色は思案の外 〜燈国後宮譚〜

黎(レイ)

序章


「彼女はね、とても綺麗な目をしているんだ」


 アイシャが静々とへやの中央に跪いて拱手の礼をとるなり、男は睦言のように甘く囁いた。


 ――まただ。また、彼は。

 かつての片鱗をほろほろと削り落としてゆく男に、アイシャは唇を固く結ぶ。どうにか心を落ち着かせるべく、瞼をゆっくりと閉じた。受薀を、想薀を、行薀を――あらゆる感覚を自分の奥底へとぎゅうぎゅうに押し込む。感情を削ぎ落とせば、無のままに表情が固まるのがわかった。


「碧空のように澄み渡っていて、蒼海のような慈愛を湛えているんだ」

 嫋やかに詩吟して、男は夢想の女を搔き抱いた。頬が触れ合う瞬間、蕩けるように破顔する。


「ああ、茉莉花の匂いだ」

 すんすん、と香りを辿って男は訥々と語る。


 風に靡く美しい髪。

 顔立ちを際立たせる柳眉。

 月の姫と見まごうが如く、白く瑞々しい肌。


 止まぬ形容の嵐に、しかし、男の表情はくぐもっていた。手負いの獣じみた荒く浅い息を繰り返し、宙空を睨め付ける。釜で煮立った湯水にも似た激烈な憎悪が男の端々から湧きたっていた。


 かつての男が決して浮かべたことのない表情だ、と片隅で思考してしまう己を追い払う。


 椅子から腰を浮かし、およそ痩躯に見合わない重々しい足取りで、男がずんと踏み出す。歩みのままにアイシャの眼前まで迫ると、その肩を掴んで引き寄せた。


「あの子は僕といるべきだ」


 男の手に少しずつ力が籠った。発する言は己に言い聞かせるようでもあった。布越しに食い込む指先がぎしぎしと柔い肩を軋ませる。押し寄せる重い痛みを、ひたすら奥歯を噛み締めて耐えた。果たしてそれが肉体的な痛みなのか、それとも別の何かであったのか――アイシャは理解しようとはしなかった。


「僕なら彼女を幸せにできる。彼女を笑顔にできる」


 じっと見据えた瞳が、鬼気迫る双眸とかち合った。瞳孔が開き、深淵が覗く。暗い焔を灯すその奥に、アイシャではない人影を見た。


「市場で熟れた果物を食べよう。スモモがいいかな。茘枝ライチも好きだろう? 西の隊商から綺麗な瑪瑙を買って簪を作らせるよ。支柱は金にして、きっと髪に映えるからさ。……ほら、僕なら彼女を幾らでも喜ばせてあげられる」


 男は矢継ぎ早に言葉を並べた。指折り数えて、虚ろな目が僅かに嬉々とする。


「彼女は、僕の隣で笑うべきなんだよ」


 男は不器用に右の口角だけを引き攣らせながら笑んだ。そして、追い縋るようにアイシャの首元に顔を埋める。茉莉花の甘やかな香りが鼻腔を掠めて消えていった。我知らず抱きとめそうになった両腕を、慌てて背後に隠す。


 どれくらい、そうしていたのだろうか。


「なのに!」


 突如。世界が大きく揺れた。視界が明滅して、息が詰まる。

 男が力任せにアイシャの体を揺さぶったのだ。首を固めていなかったために、頭部が大きく振られて眩暈がする。


「あいつが奪ったんだ! 俺と、彼女との未来を! あいつが!」

 男が感情のまま吼えるたび、飛沫が顔面に降りかかる。眼前の絶叫に耳はじんじんと痛んだ。

 激情の怒濤に飲まれ、胃臓はひっくり返り、酸っぱいものが込み上げる。


「どうして彼女が後宮なんかに閉じ込められなければならない!?」

 瞬きも忘れ、地の底から湧く声で男は嘯く。眼窩から零れ落ちそうな程に眼球は露わになっていた。


「自由もなく、権威を飾る装具にされ、慰みもののように扱われる日々に彼女は耐えられるのか? あの山楂サンザシみたいに可憐な彼女が――」

 自ら言葉にしたせいか、感極まって男の声が震えた。咄嗟に言葉を切って、深く息を吸う。込み上げてきたものをひた隠すように、身体を満たすまで深く。


「……きっと嘆いている」


 不意に肩から男の手が外れる。支えを失い、アイシャは背後から床に崩れた。

 緊張で強張った四肢に鞭打って身を起こせば、ふらふらと椅子に戻る男の姿があった。なおざりに座面に投げ出された身体はひどく憔悴しているようにも見える。


「なあ、アイシャ」


 かつての彼を彷彿とさせる穏やかな声。男は疲労が滲む顔で宙を仰いだ。そのまま大きく鼻で息を吐き出すと、背筋を正して向き直る。その瞳の中に、初めてアイシャの姿を認めた気がした。


「奪われたのならさ」

 そして、男は言葉を続けた。

 凡そ言動に似つかわしくない安堵の表情を浮かべて。


「――奪い返せばいいんだよね?」

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