橘沙也加は擬態する

羽鳥(眞城白歌)

雨の音を聴きながら


 柔らかくガラス窓を叩く雨音が、教科書を読みあげる先生の声に混じって耳を通り抜けてゆく。湿った空気はじっとりして重く、人によっては体調不良の原因になるらしい。

 だとしたら、これもそういうたぐいのものだろうか。


 教室の窓の外に降りしきる雨を眺めていた田所たどころ涼平りょうへいは、さりげない風を装いながら視線を揺らし、隣の席に瞳を向けた。


 ――今日は、グラタンか。


 隣席の椅子に座っているはずのクラスメイト、たちばな沙也加さやかの姿はそこになく、代わりに、ひと皿のグラタンが鎮座している。

 たった今オーブンから取り出したとでも言わんばかりに、ふんわりした白い湯気が立ち上っていた。彩り豊かな具材に滑らかそうなホワイトソースが絡み、とろけて焼き目のついたチーズは香ばしそうで食欲を刺激する。

 じとりとした雨の日にふさわしい、心まで満たしてくれそうな、出来立てほかほかのグラタンだ。


 ――お腹空いてるのかなぁ、橘さん。


 ちょうど四限目で昼休憩が待ち遠しくなる頃合い。涼平のお腹もさっきから主張している。見ればますます要求が激しくなるのだけれど、どうしてもつい、気づかれぬよう意識しつつも視線を向けてしまう。

 もう驚きもしないほどに慣れてしまったと自覚しつつ、涼平は、この現象が起こり始めた時を思いだしていた。



 ***


 

 沙也加さやかとは、高校の二年ではじめて一緒のクラスになった。

 肩まで届く艶やかな黒髪に、大福餅みたいな白い肌。おとなしく、あまり笑顔を見せない彼女だったが、かえってそれが育ちの良さを感じさせる。

 理想の大和撫子として、数人の男子から絶大の支持を集めてもいた。


 そんな彼女と偶然にも隣の席になり、涼平も彼女を意識するようになってゆく。

 すうっと通った鼻筋、真面目そうな口もと、鼻から顎にかけて綺麗なラインを描く横顔は、いくら眺めていても飽きないように思えた。


 今でも、よく覚えている。

 あれはちょうど梅雨入り宣言がなされた、六月の始め。今日と同じく雨の日だった。

 いつものように横目でチラチラと沙也加を見ていた涼平だったが、気がつくと隣席から彼女の姿が消えていたのだ。席を立った様子もなかったし、突然のことだったため思わず隣を見てしまい――映った光景に絶句した。


 彼女がさっきまで座っていた椅子の上には、なんの前触れもなくが座っていた。

 福島県会津あいづ地方の郷土玩具。赤く塗られた牛の張り子人形だ。ブタと牛が混ざったような愛嬌ある顔がゆらゆら揺れるのは、頷いているようで居眠りしているようで、不思議な愛らしさがある。

