第5話 めくるめくガリレオの夜へ
どうして此処にいるのだろうか――。
それは別に哲学的な袋小路に行き着いたとかそんな高尚なものではない。
と、言いたいところだが今回は少し事情が違うと思って戴きたい。
僕、つまり神田川良一は悩んでいた。
何に悩んでいたかと言うと、文化祭の屋台の看板についてだ。
屋台でやることになった『新世紀科学喫茶』という名のオープンカフェの看板に我らのサークル名である『ナイト・オブ・ガリレオ』のロゴを英語で入れようと思っているのだが、綴りがわからないのだ。特に引っ掛かるのは『ナイト』の部分である。他の部分など辞書を調べればいくらでも何とかなるのだがこの部分だけはどうにもできない。
候補として僕は二つの可能性を考えている。
つまり、『騎士』を表す、『 Knight 』か、もしくは『夜』を表す『 Night 』か、どちらかのはずだ。
訳としてはかの有名な科学者であるガリレオを守護するものというニュアンスで『ガリレオの騎士』、または、ガリレオにあやかった会合としてのニュアンスで『ガリレオの夜』と、どちらも洒落たネーミングとして通りそうなのだ。
だから、僕はこの問題について三日三晩考え込んだ挙句、ガリレオのメンバーに相談してみることにしてみたのだった。
僕はまず堀川君と篠町さんに聞いてみることにした。
堀川君と篠町さんは、昼休みはたいてい二人連れで大学の食堂にいる。行ってみると二人はすぐに見つかった。目立つ二人なのだ。僕は二人に声をかけた。
「え?ガリレオの綴りですか?」
堀川君がなんだか身体中がしびれているようなぎこちない動きで定食を食べながら言った。筋肉痛か何かだろうか。
「そんなもの、結成当初からメンバーの神田川さんが一番良くご存知じゃないんですか?」
篠町さんが不思議そうな顔で聞いてくる。テーブルを見ると、空のどんぶりがひとつ置いてあった。恐らくはうどんか何かを食べていたのだろう。堀川君に比べて動きが軽そうだ。
「それは、そうなんだけど、わかんなくて。」
「なるほど。あたしは『夜』のような気がするけど、それなら結成当初の他のメンバーを当たってみた方がいいかもしれませんね。」
篠町さんが、はきはきと自分の意見を言った。なんだか妙に動きの鈍い堀川君の代わりを務めているような感じだ。
「堀川君、今日はなんでそんなに鈍いの?」
僕はとうとう堪えきれなくなって本人に聞いてみた。
「昨日、誰かさんに付き合ってハーフマラソンしたんです。おかげで全身筋肉痛ですよ。」
堀川君は横目で篠町さんをちらりと見ると、ぎこちなく笑いながら答えた。
「ところで茜音はなんで『夜』だと思ったの?」
堀川君がポテトサラダを非常にゆっくりと口に運びながら篠町さんに尋ねた。
「だって、なんかファンタジックな感じがするかなぁとか思ってしまったのだよ。」
「なんか茜音が言うとどちらかというと『ファンタジスタ』に聞こえるな。」
「どういう意味?」
「サッカーではある種の褒め言葉だ。」
またいつもように二人の掛け合いが始まったので、僕は邪魔をしないように早々に退散することにした。
学生食堂を出て、経済学部棟に向かう途中の法学部棟を通りかかったところで、僕は一回生の水橋君を見かけた。
「やあ。水橋君。元気?」
僕が声をかけると水橋君は驚いたように振り向いた。
「ど、どうしたんですか?部長。」
「経済学部棟に行こうと思っていたらちょうど君を見かけてね。」
「あの、経済学部棟は反対ですよ?」
そういえばそうだった。どうもこの大学は広すぎていけない。すぐに道に迷ってしまう。
「ところで妹さんは元気?」
僕はちょっと気まずくなったので、この間来ていた彼の妹の話題に転換することにした。
「えぇ。なかなか元気しているみたいですよ。よくメールも来るんですよ。」
水橋君はなんだか嬉しそうに話し始めた。彼はこう見えて結構、兄バカなところがあるのだろう。
