第15話 モスバーガー妄想
午後三時のモスバーガーの店内は、遅めの昼食を取る人と、喫茶店代わりにしてアイスコーヒー片手に会話を楽しむ人とでごった返していた。
季節は夏、八月。学校が夏休みだからだろうか、ひと際若者の姿が目立つ店内はよく空調が効いており、生き返るように涼しかったが、僕が涼しさを感じるのはおそらく空調のせいだけでは無かった。
僕が座っていたのは、四人掛けテーブルの一角だった。テーブルの上にはトレイが四つと、その上にバスケットに入ったポテトやハンバーガー、プラスチック容器の飲み物。それらを挟んで、テーブルの両サイドに向かい合うようにして二人ずつの男が座っている。
この四人には共通点が二つあった。一つは、全員腐男塾のファンであるという事。そしてもう一つは、全員極度の人見知りだという事だった。
大学生になり、僕は学校でも趣味でも友人が出来ていった。だがそれは運と偶然の結果であり、別に僕が高校時代から何かが変わったわけでも成長したわけでもなかった。おそらく僕のコミュニケーション能力は、高校時代から微塵も成長していなかったと思われる。
その日は八月の定期公演の日だった。あの四月の初ライブ以降、何度もイベントに足を運んでいた僕は、何人か顔馴染みのファン仲間が出来ていた。そんな中の一人から、ライブ前に集まりましょうと声を掛けられたのは前日の事で、何人ほど集まるのかと問うと、僕も併せて八人になるとの事だった。
問題なのは、他の七人の殆どと面識がない事だった。実際に会ったことがあるのは二人(それも1回ずつ)、ネット上で名前を知っているのが数名、名前すら知らない完全な初対面が数名という編成。沢山の人と知り合えるのは嬉しかったが、同時に悪い予感もしていた事を覚えている。
当日。グッズ販売の時間に八人が集合し、それじゃあ開場まで時間もあるし近くで軽くご飯でも食べましょうという話になった。ピークタイムではなかった物の、夏休みの渋谷という事もあって飲食店は軒並み混雑している。目当てのファミレスが満席だった事からそこを諦め、道玄坂を下っていくと、緑色のモスバーガーの看板が目に入る。誰ともなく「ここでいいんじゃないですかね」と言い、店内に入って行った。
店員に空席はあるかと尋ねると、四人ずつで二つのテーブルに別れてもいいならとの事で、はなから八人全員で座れるとも思っていなかった僕たちは快諾し、注文をする為にレジ前に並んだ。レジ付近は、頻繁に開閉される自動ドアの外から入ってくる熱気と空調の風が入り交じり、生暖かかった。
こうして僕たちは何となくで四人と四人に別れて席に着いた。いや、おそらく何となくではなかったのだろう。我々四人が固まってしまったのはきっと必然だったのだ。
集団の中心だった、前日に集合を言い渡した彼は、早々に店の奥にある方のテーブルに向かっていった。それに、普段から特に仲の良い三人が続く。そうしてお互いにほぼ面識の無い我々四人が取り残された。しばしの沈黙の後、誰かが「じゃあ座りますか」と言ったのを合図に、それぞれが椅子に腰かける。四人とも妙にそわそわしていた。全員が下を向いたまま何も話さない。悪い予感はどうやら的中していたようだった。
こうして、地獄の人見知りモスバーガーパーティが開幕した。
夏休みを満喫する若者達の、ワハハという笑い声と話し声が嫌に鮮明に聞こえてくる。まるでそれによる振動で動いたかのように、アイスコーヒーの氷がカランと音を立てて回った。賑やかな店内の中で、僕らのテーブルだけは水を打ったように静かだった。台風の目、砂漠の中のオアシス。店内をサーモグラフィで撮影したら、きっとここだけ真っ青なのではないかと想像した。
僕たちは確か、お葬式に来ていたのだ。今日は告別式。故人の顔を見れる最後の日。悲しくて悲しくて堪らなくて、だからこんなに誰も声を発さないのだ。きっとそうなのだ。そうじゃないと絶対におかしい、この静けさは。
