第16話 知らない少女

 そんなモスバーガー事件の関係者であり、盛り上げようとベタな質問を投げかけるも徒労に終わった彼が先日、仕事の都合で関東を離れる事になった。地元に戻って公務員になるらしい。

 今後も定期的に東京へは来る予定があるらしく、それなりに顔も合わすのだろうが、一応は最後だという事で、仲の良かったメンツに声をかけ、送別会が開かれた。


 集合場所の上野駅にほぼ時間通りに着くと、改札の外に今日の主役の彼も含め知ってる顔がいくつかあった。すぐにそこに合流し、挨拶を交わす。

 と、その集団の中に知らない女の子が一人混じっている事に気付いた。そういえば幹事役が、主役の彼と親交があるメンツに手当り次第声をかけたと言っていたので、彼とは仲が良いが僕とは関わりの無い誰かなのだろうと推察した。実際その界隈には、そんな人が何人か居た。


 コミュニケーション能力のある人であれば、そこですぐに


「初めまして、○○って言います」


「○○です、宜しくお願いします」


 と、自己紹介をするのであろう。そうしてそれだけですぐにお互いに仲間だと見なし、見なされ、そこからは滞りなく友達として接する事ができるのだ。

 ところがコミュニケーション能力の低い僕はそれをどうしても躊躇してしまう。向こうから話しかけられれば普通に会話できるのだが、自分から話しかけるタイミングがわからない。失敗しそうで怖い。だから声をかけれない。それがあまりにも深刻過ぎて、いつからか僕はそういった自分を「人見知り」とありきたりに表現するのを止めている。


 モスバーガー事件からもう八年以上が経つが、根本的な所は何も成長できていないのだろうか。結局その知らない女の子にその場では話しかけず、「お酒も多少入ったタイミングでさり気なく自己紹介するのがベストタイミングだろ」等と言い訳がましい理由を付けて、他の知り合いとの会話に勤しんだ。何度か彼女の視線がこちらに向いている気がしたが、気付かないふりをした。




 遅れてくる数名を除いて全員が集まったので、僕らは予約してある店へと移動した。駅近くの雑居ビルの五階あたりだっただろうか、雑居ビルといっても比較的新しい綺麗な建物で、店内もややお洒落で小綺麗な居酒屋だった。

 奥の座敷に案内される。一同が上着を脱いで備え付けのハンガーに掛け始めたのだが、僕が着ていたのはもう長い事着古したウインドブレーカーのような物で、ハンガーに掛けるほどの物でも無かったので、畳んで荷物と一緒に重ねて置いた。隣に居た例の女の子が、


「ハンガー使いますか?」


 と聞いてきたが、


「いや、ここで大丈夫です」


 と短く返して、僕は席に座った。


 飲み会が始まった。僕が座っていたのは角席。左隣は壁、右隣には例の女の子がいた。正面に座っていたのはお互いによく知った顔、というかモスバーガー事件の時に向こう側のテーブルに居た四人のうちの一人で、僕はそいつと最近行った音楽フェスの話等で盛り上がっていた。

 ふと横を見ると、女の子があまり会話にも混ざる事なく、静かに座っている。さてどのタイミングで話しかけるべきか、等とずっと考えていたが、そのタイミングは急に訪れた。


 僕と話していた正面のそいつは、界隈の中でも早々に腐男塾のファンから離脱していった。だからその分、ファンとの交友関係が狭い。完全に知らない人が来るかもしれないから、今日の参加者全員の名前を教えてくれ、といった事をそいつが言った。そして彼は飲みの席を見渡し、僕の隣の女の子を見て、こういったのだ。


「そういえば会うの初めてですよね?」


 急に目の前の海が割れた感覚だった。来た来た!ここだ!心の中の僕が小躍りしている。このタイミングしかない。自己紹介に持ち込むならこのタイミングしかない。ナイスパス!ナイスアシスト!足立区のイニエスタ!コミュニケーション障害の希望の星!


 もうあとはゴール前でボールを押し込むだけだ。「僕も初めまして」と言って自己紹介が始まるだけだ。それだけであとはもう、何も深く考えなくていい楽しい飲み会が始まる。


 逆サイドで延々と自意識のアップダウンを繰り返していた僕の前に突如通されたキラーパス。猛然と僕はボールに駆け寄り、歓喜のゴールを決める野人岡野のように渾身のシュートを放った。


「僕も初めましてですよね?」


 足先でわずかに触れると、純白のボールは転がる方向を変える。大歓声の中放たれた僕のそのシュートは、無人のゴールに吸い込まれていく……はずだった。


 女の子は僕の方を見ると、少しだけ笑ってこう言った。


「いや、会ったことあるじゃないですか」


 思考が止まる。目の前が銀色になった。段々とまた脳が働きだし、辺りの景色が鮮明になってきて、周りの「何回も会ったことあるだろ」という声が聞こえてきた。どうやら僕はこの女の子と会ったことがあるらしい、それも何回も。