「それは良かった。また気が向いたら皆で一緒に何か食べに行こう。いつでも歓迎するよ。」
僕は軽く微笑む。
「じゃあ、彼女に宜しくね。」
僕は片手を上げて水橋君に背を向けて歩き出そうとしたところで、はたと足を止めた。
そういえば聞くことを忘れていた。
「あ、そうだ。水橋君は『ナイト・オブ・ガリレオ』の綴りはわかる?」
「綴り、ですか?あ、『夜』か『騎士』か。なんかどちらもしっくりきませんね。もしかして日本語かもしれませんよ?『内藤・小部・ガリレオ』みたいに結成当時のメンバーの名前を書き連ねてあるだけとか。」
確かに一理ある。が、結成当時のメンバーである僕は内藤も小部も知らない。
「まぁ、結成当初の人に聞くのが手っ取り早いと思いますよ?それじゃあ失礼します。」
水橋君はそう言うと片手を挙げて法学部棟に入っていった。
そういえば彼の出身高校はなんて名前だったっけか。僕は何故かあまり関係のないことを思いついた。
「あら神田川君。」
経済学部棟の近くを歩いていると、工学部の舟越さんに声をかけられた。
舟越さんもまた、僕と同じく結成当初からのメンバーなのだ。だから僕は例の件について聞いてみることにした。
「舟越さん、『ナイト・オブ・ガリレオ』の綴りってわかる?」
「え?あぁ、そういえば私も知らないわ。う~ん。先輩なら知っている人いるかもしれないけれど・・・。」
そう言うと舟越さんは腕を組んで考え込んだ。
「先輩って、誰がいいかな?」
「それがおかしいのよね。さっきから考えているのだけれど一人も思いつかないのよ。確かに先輩はいるはずなのだけれど誰一人として名前が出てこないのよね・・・。もう歳なのかしら。」
舟越さんがため息をつきながら言った。
「僕も思いつかないなぁ。」
そう言えば、そもそもサークルの先輩など僕にいただろうか?だが舟越さんはいると言っているのだから、きっとそうなのだろう。
舟越さんが上品な仕草で軽く頬に手などを当てながらまたため息をついた。
「じゃあ、次のミーティングまでに少し調べてみることにするわ。」
「宜しく。それじゃあ今度、いつものところで。」
僕は軽く微笑んで舟越さんと別れた。
次の日の午後、僕達はいつものファミレスでミーティングを始めた。
またいつものようにみんなでドリンクバーと適当な軽食を頼んだ。いつものように堀川君を篠町さんが引き摺りまわして、そしていつものように二人してよくわからない飲み物を独自で調合して帰ってくる。
「で、結局、綴りはわかったんですか?」
堀川君がメロンソーダとイチゴジャムを足して二で割ったような不可解な匂いのする飲み物を片手に待ちながら尋ねてきた。それなのに炭酸ではないのがなんだか面白い。
「いいや、まだなんだ。」
僕は小さくため息をついて答えた。
「私もちょっと調べてみたのだけれど、全然わからないの。」
舟越さんが湯気のたつ紅茶カップを片手に、上品に頬に手を当てながら、はう、とため息をついて言った。
「そもそも、この名前って誰が考えたんですか?」
篠町さんがコーラとアップルティーとジンジャエールとコーヒーを全部足してオレンジジュースと乳酸飲料で割ったような奇妙な色合いの異臭を放つ謎めいた液体の入ったコップを片手に尋ねてきた。毎回思うのだがこの娘はいったい何を飲んでいるのだろう。
「それがわからないんだよね。誰が名前を考えたのかすら。」
僕はどちらかというと篠町さんが飲んでいる液体の名前の方が気になったが、話がややこしくなりそうだったので考えないようにした。
「だから、いっそのこともう僕の方で決めちゃおうかなとか思ってるんだけど。」
僕はオレンジジュースをテーブルの上においてみんなを見渡した。
「それなら、全部大文字にして『夜』の方にしたらどうです?『NIGHT OF GALILEO』って感じで。」
大沢さんが近くにあった紙に綴りをさらさらと書きながら言った。
「これなら、もし文化祭に先輩が来て間違いだってことがわかっても後で大文字の『K』を足せば何の違和感もないですし。あとで消すよりはずっと楽ですよ。」