さっきまで僕たちは式場に居たのだ。確かにそこで沢山お金を使った気がするが、あれはきっと香典だ。今手元にTシャツやタオルやオリジナル鉢巻きがあるが、これは引き出物だろう。その香典を渡す列に並んでいる時に、隣の扉の奥から、「世界中の人とネットゲームで撃ち合い、今日も僕は死んだ」等と読経が微かに聞こえた記憶がある。
そうだ、葬式だ。葬式だったのだ。
葬式……葬式か……
―
「馬鹿野郎が、なんで自殺なんて」
川沿いの道を歩きながら、マコトがぼそりとそう呟いた。語尾が、少し震えているのがわかった。本当だよ、とエイジがそれに反応する。俺は何も言わずに、ただ皆に続いてとぼとぼと歩いた。
「俺さ、本当はさ……」
言いにくそうに、ヒトシが口をもじもじさせる。何となく俺ら三人は、ヒトシが何を言おうとしているのかわかった。
「好きだったよ、なっちゃんの事」
そう言って肩を落とす。大きなヒトシの身体が、その時ばかりは少し小さくしぼんで見えた。
「俺もだよ」
「実は、俺もだ」
エイジとマコトが続くようにそう漏らす。
「あいつは皆の初恋だった、俺たち四人のな」
うんうんと頷いた。ふっと湿っぽい風が吹き抜け、思わず川の方を見る。なんだかそこにあいつが居るような気がしたが、夕陽に照らされる流れる川と、遠くを飛んでいる鳥の他には何も見えない。
俺たちは小中の同級生だった。出会いは小学生の頃、遠足で行動を共にするグループを作る際に、何となく五人が集まった。その時の班長を務めたのが、なっちゃんだった。
やがて俺たちは日常生活でも行動を共にするようになった。かけがえのない友達だったが、同時にグループの紅一点であり、姉御肌でいつもグループを引っ張っていたなっちゃんに、俺たちは淡い恋心を抱いていた。
「しかし四人もいて、結局誰も告白しなかったんだな、根性なし共め」
そのヒトシの言葉には自戒も意味も含まれていたように思う。しかしマコトはそこまでの意味を読み取れなかったのか、お前もその根性なしの一人だろというようにヒトシを小突く。それらをエイジがちらりと横目で見ていた。
「しなかったんじゃなくて出来なかったんだろ、俺たちの関係性が壊れるのが怖くてさ」
「確かにな……」
またしばらく、無言が訪れた。
「黒柳先生、元気そうだったな」
沈黙を破る為、必死に話題を探すかのようにマコトがそう言った。黒柳先生は、俺たちの中学校の頃の担任の先生だった。当時から結構な歳だったと思うが、今日のなっちゃんの葬儀で久しぶりに顔を合わすと、未だに腰も真っ直ぐで、当時と何一つ変わらないハキハキとした喋り方で俺たちに語り掛けてきた。
「俺たちがガキの頃からババアでよ、怒られたりすると裏でババアまだ死なねえのか、とか悪口言ってたのに、結局あいつの方が先に逝っちまいやがった」
エイジはそんな風に言うが、俺は黒柳先生をそんなに嫌いではなかった。確かに考え方は古風で細かい事にも口うるさかったが、良くしてくれた思い出も沢山ある。
生徒と同じ目線に立って物事を見てくれる先生だった。学年が上がり、勉強が高度化して俺が着いていけなくなると、「じゃあ先生と一緒に考えましょう」と言ってよく職員室に呼んでくれた。黒柳先生は国語の教員で、現代文や古文のわからない所を丁寧に教えてくれたが、英語や社会等の問題に苦戦していると、専門の教師に任せればいいのに、黒柳先生も一緒になって考えてくれた。
職員室には生徒会長だったヒトシが仕事で居る事が多かった。黒柳先生はそんな彼を捕まえては、「ヒトシ君、問題を出して!」とせがみ、ヒトシが教科書の中から出題する問題に、黒柳先生と俺は必死に答えるのだった。
いつしかその集まりにエイジとマコトも加わるようになり、他の生徒達からは“クイズ部”と揶揄されるようになったが、クイズ部のおかげもあって俺の成績はなんとか中の上まで回復していた。エイジはいつしかクイズ部の活動には現れなくなったが、黒柳先生と俺とマコトは、卒業するまでヒトシの出題するクエスチョンに答え続けた。
