一、咲くは解語の花


 榠苒めいらんの朝は早い。


 しんと澄み渡る空気に鼻先をくすぐられて牀褥しょうじょくから身を起こせば、格子窓から払暁の空が見えた。


 起き抜けに手櫛で髪を整えると、小卓に備えた銀盤に瓶の水を注ぐ。静寂にとぽとぽ、と流れ落ちる音が耳に心地よい。堪らず榠苒の口から小さな欠伸が溢れ出た。

 昨晩は職務が立て込み、就寝したのは月が天頂にかかる時分だったろうか。


 気怠さが残る身体を叱咤して、波紋をたてる水面にゆるゆると手を割り入れる。一息に手柄杓で掬い取った手水で顔面を撫ぜれば、意識が急速に覚醒する。


 手巾で丁寧に水滴を拭い取り、水面を覗き込むと、映るのは艶やかな黒髪とつり目がちな瞳。やや腫ぼったい涙堂は化粧で誤魔化せる程度だ。格子窓から射し込む僅かな光と、水盤の向こうに控える虚像を頼りに髪を結って白粉を軽く叩くと、一瞬のうちに女官の顔になった。満足げに吐いた息が白く立ち昇る。


 気が付けば指先は悴んでいた。軽く握り拳を作り、全身を叩く。夜間に冷え切った四肢を解して体熱を呼び起こしていれば、背後では格子窓を掠めて風が房へと吹き込む。榠苒は反射的に腕を抱いてぶるり、と身を震わせた。冬を惜しみながら春を呼ぶという建卯月けんぼうげつの冷気は忍びやかに熱を奪ってゆく。


 身が凍えぬうちに腹を決め、そそくさと寝衣を脱ぎ去り、襦桾を身に纏うと胸元で腰帯を締めた。真朱しんしゅの上衣は官吏を、墨色の下衣は後宮に仕える者を示す官品である。そのまま流れる手つきで牀褥を整えると、榠苒は披帛ひはくを片手に房を出た。


 星辰を西に、光芒を東に。朝焼けの空は刻々とその色彩を移ろわせてゆく。女官の起臥の場である命婦院を後にした榠苒は、薄明を背に黒々と構える典膳院の軒先を潜った。竹窓から白い蒸気を漂わせるその建物は、御膳を一手に担う膳司の職場である。


 じんわりと肌を包むのは釜の木蓋を揺らす蒸気の熱。中では既に煮炊きが始まっていた。薪が爆ぜ、水が煮沸し、包丁が俎板を叩き――そこかしこで賑やかに音が跳ねる。合間を埋めるように忙しなく女官が働く中で、間柱の近くで麦を研いでいた女官が榠苒の姿に気が付いた。しばし手を止め律儀に礼をとる。


「榠苒様。おはようございます」

「おはよう、菫禾きんか


 齢十七の少女は膳司に務める女嬬にょうじゅ――下級女官である。擦り合わせた手にはあかぎれが目立つ。榠苒の視線が注がれていると知るや、照れ臭そうに背に隠した。


「朝餉ですよね。ちょっと待っていて下さい」


 言うが早いか、菫禾は沓音くつおとを鳴らして木製の椀を取りに走る。その先には火にかけられた嵩高かさだかい大釜。ぐつぐつと煮立つその中をへらで掻き回す女官に声をかけた。


 職務に就く前に女官は典膳院で朝餉を食すのが一般である。命婦院から出仕する百の女官の胃袋を握る大釜は今日も赤褐色の鉛釉えんゆうを艶めかせていた。


 年嵩の女官は一度、榠苒の方を向くと、会釈を返して釜の中身をひと掬い盛る。濛濛もうもうと湯気が立ち登るのが遠目にも分かった。


「今日は生姜の麦粥だそうです」


 舞い戻った菫禾が、えくぼを湛えて椀と匙を差し出す。

 確かに程良く潰れた麦に隠れるようにして、ちんまりと淡黄檗うすきはだの欠片が見える。他にも西域で取れた菠薐草ほうれんそうや輪切りにした蕃椒ばんしょうが入っており、目にも鮮やかだ。