 家族で行った時に気に入って、白虎隊の刀と一緒に買ってもらったから覚えていた。


 ――いや、そうじゃなくて。

 どうして自分は今、赤べこと椅子を並べているんだろう。


田所たどころ。次の問題を解いてみろ」

「は、はい!?」


 混乱していたところを不意に指されて、飛びあがる。先生には見えていないのか、こんなに奇妙な現象なのに。

 そう思って隣を見れば、すでに赤べこの姿はなく。

 沙也加がいつもの真面目な顔で、教科書に目を落としているだけだった。




 白昼夢ゆめか、それとも超常現象オカルトか。

 涼平だって人並みの好奇心を持っているのだ、気にならないわけがない。

 まして、少し意識し始めた隣の女子。軽口のように聞ける仲なら良かったのだけど、沙也加をまだよく知らない以上、無遠慮なこともしたくない。

 だから涼平は、気づかれぬようにしつつも彼女に目を向けてしまうのだ。


 そうして観察し続けていれば、その現象の法則性みたいなものが少しずつわかってくる。

 沙也加の姿が変わるのは、決まって雨の日。

 どうやら涼平以外の誰にも彼女の変化は見えていないらしい。


 彼女が姿を変えている時間は、いつもそれほど長くない。

 ふと視線を向ければ変わっていて、いつの間にか戻っている。控えめな彼女らしいささやかな不思議現象を、涼平はだんだんと楽しみに思うようになっていた。

 通学に不便で、鬱陶うっとうしくて、あまり好きではなかった雨の日を、今では心待ちにするくらいに。


 ――橘さん、今日はどんな姿を見せてくれるんだろう。


 相変わらず本人に尋ねることはできずにいたが、見逃したくなくって、歌うような雨の音が聞こえてくると、つい沙也加のことを考えてしまうのだった。



 ***



 今日の体育は雨のため、体育館で男女合同のバスケになった。

 長身のバスケ部が見事なシュートを決めると、観客の女子たちから黄色い声援がわき起こる。つい目を向ければ、沙也加も周りの女子に合わせて控えめに手を叩いていた。


 正直、涼平はゲームの行方より沙也加の様子のほうが気になって仕方ない。

 半袖の体操服からすっと伸びる、一度も紫外線に焼かれたことのなさそうな白い腕。陶器のような肌、という言い回しがあるらしいが、沙也加こそまさに陶器そのものじゃないかと錯覚してしまいそうだ。


「おい! なにヨソ見してんだよ、涼平」


 ピピーッと甲高く響いた笛の音と同時に、チームメイトからバシッと背中を叩かれ、涼平は慌ててゲームの方へ意識を戻す。

 ちょうどボールがサイドラインを割り、敵チームに渡ったところだ。


「俺が行くー」


 チャラい格好をした男子が線の外へ行き、ボールを拾いあげた。キョロキョロとフィールドを見回し、誰に送ろうかと迷っているようだ。

 ブロックしようと動く相手チームを避けようとしたのだろう、彼は力任せにボールを放り投げる。間違いなく力加減を誤ったパスは大きく弧を描いて飛んでゆき、敵どころか味方さえも通り越して、観客の女子たちが並んでいる方へ落下した。


 涼平の目に、それはまるでスローモーションのように見えた。

 ボールが向かう軌道の先、その場所に、異様に白い物体ものがある。釉薬ゆうやくを全く使っていないような白さの、すんなりした形の大きな白磁の壺、――だ。


 陶器肌、ではなくその白磁器を狙うように、ボールが勢いよく飛んで行く。勢いを増す雨の音、女子の悲鳴、それらが混じり合って涼平の意識に押し寄せる。


 ――危ない!


 考えるより先に身体が動いていた。


 全身のバネを総動員して壺に駆け寄り、両手を広げる。勢いで割ってしまわぬよう寸前で足を踏ん張り、壺を抱きかかえて床に転がった。

 受け身を取りきれず壁に背中を打ちつけて、呼吸が止まる衝撃に思わず呻いたが、これくらいなら大したダメージじゃない。


 間の抜けたようなボールの落下音が響き、女子たちの悲鳴も静まっていく。

 体育館の屋根を叩く雨音が、波紋のように広がるクラスメイトたちのひそひそ声とざわめきを呑み込んで、まるで耳鳴りのようだ。


「……田所、くん?」


 胸元からか細く聞こえた声に、涼平は思考停止したまま視線を向ける。自分の腕に抱きすくめられて縮こまっている沙也加が、上目遣いに自分を見つめていた。


「おわ! ご、ごめん!」


 世界の音が、一気に戻る。

 慌てて腕を解き距離を取る涼平に、元凶のチャラ男がからかうような、しかしどこか安堵するような表情かおで言った。


「おー、涼平! ヒーロー気取りかよー」


 途端にどっと、笑いが起こる。


「なに言ってんの! あんたのせいでしょー!」

「えー、事故じゃん! ドンマイじゃん!?」

「田所君、やるぅー」

「い、いや、割れると……思って……」


 口々に言いあっては笑いあうクラスメイトたちの冷やかしに、顔が熱くなる。つい手のひらで口元を覆いながら、涼平はボソボソと言い訳した。尻すぼみになった語尾は、いっそうみんなの笑いを誘ってしまったようだ。

