。


 家に直接坊主を読んでお経を読んでもらって、そのまま火葬場へ運んだ。小さな小さな棺だ。こんなものか。こんなものなのか。俺は人目をはばからず泣いた。美月を心配して両親が付き添っている。焼いたところで、骨はほとんど残らなかった。骨壺に落とした小さなかけらが、カランと石ころみたいな音を立てる。

「あんたもやりなさい、でないと忘れられなくなる」

 義母さんが妻を支えて、骨を拾うよう促した。うう、と妻の口から唸るような音がした。涙はまだ出ない。長い箸を、妻の震える手に持たせる。俺は妻の手を握りこむようにして、一緒に骨を拾った。ひとつひとつ、静かに。骨は寺の水子のところに、まとめて葬られることになった。水子。水子か。葉月、俺の子供。どこにも残らない、墓標さえない、名前。


 葬儀が終わってからは、仕事を休んで美月に付き添った。慣れない料理も洗濯も、すべてした。美月は放心状態で、なにも言わなかった。ただ横になって、空になった腹を撫でていた。産後の通院の付き添いや家事、やることは山のようにあって、働いている場合ではなかった。いや、今職場に行けば、俺は自分が正気を保っていられる自信がない。こんなにも死が自分の人生と地続きに感じられたのは初めてだ。


 三週間休んで、俺は少しずつ仕事を入れることにした。妻は相変わらずまったく平気そうでなかったが、俺がおかしくなりそうだった。育児資金にと無理をして貯めていた分があるからもうしばらく休んでも生きていける。それでも、何かしていないと自分の正気が保てそうにない。

 そのかわり、休みの日は妻とふたりで少しずつ外に出るようになった。平日昼間の街に子供の姿は少ない。それでも外を出歩けば必ず妊婦や赤ん坊、小さな子供連れの家族に出会った。その度に妻は目を背ける。家の中には大量のベビーグッズが手も付けられないまま置きっぱなしだった。ちいさな赤ん坊を抱えた家族に、家にあるおむつを譲ってあげたら喜んでもらえるだろうか、などと考えて慌ててかぶりを振る。気持ち悪がられるだけだ。新生児用紙おむつ、高かったな。あまりの値段に驚いた。

「葉月、お前に似てたよなぁ」

 赤ん坊連れの家族の背中を目で追いながら、呟く。

 妻が生んだ赤ん坊は、今まで目にした赤ん坊の中で一番美しかった。妻は俺の声には応えない。ただ虚ろな目で赤ん坊を抱いた女性を追っていた。それからふと胸元に視線を落とす。訴えるように言った。

「まだお乳が張るの。ときどき赤ちゃんが泣いている夢で目が覚める」

「うん」

 俺は大したことを言えない。

「女の子だったね」

「うん」

「大きくなったらきっときれいな子になっただろうね」

「そうだな」

 気の利く人間なら、妻に似て美人になっただろう、と言う風なことを言うのだと思う。でも俺には言えない。

「ママぁ」

 二歳くらいの子供が、母親に手を引かれながらぐずっていた。妻はまたぼうっとその様子を眺めている。

 

 妻は少しずつ外に出るようになった。職場にも復帰して、やれやれ、俺もこれで日常に戻ることができるだろうか。そんなことを考えていた矢先、妻が以前と同じ職場に通うことが辛い、と漏らすようになった。

「私が妊娠してたことを知ってる人がいるところに行くのが辛い」

「そうか」

 そういうものなのだろうか。自分にはわからない。体験がないから。

 また家にこもりがちになる妻を、俺にはどうすることもできなかった。


 家に帰るたびに溜まっている食器。重なっているごみ袋、洗濯物は取り込んだまま山になっている。俺は黙ってシャワーを浴びて死臭を落とす。死臭と胎脂の匂いはどこか似ている気がした。今となっては必死に穢れを落としている意味もあるのかどうかわからない。家の中にも穢れが蔓延している。普段片付けている部屋と同じ匂いが、いつかこの部屋からも放たれる気がして、胸がムカついた。腐った未分別のごみ。机の上に広がった生ごみ。不浄と浄土の違いがどこにもない。混然一体として区別がつかない。そこからあいつがやってくる。顔も手足も何もない、死の気配が。これじゃ悪夢を見ているのと一緒だ。