「あの時さ、お前らがクイズで盛り上がってた時……」
先ほどまでの深刻なトーンからは少し語尾を上ずらせながら、エイジが話し始めた。
「俺さ、なっちゃんに告白しに行ったんだ、初めて言うけどな」
そう言って笑う。なんという事だ、だからエイジは途中からクイズ部に顔を出さなくなったのか。
中学生になっても俺たちの友情は変わらなかったが、お互いに同性の友達と行動する事が多くなった。それだけ異性を意識し始めていたし、周りからの目が気になっていたというのもあった。だから俺たちはクイズ部になっちゃんは呼ばなかった。クイズと称して職員室で勉強をする俺たちを、彼女は怪訝そうな顔で見ていたが、別に悪い事をしているわけではなかったので、介入してくることも無かった。
「チャンスだと思ってな、あんまりお前らがクイズに夢中だったから」
僕らの中でなっちゃんはどちらかと言うと友達としての側面が強かった。抱いていた恋心というのも本当に淡く、吹けばすぐどこかに行ってしまうような物で、だからとてもじゃないが告白する勇気なんて無かった。マコトが言うように、なっちゃんと結ばれる事よりも、友達としてのこの関係性が壊れてしまう事の方が怖かった。
だがエイジはどうやら違ったようだ。エイジのなっちゃんへの好意は、俺たちの好意とは比較にならない程大きく膨れ上がっていたのだ。
「怒るか?」
エイジの問いかけに、ヒトシが首を振った。俺とマコトも同じ気持ちだった。怒りなどしない。
「だってさ……」
マコトがぷっと噴き出した。こいつの人懐こい笑顔を久しぶりに見た気がした。
「俺たちがそれを知らないって事は、なっちゃんに振られたって事だろ?」
エイジが小さく頷く。それを見て俺たち三人は、ダハハと笑った。
「ダッセエなあ、一人で勝手に抜け駆けして、勝手に振られちまいやがんの」
「うるせえなあ!結局告白できなかったお前らよりはマシだろ!」
俺たちは、ガキの頃のようにエイジを煽り、笑い合った。こんな事をするのは久しぶりだった。また、湿っぽい風が俺たちの間を駆け抜ける。さっきと同じように川の方を見ても、やっぱりそこには夕焼けと川があるだけなのだが、今度こそはそこに、あいつも居るような気がしてならなかった。
「あいつがまた、俺たちを繋げてくれたのかな」
マコトがぽつりとそう言った。そうかもしれない。きっとそうだ。
高校に入ると俺たちは疎遠になった。頭の良かったヒトシは俺たちなんかよりもずっと偏差値の高い私立の高校に進学して勉強漬けの毎日だったし、同じ高校だったマコトも家の手伝いが忙しいとかで、放課後に会う事も殆どなくなった。エイジとは変わらずだったが、あのクイズ部以降、微妙な心の距離感が生まれた。今思えばそれはなっちゃんの件が原因だったんだろうが、当時はそれに気付くはずもなく、やがてお互いに別の友達と遊ぶ事が増えた。
高校を卒業すると、ヒトシは東京の大学へ進学することになり、エイジも街を出ていった。地元で家業を継いだマコトと地元の大学に進学した俺は、また定期的に会うようになっていたが、もう全員が揃う事などそう無いんじゃないだろうかとよく話していた。
一方のなっちゃんは、地元の女子高に進学したが、その先の事はよくわからない。ただ風の噂で、不良になっただとか、夜遊びをしているという話を聞いた事があった。
俺が大学に入学した後、マコトと一緒に街を歩いている時に、交差点の反対側になっちゃんの姿を見た。中学校までの活発な雰囲気はそのままだったが、その姿はだいぶ大人びており、服装も昔からは想像がつかないくらい派手で、髪も金髪に染めており、最初は誰だかわからなかった。その場で声をかけようとしたが、マコトが俺の袖を引っ張って止める。よく見ると、なっちゃんの横にはもう一人、知らない男が立っていた。二人は仲睦まじく、腕を絡めながら繁華街を歩いていく。