 沙也加の方を見れば、彼女も耳まで真っ赤になってうつむいている。


「ご、ごめんね。橘さん」

「ううん。……ありがとう」


 か細く囁かれた声は、周りの笑い声と騒がしい雨音に混じって切れ切れだった。何か言わなきゃ、と思ったところで、ピピーッと笛の音が響く。


「よーし、今日はここまでにするか! 騒いでないで片付けに入るように!」


 水を差された気分で涼平は言葉を飲み込み、はやし立てていたクラスメイトもバラバラと散っていった。涼平も、ボールを拾おうと立ちあがる。


「あ、田所くん」

「うん?」


 遠慮がちにかけられた沙也加の声に多少の照れを覚えながらも振り返れば、彼女は潤んだ目で涼平をじっと見あげていた。


「割れるって……あの。……ううん、なんでもない」


 ありがと、と口の中で言いながら素早くぺこりと頭を下げて、沙也加は逃げるように体育館を出ていってしまい。

 涼平はなんだか取り残された気分で、その後ろ姿を見送ったのだった。



 ***



「ただいまぁ」


 無人の家へ帰宅し、鍵を開けて声をかける。涼平の声を聞きつけたのだろう、奥から茶色の毛玉が転がるように飛びだしてきた。

 キュウンとかクゥンと聞こえる甘え声で足にまとわりついてくる子犬を抱きあげて、涼平はぐいと顔を近づける。


「ぬれせん、ただいま」


 おかえりとばかりにキュウキュウ鳴きながら鼻を舐め回す子犬のしたいように任せながら、靴を脱いで軽く揃える。


「ちょ、くすぐったいって」


 落ち着きなく耳たぶまで舐めようとする子犬をやんわり制し、涼平はまっすぐリビングへ向かうと、テレビの前に席を定めてリモコンのスイッチを押した。

 画面に映ったチャンネルでは天気予報をやっていて、気象予報士が「しばらく雨の日が続くでしょう」とか何とか解説していた。


「そういえば、おまえと出会ったのも雨の日だったよな、ぬれせん」


 肩に登ろうとしていた子犬を膝に下ろしてやる。

 安心したように足の間に収まってくつろぎ始めたぬれせんを撫でていると、腕に残る彼女の柔らかな温もりが思いだされて、心がざわめいた。


 ――橘さん、明日は何になるのかな。


 降りしきる雨音より、体育館を満たす笑い声より。彼女の落としたひとしずくの言葉が、波紋のような跡を心に残して消えそうにない。


 この気持ちをどんなふうに形容しなづけたらいいのだろう。

 明日も、明後日も、雨が降ってくれれば、やがては答えを出せるんだろうか。




 *** *** ***




 雨が降ると、体調が悪くなる人も多いという。頭痛がしたり、膝や傷跡が痛くなったりするという話はよく聞くけれど。

 これは、そういうたぐいのものと言っていいんだろうか。


 たちばな沙也加さやかは目だけをわずかに動かし、隣席の田所たどころ涼平りょうへいに気づかれぬよう視線を送る。


 ――知ってる。


 雨の日になると、彼も自分に視線を送ってくることを。

 沙也加には、その理由もわかっている。




 彼女の家系は、ちょっと変わった特性を持っているらしい。

 雨の日になると、特定の人物には別の存在なにかに見えてしまう――というものだ。


 はじめてそれを認識したのは、幼稚園のころ。

 外では雨がざあざあと降っていたので、みんなで折り紙を始めた。ツルとか、ウサギとかを本を見て作ってみたり。

 先生がちょっと工夫をして、男の子たちの大好きな怪獣の折り方を教えていた時だった。

 隣に座っていたサトルという子が、突然に泣きだしてしまったのだ。


 なだめようとする先生に向かって彼は、沙也加を指差しながら訴えた。


 ――怪獣がいる、と。