 完全にゴールかと思われた僕のシュートは、ただころころと力なくピッチを転がり、ゴールの枠の外に出ていった。僕は市川市の柳沢だったのだ。




 名前を聞くと、確かに彼女の名前を僕は知っていた。更には居合わせた他の友人のスマホから、僕と彼女が一緒に写っている写真まで出てきてしまい、その写真の中の彼女を見て、そうだこんな子が居たなと思い出した。

 だがその瞬間までは、僕はその子の事を完全に忘れ去っていた。名前と当時の顔で思い出しても、それは限りなく薄っすらとした記憶であり、彼女との具体的なエピソードは何一つ思い出せなかった。何故こんな事になったのだろうか。いずれにせよ、何度も会ったことのある人に対して「はじめまして」と挨拶するという、特大の地雷を僕が踏み抜いたらしい事は確かだった。


 しかしここまで行くと僕のコミュニケーション能力の欠如っぷりもいよいよである。半分は記憶が無かったせいとは言え、何度も会ったことのある趣味の仲間に対して一時間以上も、どうやって話しかけるべきか、等とビクビクしていたのだ。


 モスバーガー事件の後、流石にこれではいけないと思った僕は、そういった集まりで沈黙が訪れた場合、先陣を切って話をするようにしていた。するようにしていたというよりも、沈黙が訪れると事件のトラウマを思い出して発狂しそうになるので、話をしてないと耐えられない、というのが正しかった。


 だから僕のコミュニケーション能力は、昔と比べればだいぶ改善されたと思い込んでいたのだが、どうやらそうでもなさそうだった。いや、当時より幾分かマシになったのは事実だろうが、あくまでもマシになった程度であり、まだまだ日常生活に支障をきたす事は山ほどある。


 何はともあれ、地雷を踏みぬいた僕はまずその後処理をしなければならなかった。テーブルに手をつき、やや大袈裟に「申し訳ございませんでした」と謝った。真剣な謝罪というよりは謝罪コントに近い、ややおどけた風の言い方だ。要はこの一件を、面白おかしい失敗談にしようと企んでいた。

 幸い彼女も笑いながら「いや、会ったことありますよ」と言っていて本気で怒っているわけでは無さそうだった為、それに乗っかった形でもあった。軽く道化を演じて、“お調子者の愉快な日常の一コマ”にしてしまいたかったのだ。


 だが事態は僕の思うようには進まなかった。と言うのも、その道化謝罪によって完全に、その女の子の攻撃、僕の防御という構図が出来上がってしまった。そうして、おそらくタイミングを見計らっていただろう彼女から、こんなとんでもないエピソードが投下されたのである。




 数年前、僕とその子が何度も腐男塾の現場で顔を合わせていた(らしい)頃、偶然帰りの電車の中で僕と彼女が二人きりになった。当然僕にはその記憶も無いので、彼女の口から語られるその後の出来事に吃驚仰天したのだが、そこから別れるまでの三十分以上、なんと僕は一言も会話を交わさずに延々と携帯電話を見続けていたというのだ。


「だから、あ、私嫌われてるんだなって思ってたんですよ」


 その一言で僕は、その日のそれまでの彼女の言動の理由が手に取るようにわかってしまい、頭を抱えた。


 彼女は僕に嫌われていると思っていたのだ。無理もない、初対面でも無いのに電車の中で三十分以上何も会話せずに携帯を見ているなど、どう考えても嫌いな人に対してする行動だ。逆にやられたらきっと僕でも、嫌われているんだなと思うだろう。

 だから、改札前で集合した時、僕との間に微妙な距離感が生まれた。こちらから気さくに話しかければ何も問題なかったのだが、その距離感を感じ取ってしまった僕はいつものコミュ障っぷりを発揮して一切話しかけず、それが「嫌われているのではないか?」という彼女の仮説を強烈に裏付ける結果となってしまった。


 更には店に着いてからも、「ハンガー使いますか?」という彼女的にも勇気が要ったであろう問いかけに、僕は素っ気ない返答をしてしまっている。この素っ気ない返答もコミュニケーション能力の欠如が原因なのだが、この辺で彼女は確信した事だろう。やっぱりこの人は自分の事を嫌いなのだと。


 そんな状況で、自分の事が嫌いだと“確定”した男の隣に座って飲み会が始まるなど、地獄極まりない心境だったろう。だから彼女は静かに座っていたのだ。僕たちの会話に入っていけるはずがないのだ。