俺とマコトは顔を見合わせ、空っぽの笑みを浮かべた。その後なっちゃんに出会う事は、二度と無かった。
一週間ほど前、中学時代の連絡網から連絡があった。なっちゃんが、死んだ。
自室の窓際で首を吊っていた。偶然早い段階で、なっちゃんのカウンセラーが遺体を発見したのは不幸中の幸いだった。夏のこの暑さでは、少しでも発見が遅れれば遺体は腐敗し、見るも無残な状態になっていただろうという事だった。
室内からは遺書も見つかった。旦那に逃げられた事、その旦那の残した借金が二千万ある事、親には勘当されていて頼れない事、精神を病んで勤め先のスーパーでもまともに働けなくなり職を追われた事、もう子供を育てていけない事……それらが赤裸々に記されていたそうだ。
首を吊っていたなっちゃんの視線の先には子供用のベッド。その上に置かれた毛布にくるまれた形で発見された幼子の遺体には、首の部分に何かで絞められた跡があったという。
葬儀はしめやかに行われた。中学の同級生は多くが集まったが、高校の同級生らしき人は殆ど見られなかった。
ヒトシは東京で報道関係の仕事をしていて多忙のようだったが、何とか日程を合わせて葬儀の為に帰省していた。エイジも経営するサウナが順調で、今日も大事な商談の予定があったそうなのだが、それを断ってでも戻ってきた。こうして俺たちは、中学卒業以来十数年ぶりに集結した。ただ一人、居なくなってしまったなっちゃんを除いては。
「なんでさ、誰も何もしてやれなかったんだろうな」
すっかり陽も沈んだ暗闇、微かに聞こえる蛙の声の中、マコトがそういい始めた。全員が押し黙る。敢えて触れなかっただけで、全員が薄っすらと感じていた事だった。
「なっちゃん、高校に入っておかしくなっちまったんだ、道を踏み外しちまったんだ、あの頃は俺たち全員まだこの街に居たのに、誰も気付いてやる事すらできなかった」
悪い噂は聞いていた。だからこそその場で、会いに行けば良かったのだ。確かめに行けば良かったのだ。何か手を差し伸べられる事があれば、差し伸べれば良かったのだ。なのに俺は、俺たちは、何もしなかった。自分には自分の今の生活がある等と都合の良い事を言って、大切な友達と真正面から向き合う事から逃げ続けた。
訃報を聞いた時、俺は最初にこう思った。そんなに辛い状況にあったのなら、何故俺たちに連絡してこなかったのだと。何故俺たちを頼ってくれなかったんだと。
今ならわかる、当たり前だ。ずっと会ってもいない、連絡もしてこない奴を頼れるわけがないだろう。そして、巻き込むわけにはいかないだろう。
ヒトシは高給取りのエリート会社員だし、エイジも起業して成功している。俺とマコトだって金が無いわけではない。四人で二千万だ、そんなのなっちゃんの事を思えば取るに足らない額じゃないか。俺たちならば、なっちゃんを救う事ができた。俺たちがしっかりしていればきっと、あの五人でまた、酒でも飲みながら笑い合う事ができた。
なっちゃんは死を選ぶ時、俺たちの事を覚えていただろうか。覚えていたなら、俺たちに何を思っただろうか。恨んでいただろうか。
普通だったらバスかタクシーに乗るような距離を、俺たちは歩き続けた。歩き続けてやがて繁華街まで辿り着くと、人通りも増え、自然と俺たちの会話も減った。休日の夜を謳歌する人々の笑顔ですら今は恨めしく、思わずその顔面に拳を叩き込んでやりたい衝動に駆られる。
マコトがふと足を止めた。どうしたんだろうと、ヒトシとエイジも困惑しながら立ち止まったが、俺だけにはマコトの行動の意味がわかった。そこは交差点だった。俺とマコトが最後になっちゃんを見た、あの交差点。
「どうしたんだよ、マコト……マコト?」
エイジの視線がマコトの方を向いたまま固まる。マコトの目からは、一筋の涙。それで、ヒトシとエイジも、何となく状況を理解したようだった。