「でも、日本語だった場合には?」
水橋君が噛み付いた。
「そんなわけないでしょ。」
大沢さんが呆れたように言った。
「いいやわからないですよ?」
水橋君も反論する。
「だったら全部カタカナの方がいいかもしれませんね。」
大沢さんは手元にあったフライドポテトをひとつつまんで僕を見た。
「そうね。無理に英語に拘らなくてもいいかもしれないわ。」
舟越さんが合いの手を入れる。
「あのぉ、僕はそれよりも屋台名の『新世紀科学喫茶』って言うのを何とかして欲しいんですが。」
堀川君が半眼になりながらため息をついて言った。
「え?なんで?いい名前じゃない。ねぇ舟越先輩?」
篠町さんがきょとんとしながら言う。それに対して舟越さんはまた頬に手を当てて、はう、と上品なため息をついて答えた。
「そうねぇ。なんだか新世紀の科学喫茶って感じがするわ。」
「そのままじゃないですか!それに『科学喫茶』って意味わかんないですよ!」
「それはね。科学の粋を凝らした喫茶店だからだよ。」
僕が人差し指をひとつ立てて教授を気取りながら説明した。
「何が『科学の粋を凝らした』ですか!紙コップに『びぃむ』とか『ふらぁれん』とか書いてあるだけじゃないですか!科学への冒涜だぁ。ってこれ前も同じ展開でしたよねぇ!」
堀川君はそう叫ぶとそのまま頭を抱えてうずくまってしまった。いったい何が気に入らないのだろうか。
「じゃあ、まぁ、文化祭関連はそういうことにしようか。」
僕はまだ頭を抱えている堀川君を尻目に話題を切り替えることにした。
「他に何か聞いておきたいことってある?」
「あぁ、そういえば先輩。」大沢さんが手を挙げた。
「今度の合宿ありますよね。それ関連の提出書類が明日までに〆切なんですけど、ちょっといいですか?」
「うん。何?」
「どうも大学の名前も出さないといけないみたいなんですよ。うちって大学公認サークルではないじゃないですか。出しちゃってもいいですか?それとも事情説明します?」
「面倒くさいし、いいんじゃないかな?書いちゃっても。何か言われたら、自分の所属大学だって言えば多分大丈夫だよ。」
「わかりました。じゃあ今、書いておきます。え~と。」
大沢さんはそう言うとかばんの中から書類を出した。
そしてふと手を止めた。
「ごめんなさい。なんだかど忘れしたみたいです。変なことを聞いてもいいですか?」
「うん。どうしたの?」
「あの、ですね。うちの大学の名前って何でしたっけ。」
大沢さんがそう言った瞬間、みんなの動きが止まった。
そう言われると大学の名前が僕も思い出せなくなった。何かというと『某大学』ってことで通していたはずなのだが、そのせいか、具体的には全く思い出せない。
「そういえば、私もわからないわ。」
「オレもです。」
「・・・僕もだ。」
「なんで?あたしもわからない・・・。」
みんなが口々に顔色を蒼白にして呟いた。
どういうことだろう。これではまるで・・・
最初から設定されていなかったようではないか?
喩えるなら、この世界を創った誰かがいたとしてその創造主が設定していなかったようではないだろうか。
ただの喩えだ。しかし、この不可思議な記憶の集団欠如を表すにはこれ以外の言葉が思いつかないのだ。そうでなければ、みんなが自分の通っている大学の名前が思い出せないなんて馬鹿な話があるか。
みんな?
みんなって誰と誰だ。
僕と、堀川君と、篠町さんと、大沢さんと、水橋君と、舟越さんと、
あとは・・・
いや、なんだか他にもいるような気がする。
気がするがわからない。
出てきていない。
出てきていない?どこに。
僕は、いったい何を考えている?
「そういえば、自分の通っていた高校がわからなかった・・・。」
今、しゃべったのは誰だ?なんとなく水橋君のような気がする。
何故、水橋君だと思った?
どうやって、僕は水橋君だと判断した?
声か?声なんて聞こえたか?