 そこまで考えて背筋に悪寒が走った。シャワーを止めて、外に出る。ゴミをまとめて部屋を綺麗にする必要があった。

 




 ごみを片付けたついでに、家の中にあるベビーグッズをまとめて売りに行った。二束三文だったがそれでもいい。家の中にあることで妻の精神状態によくない影響を及ぼすように思えた。一刻も早く処分してしまいたい。新品のベビードレスや靴下、肌着なんかは見るたびに胸が痛む。無事に生まれてくれていたら、今頃、


 帰りに立ち寄った、なじみの居酒屋で、大将に言われた。

「子供がいるのに呑みに来るんじゃねぇよ」

「だめだったんですよ、こども」

「え……そら悪いこと聞いたな。すまんかった」

 カウンターで飲んでいた客がぽつりという。

「時々ね。子供自体生きる力が弱い子がいてね。仕方ないよなぁ。奥さん気落ちしてるだろ、慰めてやりなよ」

 俺だって。精一杯やってそれでもどうしたらいいかわからないから、外ほっつき歩いてんだよ。と言いそうになるのをこらえた。客に悪気はないのだろう。俺が勝手に、いらついているだけだ。ハイボールをぐっと飲みほした。喉が熱い。

 なんでこんなに腹が立つんだろうか。死んだ赤ん坊の顔が脳裏をよぎる。生きる力が弱い、と言われたのが嫌だったんだろうか。だってあいつはあんなに綺麗で、完璧だった。出来損ないみたいに言われるのは、心外だ。考えれば考えるほど、腹が立つ。今日はもう、帰ろう。

「俺やっぱ帰るわ。大将ごめん、おあいそ」

「いいよいいよ。金取れねぇわ。悪いこと聞いちゃったから」

「悪くねぇよ事実なんだから」

「奥さんになんか土産でも買って帰りな」

 確かに死産だったことを話すと、周りの人間の態度が変わる。気を遣わせてしまうし、中には自分の経験を話してくれる夫婦もいる。でも、そういうことじゃないんだよな。妻の苦悩が少しわかった気がして、俺は素直にコンビニで妻の好きだったアイスを買った。その夜俺は悪夢を見なかった。

 

 次の日家を出ようとすると、噂話の好きな大家が話しかけてきた。

「奥さん最近見ないけど、逃げられたんじゃない? 大丈夫?」

「ちゃんと家にいますよ。体調が優れなくて、寝てるだけです」

「子供さん残念だったねぇ。あんたたちまだ若いんだから、平気よ」

 なにが平気だって言うんだ? 俺たちはちっとも平気じゃない。

「めぐりあわせなのよね、こどもって。しかるべき時に、ちゃんと自分の子供と会えるから、大丈夫よ」

「それって、まるであの子が俺たちの子供としてふさわしくなかったみたいじゃないですか」

「え? そういうことが言いたいんじゃないわよ~」

 大家は大きな口を開けてあははと笑った。

「考えすぎちゃダメ。自然に。あくまで自然に授かるのがいいって」

 がんばんなさいよ。大家は俺の背中をバシンと叩いて去って行った。脱力する。どうしてこんなにも通じないんだろう。どっと疲れた気がして、このままどこかへふらりと消えてしまおうか、と思った。


++++++++


「ただいま」

 呼びかけても返事はない。シンクや机の上が相変わらず乱雑に散らかっている。俺は無言で片づける。昨日学んだ。シャワーを浴びる前に片付けをすべきだと。

 妻は横になってスマホの画面を眺めていた。電気もつけずに、顔だけが明るく照らされている。一瞬そのスマホを取り上げたい衝動に駆られた。取り上げて、叩き割って、現実を見てほしい。散らかった部屋と、なにも進まない時間。子供が死んでから、止まってしまった時間。

 取り上げる代わりに、声をかける。

「なに見てんの」

 妻はハッとした顔でスマホの画面を俺から遠ざけた。今まで俺が帰ってきたことにすら気がついていなかったのか? 