抑え込んだ感情は、ある時何気ないきっかけで溢れ出してしまう事がある。マコトにとってはきっと、今がそれだった。声を押し殺しながら泣くマコトの両手で覆った顔から、とめどなく涙が溢れて地面に落ちていく。
ヒトシがマコトの肩をさする中、俺はもう一度交差点を見た。人通りの多い繁華街の交差点、確かあの時は、反対側のあの辺りになっちゃんがいた。横にいたあの男が、借金を残して逃げたという元旦那だったのだろうか。もはや顔もよく覚えていないその男に、憎しみと怒りが沸々と湧いた。
あの時なっちゃんと男は腕を絡め、横断歩道を渡って向こう側へと歩いて行った。その方角を見ると、様々な飲食店の看板に交じって、緑色の看板が目に入る。モスバーガーだった。
モスバーガーの軒先にはお勧め商品のポスター広告。そこにはジューシーなパティとトマトがフレッシュなレタスで包まれた写真と、「バンズの代わりに野菜たっぷり」というキャッチコピーが描かれている。商品の名前は“菜摘”。カロリーを気にする女性や糖質制限ダイエットをしている人にもおすすめの、モスバーガーの看板商品の一つだった。
「菜摘……」
俺は呟いた。“菜摘”、それはなっちゃんの本名だった。
「菜摘!!!!!!」
ポスターに駆け寄る。ヒトシ、エイジ、マコトもそれに続いた。何度も何度も「菜摘!」となっちゃんの名前を叫びながら、ポスターにしがみつくようにして俺は泣いた。溢れる涙が止まらない。止まらな過ぎて、涙をすくって集めたらご飯が炊けちゃうような水分量だった。もしご飯が炊けたら、“モスライスバーガー”も作れるなと思った。
四人でひたすら泣き腫らし、通行人に不審な目で見られても構わずに泣き腫らし、流石にモスバーガーさんの迷惑になってはいけないと思って「菜摘!」と十回叫ぶたびに一回ずつ「美味しい!」と叫んで宣伝も怠らずに泣き腫らした。
どれほどの時間泣いていただろうか、気付くと俺たちの横にモスバーガーの店員が立っていた。怒られると思った。既に菜摘のポスターは、俺たちの涙でぐしゃぐしゃになっていた。ところが店員は怒る事などまったくせず、それどころか俺たち四人を店内に招き入れた。
招かれるまま店内に入ると、夜のピークタイムのはずなのに、客は殆ど居なかった。まるで閉店後かのような静けさが店内を包んでいる。店内の様子を観察していたエイジがあ!と叫んだ。追って同じ方向を見た俺たち三人も、同じようにあ!と声を上げた。そこでは窓際の席で、黒柳先生がオニオンリングのLを頬張っていた。
「やっぱりあなた方もいらっしゃったのね」
俺たちに気付いた黒柳先生が、そう声をかけてきた。やっぱり、というのはどういう事だろうか。まるで俺たちがここに来るのを予測していたかのような言い分だ。
店内には俺たちと黒柳先生、そして先生の隣にいる知らない男性を除いて他には客は居なかった。という事は、この知らない男性もきっと何かの関係者なのだろう。
「私は土田と申しまして、生前、菜摘さんのカウンセラーをしていた者です」
カウンセラー?まさか遺体の第一発見者か?なぜそんな人物が、今この場にいるのだろうか。
「実は、菜摘さんが命を絶ったその日に、私の診療所宛にこの荷物が届きました」
ぱっちり二重が印象的な土田はそう言って、テーブルの上に一枚のDVDと、一通の手紙を置いた。
「これは、菜摘さんからの最後のメッセージです。手紙は私向けでしたが、このメンバーを集めて、ヒトシさんにこのDVDを再生して欲しいと書いてあります」
「俺が?」
ヒトシが驚いて言った。何故ヒトシなのかはわからなかったが、少なくともなっちゃんが僕らの事を覚えていてくれた事は確かだった。
土田が鞄の中から、DVDプレーヤーを取り出した。それを店員が手早く店内のモニターに接続する。DVDプレーヤーはやや古い形式で、フロント部分の左上には「HITACHI」とメーカー名が記されている。