 それなのに隣の、自分を嫌っている男が突然問いかけてくるのだ。初めましてですよね?と。なんだこいつ!と思ったに違いない。ジョイマン池谷以来最大のなんだこいつ!だ。


 じゃあなんで話しかけてこねえんだよ!とか、なんで今なんだよ!とか、そもそもなんで覚えてねえんだよ!とか、色々思ったに違いないが、同時にそれは「この人は自分の事を嫌っている」という誤解が解けた瞬間でもあった。

 だからその瞬間に彼女の表情がほぐれ、笑みを浮かべ、“電車の中のエピソード”というとてつもない威力のミサイルを使った奇襲攻撃に打って出たのだ。


 昔何度も会っている事を忘れていた罪悪感に加え、ここに至るまで気を使わせてしまった罪悪感が積み重なり、卓上の肉が焼かれた鉄板に顔面から突っ込みたくなった僕は、再び「申し訳ございませんでした」と言った。さっきよりは少し真剣な謝罪だった。




 やっぱり僕は、ちっとも成長できていないようだ。何度も言うように記憶が全く無いので、彼女の言う事をそのまま信用するしかないのだが、確かに僕は電車で三十分間無言だったのだろう。僕は一対一の世間話が今でも苦手で、仲が良い人と一緒に居てもたまに話題に困ったりする事があるので、電車の中で二人無言、という光景は優に想像する事ができた。


 モスバーガー事件以降、そういう時は率先して話すようにしている。等とイキった文章を書いたが、思い返せばそれが出来ない場面も山ほどあった気がする。コミュニケーション障害とは、会話の繋げ方や引き込み方といった会話そのものの能力の欠如の事であり、率先して話そうとする意識でどうにかなる問題ではないのだ。これからも同じように苦しむ事があるかと思うと自分の頭を勝ち割りたくなるが、せめて今回の件のように人に迷惑だけはかけないようにしたい。


 結局その日は彼女とのその出来事を、本人や周りに何度も蒸し返され、その度に僕は謝り、結局駅のホームで別れるまで十五回程度「申し訳ございませんでした」等と言った。勿論面白くしようとか場を和ませようという意図も含んではいるので、そのくだりで楽しんでくれてたなら、多少は罪悪感が減る。




 そういえば、二回目くらいの「申し訳ございませんでした」の時、周りのメンツにこんな事を言われた。「お前がこんなにタジタジになっているのは珍しい」と。その場では、そうかな?みたいな事を言ってお茶を濁していたが、本当は気付いている。僕はそういう人間だ。


 基本的には、他人にいじられる事は嫌いではない。むしろ好きな方だ。笑いが好きであるから、最終的に面白くなって笑いが生まれるのであれば、割と何をされても構わない。というのが僕の考え方だ。

 だから、率先して僕の事をいじって欲しいのだが、日常生活の中で僕がいじられる事は殆どない。中学の頃も、大学の頃も、趣味の繋がりにおいても、僕は常にいじる側であり、いじられる側では無かった。


 理由は単純明快、僕がいじられても面白い返しができないのが原因だ。ずっとコンプレックスだった。いじられた時に、それをしっかりと受けて返せば絶対に面白くなると、理屈の上では十分以上に理解しているのに、それが出来ない。

 いじられると瞬時に防御態勢を取ってしまったり、ファイティングポーズを取ったりしてしまう。適当にお茶を濁してつまらない返しをしてしまったり、倍以上の勢いと物量でいじり返してしまったりして、場が変な空気になる。そうしてそこからいじられなくなっていくのだ。


 変にプライドが高いからなのか、学生時代に曝された理不尽な評価に対して常に防御姿勢を取っていたからなのか、自分の弱みを見せたくないからなのか……まあ、原因はそれら全てなのだが、僕は完全に“いじられない人間”になってしまっている。


 ところがその日は、僕は完璧に受けに周っていた。百パーセントどう考えても僕が悪いという状況だった事もあるが、例の女の子から飛んでくる爆弾や自分で踏み抜いた地雷に対し、リアクションを取り、頭を抱え、大袈裟に謝った。そんな事が自然にできていた。だから、そんな様子が珍しいと周りに言われたのだ。


 僕の中で、何かが変わったのだろうか。ここ最近の中で、高いプライドや過去のトラウマを払拭し、人に弱みを見せてもいいと思わせるような、そんな心境の変化があったのだろうか。ああ、確かにそんな事があったな、と思った。


 ふと、ある人の姿が脳裏に浮かんだ。どうやら僕にも少しは、あの頃から成長できている所もあるようだった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

キラキラと輝くものたちへ 針生省 @harioshow

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