 先生も、他の子たちにも見えていなかったが、幼かった沙也加は心を深くえぐられた。帰って母に伝えれば、驚いたように目を見開いて、それから笑って言ったのだ。


「沙也加も、そんな歳になったのね」


 そうして打ち明けられた話は、にわかに信じることのできないものだった。




 ぬえという妖怪がいるらしい。

 正体不明の代名詞みたいな姿をしていて、不気味な声で鳴き、人々を翻弄ほんろうしたという。

 祖母の話によると、大昔に武人と協力し妖怪退治を請け負った巫女が沙也加の先祖で、彼女がぬえから受けた呪いが、代々この家系の女性たちに継承されているというのだ。


 それは雨の日に顕現けんげんする呪い。

 自分が好意を寄せている相手の目に、別の何かとして映ってしまうというもの。



 意味がわからなかった。

 自分が好きな人に奇異なものとして見られるなんて、つらすぎる。

 だから沙也加は人づきあいを少なくし、特に男子とはできるだけ距離を置くように心掛けてきたのだ。あの日のように、指を差されることがないように。


 ――それなのに。




 思い出すのは、淡い新緑が鮮やかさを増す初夏の帰り道。静かに降りしきる雨が、歩道の傍らに咲くサツキの花を濡らしていた。

 傘で視界が狭まっていたので、濡れた路面にできた水溜りに踏み込まないよう気をつけながら、沙也加は一人で家へと向かっていたのだけれど。


「おまえ、せんべいみたいな色をしているな」


 聞き覚えのある声の色に、どきりと心臓が跳ねた。

 傘を傾けおそるおそる覗いた先には、濡れてへたった段ボール箱の前にしゃがみ込み、中の子犬に話しかけている涼平りょうへいの姿があった。


 思わず、足が止まる。

 彼に気づかれてもいいと思える勇気が、湧かなかった。


「あー、びちょぬれじゃないか。ちょっ、ブルってするなよ、俺まで濡れちゃうだろ」


 ――そんなことを言ってるくせして、不快な表情いろなどかけらも見せずに。


「よぅし。びちょぬれせんべいだから、ぬれせんべいだな」


 制服が汚れるのもお構いなしで、捨てられていたのだろう子犬を抱きあげた涼平の屈託のない笑顔は――反則だと思った。


 少女マンガじゃあるまいし。

 沙也加は無意識に胸を押さえ自嘲のようなため息と苦笑を零す。

 あの優しい笑顔は間違いなく、今までずっと心の奥に押しやって見ないふりをしていた何かに、触れてしまったのだ。


 ――だって、あんなの見ちゃったら、落ちちゃうよ。

 誰もが口をそろえて言うとおり、恋とはするものではなく、落ちるものなのだ。



 ***



 そうっと隣に視線を傾ければ、涼平は窓の外を眺めていた。

 雨をいっぱいに蓄えた灰色の雲が太陽を覆い隠し、じっとりとした湿気が肌を包んでいる。ほどなくして、ざああと窓を打つ音が始まり、先生の声を遮っていく。


 激しく降りくだる、六月の雨。

 今日の雨音はしとしと囁く子守唄ララバイでも、ざわめく交響曲シンフォニーでもなく、心を震わせる熱い拍手喝采スタンディングオベーションのようだ。


 涼平の視線が揺らぐのを察し、沙也加も自分の視線を手元の教科書に引き戻す。

 激しい雨音が波立たせる水面みなものような、胸の奥、揺らいで震える想いを気づかれてしまわぬよう。



 ――ねぇ、田所くん。


 いまわたしはあなたの目に、どんな姿で映っていますか?





 fin.

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橘沙也加は擬態する 羽鳥(眞城白歌) @Hatori

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