「明日休みだから、どっか行こうか」

 話しかけても返事はない。黙っている。

 俺は部屋に散らかっている洗濯物をたたむ。人間の暮らしをしたい。

「もうわたしだめかも、死にたい」

 妻がぽつりと呟いた。自然と手が止まる。一瞬頭の中が真っ白になった。


 俺が。俺が俺が俺が俺が俺が。汚い部屋や染み出した体液を薬剤で分解して埃まみれ蛆まみれ蠅まみれ油まみれになって稼いで支えている暮らしが。唯一守りたかった清浄な空間、家が。侵されていく。あいつの気配でいっぱいになる。あいつはとうとう夢から飛び出して現実の世界にまで侵食しだした。そういえばここのところあいつの夢を見ていない。


 夢を、見ていない。


「一緒に死んでくれる?」

 妻が言った。

「ひとりで死ね」

 口が勝手に動いた。俺は。


 俺は

 ただお前と、こどもを護ってやりたかった。

 あいつの気配から護ってやりたかった。


 でも、もう。


 妻が黒い目で俺を見ている。

 それは顔を、手足を得たあいつそのものだった。

 ぞわぞわっと悪寒がして、自分の足からゴキブリが這い上がってくるような錯覚に襲われる。どこからともなく死臭がして、それはたぶん、俺の体から放たれているのだった。


 浴室に駆け込む。洗剤を浴びる。全身に泡を。泡を

「う、」

 おえ、っと排水溝に向かって嘔吐した。こんなの働き始めの頃以来だ。鼻のすぐそばに漂ってくるあの独特のにおい。ボディソープのにおいと相まって、なおさら強調される。気持ちが悪い。屍体だ。俺の体も、屍体と変わらない。ように思えてきて、生きていることを証明するためにタオルで強くこする。


 何時間浴室にこもっていただろう。肌がすっかりふやけてしびれるようだった。暑いのか寒いのかすらわからない。脱衣所に出て、タオルで体を拭いているとふと、外から音楽が聞こえてくることに気がついた。妻が胎教にダウンロードしたリラクゼーション用のプレイリストだ。スピーカーで鳴らしているのか、めずらしい。

 おなかのこどもに聞こえるようにと、以前はよくこうして音楽を聴いていた。


 ふいに嫌な予感がして、あわてて脱衣所を出る。

 玄関ドアのノブに結んだシャツをかけて、妻が首をくくっていた。

「美月!」

 返事はない。息もしているか怪しい。あわてて救急車を呼んだ。

 あいつが家の中に入ってきた。そう思った、

 俺が、あんな夢を見るから。

 俺のせいだ。

 こどもの命がだめになったのも、美月がこうして倒れているのも、全部。

 全部俺が。俺のせいだ。

 俺が、ひとりで死ねなんて、言ったから。


 そこではたと思い至る。

 もしかするとあいつはだったんじゃないか?

 ぞっとして玄関先にかけてある鏡を見た。真っ暗な中で、目も口も鼻もない、昏い顔がこっちを睨んでいた。そいつが嗤ったのを見た気がする。


 幸い、妻は病院で意識を取り戻した。処置が早くて助かったらしい。後遺症もほとんどなさそうだった。


 入院用の荷物を取りに帰ったとき、スマホにロックがかかっていなかったので、悪いと思いつつ、つい中を見てしまった。ウェブラウザの閲覧履歴には、子は親を選んで生まれてくる、死んだ子も親になにかを伝えようとして腹に宿るのだと主張するブログや、子供連れへの苦情が書き連なった掲示板、虐待死の記事、こどもが死ぬのは親の愛情が足りないから、魂を高めて浄化するべきだ、という女のSNS、虐待の加害者になった人間を糾弾し、親になるために資格が必要だ、未熟な人間からは権利を剥奪しよう、と主張するブログなどが並んでいた。読んでいるだけで気分が悪くなるような文字列だった。一日中家にこもって、こんなものを読んでいたのか。具合も悪くなるはずだ。

 両目から、自然と涙がこぼれていた。スマホ画面が涙で汚れる。

 妻は自殺しようとしていた。おそらく自分を責め続けた結果なのだろう。一緒に死んでくれ、と言われた俺は、なんて言った? あいつになんて言った?