 促されるままに口に運べば、熱気と共に生姜の匂いがふわりと広がる。繊維の破砕される感触と麦の弾力が程良い調和を生み出して、咀嚼を誘った。後を引く蕃椒の辛味。その裏に隠れているのは鹹味かんみだろうか。菠薐草の素朴な味が二つを絶妙に絡ませている。

 嚥下すれば身体のうちがほんわりと温まる。起きしなにも優しい味わいだ。


 舌鼓を打ちながら横を見やれば、菫禾の物問いたげな眼差しとかち合った。躊躇いがちに彼女は口を開く。


「……お味は、いかがですか?」

 その声音はどうにも頼りない。

「美味しいですよ。身体も温まりますし」


 問われて榠苒は匙を置き、率直な感想を述べた。

 鮮やかな見た目と遊び心のある味に加えて、冷える身体を労わった食材選び。質素だが充分に配慮がなされた一品に、榠苒が難を打つ隙はない。けれども、菫禾の顔が晴れる様子はなかった。


「そうですか……」

「どうかしましたか」

「あ、えーっと……」


 怪訝に思って榠苒が声をかければ、きまりが悪そうに言葉尻を濁して俯いてしまう。根気強く先を促す榠苒に観念したのか、しぶしぶといった体で菫禾は言葉を続けた。


「……榛瑋しんい様が食膳に手をつけていらっしゃらないそうで。調味料を変えたり、茉莉花で炊き込んだり、色々と手は尽くしているんですけれど」


 昨日は甘味さえも口にしなかった、と菫禾は沈痛な面持ちで目を伏せる。得心した榠苒は深い頷きを返す。脳裏には褐色の少女が過った。


 榛瑋とは南方の鴻越こうえつから皇太子の後宮――秋宮に先頃召し上げられた末姫の名だ。齢十五と若年だが、慣れぬ言葉を懸命に操り、入宮に際して気丈に振舞っていたと記憶している。

 ともすれば――。


「慣れぬ土地に気鬱を来したのやもしれませんね。朝課の後、伺ってみましょう」

「お願いします」


 菫禾はこいねがうように手を合わせた。その様は病床に伏す弟妹に心を砕く姉のようでもあり、榠苒の目には微笑ましく映る。


「あの……榠苒様」


 両者の会話が途絶えた間隙を縫って、徐ろに入用の女官が進み出た。ところどころ灰で黒ずんだ白磁の空壺を細腕に抱いている。


「ーー尚食長から相談したい議があると」


 尚食とは膳司と薬司を統括する機関である。察するに、今しがた話題に出た榛瑋についてだろう。和藩を推し進める燈において、迎えた姫が蔑ろにされたとあっては外聞が悪い。たとえ当人が望まざろうとも、口にしてもらわねば由々しき事態だ。


 首肯した榠苒が椀に残った粥を綺麗に平らげるのを尻目に、肩越しに女官は菫禾を見遣って、目だけで間柱を指し示す。どうにも本務は菫禾にあるらしい。


「それと、菫禾。炊き上がったから次の麦もらえる?」

「あっ!」


 その言葉に弾かれたように菫禾が背後を振り返った。白濁した水を溜める平桶には研ぎ途中の麦が沈んでいる。傍の麻袋はぼってりと肥えており、中は半分も減っていないだろう。みるみるうちに青褪める菫禾を見兼ねて女官が小さく溜息を吐いた。


 朝餉の支度のみならず昼餉の下拵えも兼ねる早朝の厨事は常にてんやわんやだ。秋宮の枢要を担う職掌である代わりに、総てを手際良く熟す器量が求められる。その末席に連なる以上は菫禾も例に漏れぬ働きをしなければならない。


 それならばと、女官は手元の壺をやおら地に下ろすと「終わったら声をかけて」とだけ言い残して他の持ち場へ助太刀に入っていった。


 その背をあわあわと両手で桶の水を掻き回しながら見送る菫禾に朝餉の礼を述べ、榠苒は空の踵を返して洗場に戻す。名残惜しさを断ち切るように、あっさりとした後味は吐息の中で散っていった。

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色は思案の外 〜燈国後宮譚〜 黎(レイ) @Rei_isabel

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