これは声を大にして言いたいが、俺は日立の製品が大好きだ。国内には優秀な家電メーカーが沢山あるが、俺に言わせれば、それらの全てよりも日立の製品は上回っている。日立は、創業以来代々の社長を、技術畑出身の人物が務めている。だから、技術力を大切にするし、その製品には技術者の想いが詰まっている。日立の製品には、他にない情熱と温もりを感じるのだ。残念ながら日立は、今は家庭用映像機器からは撤退してしまった。だが今もこうして活躍を続ける当時の機器が、脈々と受け継がれるInspire the Nextの精神を我々に教えてくれるのだ。
緊張した面持ちで、ヒトシがリモコンを手に取った。ヒトシが再生ボタンを押せば、DVDに収録されたなっちゃんの最後のメッセージが流れ始める。なっちゃんの最後の想いが聞けるが、同時にそれがなっちゃんとの本当に最後のお別れになってしまう。
「いくぞ」
決心したように、ヒトシが再生ボタンを押した。暗転の後、すぐに画面上になっちゃんが現れた。
住んでいた部屋の中だろうか、なっちゃんの背後には茶色のクローゼットが見える。なっちゃんは笑顔だった。俺たちの知っている、あの頃の笑顔のままだ。なっちゃんは笑顔を絶やさぬまま、まず最初に黒柳先生に対するお礼を述べ、その後俺たち四人に一人ずつ語り掛け始めた。そこには懐かしい思い出話と感謝の言葉しかなく、俺たちへの恨みなど一つも感じられなかった。嗚呼、俺たちはこんなに良い子を見殺しにしたのかと、心臓の奥がまたぞくりと痛んだ。
「私は死を選ぶ事にしました、でも、不思議とワクワクしています」
笑顔のまま、映像の中のなっちゃんが言う。
「だって死後の世界って、死んだ人じゃないとわからないから、何があるかわからないから、だから私、とってもワクワクしています。私にとってこれは、人生史上最大の“冒険”なんです」
冒険、か……
なっちゃんは活発な女の子だった。よく「冒険だ!」と言っては俺たちを引き連れ、近くの山や林へ行って遊んでいた。あの頃の思い出が蘇ってくる。
「ねえ、これなんだと思う?」
なっちゃんが小学生の俺たちに問いかける。見ると、林の中に、今にも崩れ落ちそうな朽ちかけた廃墟があった。
「学校かな?」とマコトが答える。「いや、これは鶏小屋ですよ、卵を採ってたんやね」とエイジが続いた。
「これは製糸工場の跡地よ、この中で蚕を育てて、絹製品を作っていたの」
なっちゃんはそうやって俺たちに色々な事を教えてくれた。なっちゃんと冒険に行くと、俺たちは新しいふしぎを発見する事ができた。
そうだ、これは冒険なのだ。死は終わりじゃない、始まりだ。なっちゃんは、また大好きな冒険に旅立ったのだ。俺たちに新しいふしぎを届けるために。なっちゃんは死んだのではない、ミステリーハンターになったのだ。
「それでは最後のクエスチョンです。死後、私が地縛霊として取り憑くのは一体どこでしょう?」
そう言って、メッセージビデオは終わった。すぐさま、ヒトシが俺たちの方を向いた。
「という事で、彼女はこの後どこかに地縛するそうなんですね。一体それはどこか、というのが今回のクエスチョンです」
「それは僕らでもよく知っている場所、という事でよろしいですか?」
エイジがそう質問する。なんだか俺は勝手に懐かしい気持ちになった。
「まあ、場合によってはそう言えるかもしれませんね。それではお答えください、どうぞ」
ヒトシが左手を軽く上げ、解答を促す。既に黒柳先生のペンは動き始めていた。
あれから五年の月日が流れた。今でも俺は、なっちゃんの事を思い出すことがある。
この前、家の押し入れから中学校の時の文集が出てきた。その中に、各々が詩を書こうというコーナーがあったのだが、自分のページを読んで俺は、その恥ずかしさにそのまま文集をビリビリに破り捨ててやりたい気持ちになった。当時の自分は上手く誤魔化しながら書けたと思っていたんだろうが、それは明らかに当時の揺れる恋心を謳った詩だったからだ。おそらく、なっちゃんへの。