会話の内容で判断したのか?
目の前には堀川君がいる。
堀川君の持っている飲み物の匂いはわかる。
だが、座っている椅子の色やテーブルの色がわからない。
他の者も同様だ。
なんだ?この現実感の無さは。
名前のわからない大学。
どんな場所かもわからないファミレス。
今、誰がいるのかもはっきりとわからないミーティング。
各自が知っていなければならないはずの記憶の欠如。
そして、名前の由来すらわからない謎のサークル名。
そもそも
どうして僕達は此処にいるのだろうか。
まさか。
まさか先程の喩えは本当だと言うのか?
本当に、この世界を創った誰かがいたとして、これら全ては創造主が設定していない事柄だとでも言うのだろうか?
いや、創造主という概念ぐらい現実問題どんな世界でもいるだろう。人間は元来それを考えずにはいられない生き物なのだ。そんなことは大したことではないはずだ。
だが、彼らは何故、僕らが住むべき造形までもを設定していないのだ?
そして僕達はどうしてこんな世界にいるのだろうか。
そうか。
僕は気がついてしまった。
そうか、此処は――
小説の中の世界なのだ。
そして僕達は小説の登場人物なのだ。きっと、この世界の外には、この小説を書いた、この世界の創造主がいるのだ。そして、創造主である彼、もしくは彼女が、『ナイト・オブ・ガリレオ』というサークル名を創ったのだ。僕達の活躍の舞台装置として。
小説の中の世界だから具体的な描写のなされていない部分の現実感がまるでないのだ。具体的に何人、どんな形、どんな色、全て設定されていなくても世界が成り立つのだろう。
こんな話を堀川君達にしたら、そんなわけがないと笑うのだろうか?
だが、それ以外にこの世界を説明することができるだろうか?
だから、僕は堀川君達に、具体的に名前を出した堀川君以外は輪郭のぼんやりとした人物達に、自分の考えを説明し始めた。
色すらもわからないファミリーレストランの窓から見える外の風景は、もう日が暮れていて夜が始まっていた。
めくるめく、『ガリレオ』の夜だ――。
※※※ ※※※ ※※※
片山兵吾はキーボードを打つ手を止めた。
マウスでアイコンをクリックし、これまでに書き溜めた小説を保存し、添付ファイルにしてメールソフトを使って出来たばかりの原稿を出版社に送信した。
どうにもメタな展開になってしまった。片山が創造した世界に存在する片山自身が創造した人物たちが、自らが片山によって創造された小説内の人物であると気付くという筋書きだ。だがこれはこれでよいだろうと思う。
作中で彼らは、事情は其々に異なるものの、常に『どうして此処にいるのだろうか?』と疑問を持って日常を送っていた。しかしながらその答えはいたって単純明快である。
それはその世界の創造主、つまり片山兵吾にとって都合が良いからである。
片山が創造した人物が描く日常と淡い恋物語を主体につらつらと書き始めたもののこのままでは収拾が付かなくなると思い、彼らにその存在が小説の中でしかないことを認識させることによって物語を収束させたかったのだ。それは片山の我が儘であったし、ある意味では、彼らの脆弱な幻想から解き放ちたいと言う創造主としての愛ゆえであったかもしれない。
とにかく、片山兵吾は、今書き終えたばかりのこの小説を以って、彼ら『ナイト・オブ・ガリレオ』の面々の活躍を描くことを止めることに決めた。それは別の方面では彼らの住む世界の消滅に他ならないのだけれども、これがもう既に一つの作品として成り立っている以上、止むを得ないことであろう。片山はもう、彼らの日常を描くことに小説としての限界を感じていたのだ。
片山兵吾はノートパソコンの電源を落とし、ディスプレイを閉じて煙草に火をつけた。
ニコチンが体内に充填されて束の間の浮遊感を味わう。少し落ち着くと片山は立ち上がって窓を開けて煙草の煙を外に逃がした。
外はもう暗くなっていて月明かりが煙草の煙を光らせてぼやっとしたチンダル現象を引き起こす。肌に触れる冷たい風はもう秋夜の風だった。
めくるめくガリレオの夜へ 完
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