「ひとりで死ね」

 そう言って突き放した。

 俺はスマホに残っていた履歴を全部消した。

 テーブルの上には急いでゴミを避けた形跡があって、そこにカナタさんへ。と書かれた手紙が置かれていた。遺書のつもりだったのだろう。震える手で几帳面に折りたたまれた便箋を開く。何度も消して、書き直した跡があった。中に俺を責める言葉はなかった。家事ができないことを詫びる文章と、こどものこと。私がもっと気を遣っていたら、もっと早く気がつけて、赤ちゃんも助かっていたのに。後悔と謝罪が連なっている。手紙は「私と一緒にいてくれて、ありがとう。弱くてごめん」という言葉で締めくくられていた。

 この手紙を書くのに、ずいぶん時間がかかったのだろう。だから、助かった。俺が、間に合った。そう思いたかった。手紙の前でずいぶん長い間泣いていたように思う。車で病院に戻る最中も、涙は止まらなかった。


 俺が病室に入ると、妻はうつむいて何も言わなくなる。

「机の上の手紙、読んだ」

「そう」

 読まれた後に顔を合わせるつもりじゃなかったから、どんな顔していいかわからない。と妻は言った。そのままでいいから聞いてくれ。と俺は言った。

 大家の態度に腹が立ったこと、こどもを作ることを頑張る、頑張らないで表現することに違和感があること、居酒屋の客にキレそうになったこと、死んでしまったこどもは生まれつき完全だったこと。足りないものなどないもないこと。自分が苦労しているのに、妻だけ楽をしているように見えて苦しかったこと。死ぬ、と言われたことが、自分のこれまでのすべてを否定されたようで辛かったこと。死ね、と言ったことは本意ではないこと。人生の中で一番発言を後悔していること。言葉にならないような、今まで言葉にしなかったようなことを、たどたどしい口調で、すべて、妻に話した。今はただ聞いてほしかった。気がつくと妻は顔を上げて俺の目を見ている。見開かれた目から涙が零れ落ちる。

 お産以降、妻の涙を見るのは初めてだった。

「ごめんなさい」

 もう一度妻は言った。

「もう謝らないでほしい」

 そう返事をすると、大粒の涙がぼろりとこぼれて、妻は顔を覆って嗚咽を漏らした。

「なにも悪いことなんかしてないだろ」

「でも」

 元気な赤ちゃん、産んであげられなかった。妻は、絞り出すような声でそう言った。妻の白い手を取る。外に出ていないせいか、蛍光灯の光みたいな、頼りない白だった。

「ごめんな、ほんとはずっと怖かったんだ。自分が疫病神みたいで」

 あいつのことだけが、どうしても言葉にならない。

 俺はあいつを遠ざけたかった。家から、家族から、妻と子供から。

「こんな仕事してるから、俺、父親とか、わからない。葉月になんて言う? お父さんなんの仕事してるの? って聞かれたときに。ちゃんとした父親になれる自信なんかなかった。だからせめて、仕事増やして、家に現金を入れて、それで埋め合わせるつもりだった。いつも家に帰るとき思う。綺麗な家の中に俺が汚れを持ち込んでる。汚い俺が、だって臭いとか、いくら洗っても、とれない」

「違う」

 妻が首を振る。喉をやられているのか、声がかすれている。

「わたし、あなたの仕事のこと、尊敬してる。無縁仏が祀られてるお寺に、毎回律儀に出かけて行って掃除したり、お祈りしたり、してるでしょ。わたしあなたのそういうところが、そこが」

 違うんだ、あれは自分を、家族をあいつから護るための、儀式みたいなもので。人が死んだ部屋にこもっている思い出とか、死んだ人のこだわりとか、そういうものから逃れるための、ルーティーンなんだ。

「そういう真面目なところが好きだった」

 妻が俺の腕を顔に押し当てて泣いている。涙が熱い。生きている。

 穢れているのは、俺自身だった。あいつはやっぱり、俺だったんだ。

「胎脂のにおいって、死臭に似てるなって、思ったんだ。いつも片付けながら思ってる。今度は綺麗に生まれてきなよ、って。たくさんの人に囲まれて、望まれて生まれてきなよって。でもそれってすごい傲慢だよな。だから、葉月は、俺が片付けた部屋に住んでた、誰かなんじゃないかなって思ったりもするんだ。俺の考えがあまりに甘くて、あの人たち怒ってるんじゃないかな、それで、俺のところに生まれ直すなんて御免だって、言われたんじゃないかなって。俺が父親じゃなかったら、きっと元気な赤ん坊が生まれていた気がする」