そこに書かれていたのは、こんな詩だった。
『この気持ちなんの気持ち 気になる気持ち 名前も知らない気持ちですから 名前も知らない気持ちになるでしょう』
―
僕がここまで妄想を膨らませている間にも、テーブルの四人は一向に何も喋らなかった。
いくら何でも静か過ぎると思う。椅子に座ったまま硬直する四人は、たまにキョロキョロと周りを見る為に首を動かすだけで、それ以外は微動だにしない。その様子が僕にはなんだかスーパーひとし君人形のように見えた。僕も含めた四体のスーパーひとし君は、たまに首をカラカラと動かしながら鎮座し続けている。
会話をしようと思っても続かない状況だった。ふとテーブル上を見ると、二桁の数字が書かれた札が立っている。すぐに出来上がらない料理があった場合に、後から運んできた店員がどこのテーブルに置けばいいのか見分ける為の、あの番号札だ。何とか会話をしなければならないと思っていた僕は、その番号札にもすがる様な気持ちで、
「あれ、そういえば誰かまだ注文が揃ってないんですかね」
と言ったが、他の三体のスーパーひとし君のうちの一体は「そうですね」とだけ言って押し黙り、他の二体はまたカラカラと首を動かすだけで、話が盛り上がるどころか、一体誰の注文が揃ってないのかすらわからない有様だった。
こうなってしまうと、無理して話を広げようとした自分が一番恥ずかしい。自分の足元がパカッと開いて、そのままボッシュートされたい気分だった。こうして更に四人は、沈黙のるつぼへと陥っていく。
嗚呼、神よ。モスバーガー座の天使よ。五千百度の炎でこのテーブルを僕らごと燃やし尽くしてはくれないか。全てを灰に変えてはくれないか。
ふと店内の奥を見ると、もう一方のテーブルでは四人のファン仲間が、楽しそうにお喋りに花を咲かせていた。向こうのテーブルも燃えてしまえと思った。
結局その一時間半ほどの食事会は、何の盛り上がりも無いまま終わりを迎えた。僕の隣に座っていた男が何とか場を盛り上げようと、「ファンになったきっかけは何ですか?」「好きな曲は何ですか?」等とベタな質問をいくつかしたが、他の三人は「〇〇という曲が好きです」等と、ほぼ単語でしか回答を返さない為まったく盛り上がらず、見かねた僕が何とかしようと相槌代わりに笑ったら、それが馬鹿にした笑いに聞こえたようで、「なんで今笑ったんですか?」と聞き返されるなど地獄絵図だった。
ライブの開場時間が近づいたので、そろそろ会場に戻ろうという話になって、ようやく僕たちは地獄から解放される事になった。当然その提案をしてきたのも、向こうのテーブルの面々だった。
荷物を持って立ち上がろうとすると、先ほどの番号札がまだ席の上に置いてある事に気付く。一時間半も居たのだから、まだ作っている最中というのはあり得ないだろう。店員が注文を忘れてしまったのだったらそれは気の毒な事だと思い、「結局これは誰の番号札だったんですか?」と問いかけたが、ついに四人とも手を挙げる事はなかった。注文は全員分揃っていたのである。言えよ!と思ったし、どこかで気付けよ!と思った。まあここまでのツッコミ全部、僕も含めてなのだが。
人生とは不思議な物だ。こんなトラウマ級の経験をしたのに、同じテーブルの三人とも、向こうのテーブルの四人とも、その後しっかりと仲良くなった。一緒にライブを見たり、地方のライブに遠征したり、それ以外でも飲みに行ったりバーベキューをしたりしたし、流石に全員とはいかないが、殆どと今でも交友がある。
とは言っても、あのテーブルに居た四人は口を揃えて「あの日は地獄だった」と言い、その後この『モスバーガー事件』は、番町皿屋敷ばりの鉄板怪談として、僕らの中で語り継がれている。
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