 そこまで一気に言うと、妻がふと顔を上げた。

「わたしたち似たようなこと考えてたんだね」

 自分じゃなかったら。他の誰かだったら。もっとうまく、もっと善くやれたんじゃないか。俺たちが言っているのはつまりそういうことだった。

「でも。わたしたちじゃないと、あの子は生まれてこられなかった」

 妻がぽつりと呟く、そうだな、と俺は言った。



+++++++++


 退院した妻を迎えるために、部屋を綺麗にする。仕事でやっているみたいに、徹底的に。なぜか頼んでもいないのに山際が来た。

「すいません、所長に事情、聞いちゃいました」

 休みをとるために、所長にだけは詳しい話をしていた。他の従業員にはくれぐれも漏らさないよう頼んだのに、所詮口約束なんかこんなものか。でも不思議と、そこまで嫌な気分ではない。山際なら他の人間に喋らないだろう。そう思う。

「じゃあ片付けますかね」

 葉月の仏壇に線香を備えた後、口元にタオルを巻きながら山際が言った。

 家の中にはゴミが溜まっていて、ごみと言うのは妻が目を通せない出産一時金の資料であったり、新生児を迎えるための心得が載っている冊子だったりした。ゴミにはその人の暮らしがよく出る。妻は家にいる間、本当にどこにも外出せずにじっとしていたみたいだ。近くのパン屋の袋がたまに落ちていたが、それも俺が買ってきたときのものだった。

「近々友達の家に餓鬼が生まれるらしいんで、新生児用のおむつもらって帰っていいっすか」

「お前さてはそれが目的だったろ」

「一割くらいは」

 俺は笑った。山際らしい。

「友達って元カノなんですけど、高校のときから五年くらい付き合ってて」

「へ?」

「めちゃくちゃ自殺願望のある女だったんすよ。手首とかぼろぼろだし。そいつ親とうまく行ってなかったから、俺のスマホに病院とかからガンガン電話くるし、元カノ自身すげぇしょうもない用で職場に電話かけてくるし、俺それで前のとこクビになってますからね」

「まじか」

「でもそいつもお母さんなんですよね。俺と別れた後、なんか気の合う人が見つかったみたいで。今は落ち着いてるみたいっす」

「いい話じゃん。まだ連絡とってるくらい仲良いんだ?」

「まぁねー、好きだったんで」

 山際は喋りながらも、ごみをどんどん分別していく。手際がいい。俺が遅れているくらいだ。

「めんどくせぇ、っていう気持ちと、好きって気持ちって全然別で独立してるじゃないですか」

「お前がそんな真面目な奴だと思ってなかった。ごめんな」

「ひでぇな。溝口さんだけは俺のこと見た目で判断してないと思ってたのに」

 俺が笑ったので山際も笑った。ほんとうは笑いたくなんかないのかもしれない。ふとそう思って、手が止まる。

「どうしました?」

「いや、お前けっこう良いこと言ったなって。好きって気持ちと、めんどくさいって気持ちは、共存するんだな」

 あとあれ。ベビーグッズ売っちゃったから、その話もっと前に聞いとけばよかった。と言うと、山際は、メルカリとかで売ればよかったのに、もったいない。もっと良い値で売れたと思いますよ。と言った。


 掃除の甲斐あって、気持ちよく妻を迎えられる部屋になったと思う。時給のつもりで山際に現金を包もうとすると、断固として受け取りを拒否された。

「先輩にはもっと周りに支えられてるっていう実感が必要っすね」

 と偉そうなことを言う。


 山際を送り出して、いつもの習慣でついシャワーを浴びて、そう言えば大量のボディソープのストックも、なにもかも妻が用意してくれていたものだった、ということを思い出した。俺が執拗にシャワーを浴び続けることも、ボディソープやシャンプーの減りが早いことも、妻からはなにも言われたことがない。

 車に乗って病院に向かう間も、山際の言っていたことと、洗剤の買い置きストックが切れたことがないこと、仕事着を防臭洗剤でいつも洗ってくれていたこと、深夜に帰っても、明け方に帰っても、冷蔵庫に必ず夜食が入っていたこと、なんかを次々と思い出していた。


 もしもまた、妻に一緒に死んでくれる? と言われたら、俺はなんて答えるだろう。病院に向かう一本道を走りながら、考える。「喜んで」いや、ダメだろ。「また今度ね」なんか違うな。わからない、俺の語彙力では限界がある。今度山際に聞いてみようと思った。あいつなら詳しそうだ。

 病院へ向かう一本道、アクセルをぐっと踏み込んだ。 

 それからふと気がついた。ここのところ、俺は夢を見ていない。





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